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Act −003
早鐘のように鳴り響く胸を押さえ、私はコンビニの自動ドアが開くと同時に店に飛び込んだ。
信じられない。と言うか、びっくりした。
家までの近道に公園を横切ったら、そこで別れ話の真っ最中だった。いえ、正しくは、別れ話の始まりだった。
「別れましょう」
真っ直ぐな瞳をした女性だった。言われた男の人の方は呆然としてたけど。
信じられない。
もう一度、背後を振り返り、コンビニのガラス越しに夜の、影のような公園に目を向ける。
小さな影のような、街の落とし穴のような、そんな印象がここから見る夜の公園にはあった。そこで今も別れ話は進行中なのだろうか。
あの氷のような、それでいて触れれば火傷しそうな……そう、ドライアイスのような瞳を持った女性。
私はぶんぶんと頭を振って、自分を落ち着かせるように深呼吸をした。
でも……誰も居ない店、だな。あ、店員さんはいるか。
買う物も無いのに入った店内は、人影も無く閑散としていた。店員のお兄さんは、私を無視するようにそっぽを向いているし。
このまま何も買わずに店を出るのは変かな、と思ったけど、そんな遠慮は無用な雰囲気を感じる。って言うか、仕事をする気が全く無いような店員の態度に、ちょっとムカつく。
真面目に働けよ。
心の呟きを気取られないように俯いて、私はコンビニの自動ドアを出た。
そして、私はミスタードーナッツの前で足を止める。
今、二階席へ上がって行った男の後ろ姿に見覚えがあったからだ。って言うか、知っている男だった。
私はスカートのポケットから携帯電話を出して時刻を確認する。
夕食前の時刻である。
そんな事は時間を見なくても分かる。分かるけど、怒りの余りに時計を確認せずにはいられなかった。
携帯電話をポケットに戻し、早足に店内に入る。
店員さんの「いらっしゃいませ」の声も無視して、二階への階段へと向かう。
そして、人影もまばらな中で、独り静かにテーブルに着く男を見る。
二階のど真ん中の席で、男はテーブルに肘を着き、組んだ両手で口元を隠すように……私を待っていた。
男のテーブルの前には、三つのドーナツ、おかわり自由のコーヒー、それに五百円玉があった。
「……よく来た。そこの五百円で好きな飲み物とドーナツを買ってくるがいい」
よく通る声で男が言い、「でなければ帰れ」と付け足すように言い放った。
「お父さん……」
私は呆れたような声を意識的に出し、呟く。…・・・が、それを大袈裟に鼻で笑い、
「周りを見てみろ。……そんな大きな声を出していいのか?」
と隠した口元を笑みで歪めて言った。
くっ……私が極端な人見知りと知っての、余裕の発言だった。と言うより、ミスタードーナッツへ入る前から私の存在に気付いていたのか?侮れない奴。
私は父の向かいの席に学校指定の鞄をどっかと置き、テーブルの上に置かれた五百円玉を奪い取ると、音がするほど派手に背中を向ける。
また鼻で笑いやがったな?
苦々しく思いながら、私は一階へドーナツを選びに行く。
父は、普段から変人だがキャラが明らかに違っていた。また何かのアニメの影響だろう。アニヲタのクソ親父がっ!
ドーナツを二つと紅茶を買い、席に戻ると……もうキャラを演じる事に飽きたのか、父は普段の父だった。足を組んで座り、どこか優雅な空気を纏い、今は右の店の奥を見ている。
私は、ドーナツと紅茶の乗ったトレイを席に置き、
「何で、こんな時間にミスドに来てるのよ?」
と呟くように聞いた。
ん?と視線を戻し、詰まらない事を聞くなと言いたそうに父は口を開く。
「あぁ……あれだ、仕事……だな。うん、仕事」
今それ思い付いただろう!と襟首を締め上げたくなるが、それを顔に出さずに席に着く。
「はい。お釣り」
曖昧な返事をして、父は釣銭を受け取ると、そのまま上着のポケットに入れる。その洗濯機殺しの癖を苦々しく見る。だいたい父の物は、洗濯する時に全部ポケットを返して、必ず何も入っていないのを確認しなくてはならない。小銭や文庫本なら音や重さで分かるが、畳んだ紙に入れられた塩なんか分かるはずがない。清めの塩か何か知らないけど、そんな物をポケットに入れたまま洗濯に出す方が悪いに決まっている。
父は何も言わずにドーナツを食べている。その澄ました顔をグーで思いっ切り殴りたくなってくる。ま、私が殴ったところで効かないんだろうけど。
私は露骨なくらいに大袈裟な溜息を吐いてみせる。……が、父は相変わらずドーナツを幸せそうな顔で食べている。
「なぁ……」
ドーナツを手に父が聞ていくる。そして、なに?と聞き返す前に続きを喋る。
「このチョコファッションのチョコレート、少なくないか?」
知らないわよっ!って言うか、私の事無視して会話を進めているでしょう!!
その証拠に、父はチョコが少ないと言ったドーナツを美味しそうに食べている。
怒りに肩を震わせながら、私はテーブルの隅を見る。前を見ていると叫んでしまいそうであった。……怒りで。
「さて……と」
白々しく言いながら、父は席を立つ。
「もう行くの?」
「あぁ……時間だ。悪いが食べた物を下げておいてくれ。……それと」
何かを思い出すように父は天井へと目を向ける。
「三日ほど家を空けるが、戸締りを忘れるなよ」
「うん。いってらっしゃい」
「あ、そうそう」
歩き出した父を見送る私を振り返り、愉快な事を思い出したように父が言う。
「お前のお姉ちゃんが三人分の夕食を作っていたが、俺が居なくて、お前がドーナツを食っていて……さて、どうするんだろうな?」
「えっ!?」
「はっはっはっ……では、さらばだっ!」
言うが早いか、父はダッシュで階段を駆け下りる。って、店の中を走るなぁ!!
父が消えた後、「ありがとうごさいました」という店員さんの声が一階から聞こえてくる。私は唖然とその声を聞きながら、今は誰もいない階段を見つめる。
お姉ちゃん……どうするんだろう?
三人分の夕食を幸せそうな顔で作っている姉の姿を思い浮かべ、私は溜息を吐く。
そして、いつもの事だけど……父は、どこに行ったのだろう?
父の仕事を私は知らない。多分、お姉ちゃんの聞いても分からないだろう。普段は家に篭り切りで、一ヶ月か二ヶ月に一度だけ三日ほど家を空ける。居ないのが一週間になる事もあるし、二ヶ月連続の時もある。かと思えば、何か月もそれらしい動きは無く近所をぶらぶらと暇そうに散策している。
そう言えば一度だけ父に何の仕事をしているのか聞いたことがあるけど……その時の返事は、『退魔師』だった。でも、その時に読んでた本が退魔関係のマンガだったから嘘のはずだ。って言うより、そんな戯言は信じたくない。それよりも……
問題は、今日の晩御飯だった。
せめて、日持ちのする……そう、カレーとかだったら良いのに。
いつもより遅い時間に家に帰った私を迎えたのは……甘酸っぱいシャリの匂いだった。
夕飯のバラ寿司だった。
ちなみにバラ寿司は、姉のレパートリーの中では父が苦手する料理に名を連ねる。