scene-20
 
 結局、僕はドSは手を取らずに店を出て……ドSの案内でベースキャンプに向かっていた。ドSにストーキングをされるのも鬱陶しかったし、撒くのも面倒だったからだ。
 ベースキャンプと言うのは獄卒の休憩所みたいな物で、いまは安いビルを一個丸ごと借りているらしい。もちろん、ベースキャンプと言っても、ここからどこかに進軍するってわけじゃないようだ。
 僕の荷物はビデオ屋に置いたままだったが、ベースキャンプの場所がビデオ屋の近所だったので、こっちに住むのなら後で取りに行けいいと思った。
 道中、思い出したようにドSが聞いてきた。
「ところで、その犬君の名前は何と言うのだい?」
「僕の犬じゃないから知らんよ。っていうか、名前なんかあるのか?」
 言いながら後ろを歩く黒柴の方に目を向ける。
「しかし、君と同居をするとなると飼うことになるのだろう?そもそも首輪もしていないのだから飼い主不在だろう」
「そんなの知らんし」
 飼い主の存在を知らんし、飼う気も無いという意味だったが……ま、通じないだろうな。ってか、そんな思いは無視されるのだろう。
「飼うなら名前くらい決めておくべきだと思うだよ」
「名前……ね」
 黒柴から視線を前に戻して、僕はぼんやりと考える。
「朽……クッキー」
 朽木と言い掛けて慌てて別の言葉で濁す。ってか、なんであの禿茶瓶の名前が出てくるんだよ。
「クッキーか。存外に可愛い名前だね。乙女チックな良い名じゃないか」
 瞬間、僕は派手な舌打ちを響かせた。
黒柴……クロだ。こいつの名前はクロだ」
「クッキーじゃないのかい?」
「クロ。クッキーは間違い」
「ふむ。クロもシンプルで素敵な名前だと思うよ」
 ……本気か?
 内心の苛立ちのまま前を歩く黒柴……クロを睨み付ける。
 クロは馬鹿にした目付きで振り返り、小さく鼻で笑うみたいにクシャミをした。
 腹が立ったので蹴る真似をしたら、ギリギリ僕の足が届かない距離で尻尾を振った。
 バ~カバ~カと笑われている気分だったが、まぁいい。犬如きに本気になったりはしないのだ。
 と、ドSが生暖かい目でこっちを見ていた。
「こっち見んな」
 ふふ、と薄く笑い「失礼」と必要以上に良く響く声で言いやがった。
 大人しくドSの案内で道を歩いていると、ふと路地の奥が気になった。
 何もない。ただの路地だ。誰も見向きもしない路地。ビルの裏口とゴミ捨て場があるだけだ。
 足を止め、何かに焦点を合わせるように目を眇める。
 ……何も見えない。が、何かある。
 何がある?わからない。わからないが、なにかある。
「君の目には見えないのかい?」
 不意にドSに声を掛けられ、驚いたように振り返っていた。
 信じられないくらい心臓が激しく脈打っていた。
「大丈夫だよ。あれはまだ無害だよ。と、言っても君にはあれが見えていないだね」
 ドSはいやらしい顔でほくそ笑んだ。
「いや、見えていないのではないな。目では見えているが、脳が解析できていないのだろう。その目は生来の物ではないのだろう?」
 そう聞かれ、僕はどうだっけ?と考えていた。
 頭蓋を移植した際に眼球も移植したのだろうか?以前と微妙に目の色が違っているような気もするが……。
 ふん、と鼻で返事をする事にした。
「目で見えているのに脳が解析できない。……頭が悪いのだね」
「ケンカ売っているのか。貴様は」
「失礼。……いや、本当にあれに関しては問題は無いよ。黴みたいな物だよ」
 カビ?
「天使と言う者もいるがね。だが、あれは黴と思ってくれて問題無いよ」
 さあ、行こう。とドSは歩き出す。
 僕は路地の奥をいじましく見ていたが、やはり何も見えないので諦めてその場を離れた。
 
 ドSが僕を案内したのは、小さな三階建てのビルだった。
 小さいと言ったが、それは階数だけの話で敷地面積は結構あるようだった。
 一階はキャンプ用品やサバイバルゲームの道具が売られるショップで、例のメイドカフェが二階。で、三階は職員の寝所だとドSは言った。
「で、この四階フロアが君の為だけのスペースだよ」
 両腕を広げ誇らしげにドSは言い放った。無駄に良い笑顔で。
「屋上じゃねえか!」
「ま、そうとも言うね」
「そうとしか言わねえよ。こんなとこで寝泊りしろってのか?」
「その点は問題無いよ。見た前。我が隊の最新式のテントとタープ、それに寝袋とコットもある」
 屋上のど真ん中に小さくはないテントが張られ、その前には布の天蓋が広げられたスペースがあった。
 天蓋の下には簡易テーブルとキャンプ用の椅子が広げられ、小さな焚き火台もセットになっていた。
 一階のキャンプ用品売り場から展示物を一式屋上に持って来ただけじゃないのか。
「気に入らないのかい?」
「いると思うのか?」
 と、僕が憤然と腰に手を当てているとクロが天蓋の中に入って行き、小さな犬用の椅子みたいなのにすっぽり収まった。ま、収まるまで三回転ぐらいしてたけど。
「気に入ったみたいだね」
 僕は忌々しそうに舌打ちをする。
「後、トイレとバスは三階の我々と共通で、犬君はお店に出る前にトイレを終わらせて置いてくれ」
「犬のトイレって、どうやるんだ?って言うか、そんなの出来るのか?」
「おむつをしてやると自然と出来るんじゃないのかな?で、出したら褒めてやると良いはずだよ」
 綺麗好きな犬だと家の中だとしたがらないので、散歩のときなどが良いらしい。犬の世話は飼い主の義務とドSは誇らしげに言った。お前、実はドMなのか?
「それと……」
 一階で渡されていた買い物袋の中身を簡易テーブルの上に広げる。
 ちなみに、ドSは一回り小さな椅子をなんかの道具箱の中から引っ張り出し座っている。僕は天蓋の下の元々セッティングされていた椅子に座る。微妙に天井が低いのが気になる。
 ドSは簡易テーブルの上にドサドサと怪しげな商品を並べている。
「これは?」
 いや、だめだ。聞くな。と脳が危険信号を発していたが、僕は聞かずにはいられなかった。だって、それは食べ物には見えなかったから。
 でも、この流れなら……キャンプ一式の寝泊り所の説明の後は、当然、その夜の食事ってなるじゃないか。でも、だけど、出されたのがモスグリーンの袋に怪しげなパウチだったら気になるだろ?
 普通の……僕のイメージなら、キャンプの食事はカレーが定番なんだよ。カレー粉にジャガイモ、人参、玉ねぎetc etc。最悪、レトルトのカレーと焚く前のお米のはずだ。
 それが何だ?何で怪しげなパウチやモスグリーンの袋になるんだ?
 もしかして、これは食料ではないのか?僕の卑しい勘違い?
 そう思っていると、ドSは真剣な表情で「これは我々の遠征用の食糧なのだよ」と言った。
「食料?」
「食糧……任務時に用いる携帯用の食料パックだよ」
 怪訝な顔の僕に説明してくれるが……正直、説明の続きを聞きたくないと思った。 
「先ず、これが……」
 500mlのペットボトルを前に出し、
「経口式栄養補給水SSS-r、だ」
 指先で弾きながら、何故か、視線を逸らした。
 スリーエスアール?って、何であっちを向いたままテーブルの端に避ける?
「ちょっと待て。何でそれそっちに避けているんだよ」
「ん?これかい?これは……まぁアレだよ。アレ」
「アレって何だよ?」
「これは非常に性能が良く、これ一本で一日分の栄養と水分の補給を完了し、活動が可能になるがくぁzwsぇdcrfvtgbyhぬjみk、おl。p」
「あん?今、早口で何て言ったんだ?活動が可能になるの後、何て?」
 ドSは僕の質問には答えず、にっこりと微笑んだ。
「君は知らなくて良いんだよ」
「そんな訳行くか!テーブルの上に毒物を置かれているかも知れないんだぞ」
「毒物か。……ある意味そうかもだね。何しろこれは一日分の活動が可能になる代わりに二日間行動不能になるからね」   
「毒物じゃねえか!」
 思わず叫んでいた。
「いや、丸っきり毒でも無いんだよ。獄卒なら体調が万全なら無事……かも知れないんだが」
 端にやったペットボトルをまた真ん中に持ってきながらドSは言う。
「一般人が飲めば、血圧が300mmHgまで跳ね上がる程度だよ」
「300って……どれくれいだよ」
「正常な数値が130mmHg以下が普通の最高血圧だから、まぁ鼻血を噴き出して脳の血管が破れまくるね」
「飲めるかあ!」
 思わず叫びながら立ち上がっていた。クロがうるさそうに僕を睨む。
「まぁ、それはともかく……これが経口式栄養補給水SSS-γだ」
 書体の関係か丸っきり同じに見えるんだが?アールとガンマの違いか。
「この経口式栄養補給水SSS-γは先のrの改良品で味が付いているのだよ。匂いもね。勿論、飲んでも大丈夫だよ」
 僕は胡散臭そうに経口式栄養補給水SSS-γを手に取る。キャップを開け、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「何の匂いもしねえぞ?」
「そんな事は無いだろう。かすかなアイソトニック飲料のような匂いがするはずだが?」
 ドSは僕の手からペットボトルを手に取り、軽く鼻を近付ける。
「ふむ。君の脳の具合の所為だね。微妙な匂いは脳が認識が出来ないのだろう。さっきの黴と同じだよ」
 獄卒じゃないと分からないほどの匂いなのか。じゃ、味も無いかもな。
 ドSからペットボトルを受け取り、一口飲んでみる。
 ……予想通り何の味もしない。
「何の味もしねえぞ。普通の水だ」
「そんな筈はないだろう?恐ろしく不味い筈なんだが。のた打ち回る程度には不味いだろう?それとも君は味覚も馬鹿なのかい?」
「ケンカ売ってるのか?」
 言いながらペットボトルを乱暴にドSに押し付ける。
 ふとドSが押し付けられたペットボトルを不思議そうに見ている。ゆっくりとその頭が丁度45度の位置で止まる。
「どした?」
「すまん。許してくれ。これは経口式栄養補給水SSS-rだ」
 僕は大声で叫びそうになった。叫びたかった。毒の方じゃねえか!と叫びたかった。
 しかし、僕は両手で口を押えたまま何も言えなかった。
 その僕の鼻からどろりとした血が指先に流れていった。
 ゆっくりと視界が歪み、指先から手の甲に伝う血液の生暖かさを感じていた。
 白く霞み歪んだ世界でドSが歪んだいやらしい笑みを浮かべていた。
 ちくしょう。騙したな、この野郎。
 助けを求めるようにクロを見る……と、クロもんだ笑みを浮かべていた。
 犬っころめ。人間を嘲笑うんじゃねえ。
 白く歪んだ世界が一瞬で闇に染まった。
 暗転って、本当に真っ暗になるんだ?
「本当に、許してくれ給え」
 誰かがどこか遠くで囁いていた。