scene-24
 
 下にあった血痕からすると、斬罪の執行者は学園の方に逃げていた。
 あっちへ逃げたのなら、また出会う可能性があるかもな。
 思いながら五階へと降りて来た僕の足は、それを前に動きを止めた。
 その奇妙な物は明滅するように躍動していた。そう、それは生物のように蠢いていた。
 彼女と耕ちゃんの、重なり合う二人の死体に出来たソレは生きているようだった。
 彼女と彼の死体には無数の大きな繭が出来ていた。
 いや、それ自体はそれほど大きくはない。バレーボールの球くらいだった。
 歪な繭、それが音もなく爆ぜた。
 小さな、いや、大きいのか?分からない。脳が認識を嫌がっているようだった。
 ソレは卵の殻を纏うように繭の破片を広げた羽に纏いつかせ、黒い空洞のような眼窩を僕に向けていた。
 胎児のような天使が産まれていた。
 しかし、天使?これが。この歪な生き物が天使だと言うのか?
 老木の朽ちたウロのような目が不気味に開かれていた。
 その目を見た瞬間、僕は引き金を引いていた。
 銃弾を受けたソレは無数の破片となって飛び散る。文字通り、爆ぜた。のである。
 翼の破片が舞い、胴体部の肉片が無数に飛び散る。
 肉片の断片は、ただ赤いだけの内部だった。内臓らしき物は無い。
 無数の肉片の周囲に赤い霧が漂っていた。
 これがドSが言ってた『黴』なのか?
 そして次々と繭が割れ出した。が、その後、彼女と耕ちゃんの死体がどうなったのかは知らない。
 僕は漂って来る霧の不気味さから、その場を逃げ出したからだ。
 あの霧に触れて、己の身体から繭が産まれるなんて耐えられなかった。
 一階に駆け下り、体当たりをして入り口のドアを開く。文字通り、転がり出た。
 訳も分からず走り出す。目的も何も無い。とにかくここから離れたかった。
 あの、赤い黴が僕の身体にも付いてるような気がして、どうしようもなく嫌だった。
 どれくらいの間、走ったのだろう。それを目の端に止め、僕はゆっくりと足を緩めた。
 どこにでもある児童公園だった。だが、ここにはあれがあった。滑り台が併設された砂場があった。
 取り憑かれたように砂場を見ながら、上着を脱ぎ捨てTシャツを剥ぎ取る。
 いや、冷静になれ。馬鹿な考えを捨てろ。そう思いながらズボンの前を外し、引きずり落とす。
 靴と靴下も脱ぎ、パンツ一丁になった僕は……砂場に向かってダイブした。
 若い女の子が昼間から半裸で砂浴びなんか、普通は通報案件だ。いや、昼間じゃなくてもだけど。
 だが、ここは地獄で誰も見てないし、何よりあの黴がどこかに付いていたらと思うと気が狂いそうだった。
 いや、公園で砂浴びをしている段階で僕は狂っているのかも知れなかった。
 そういや、公園の砂場は猫の公衆トイレだって言われたっけ。そんな事を思い出したのは、これ以上は無いってほど砂浴びをした後だった。
 パンツ一丁でぼんやりと曇った空を眺める。雲を流す風は無い。ただ曇ったガラスのような空があるだけだった。
 それは僕の知る空の風景じゃない。どうしようもない不自然さがそこにあった。
 移り変わる時間という概念があっても、ここの空は変わらないようだった。
 のそのと起き上がり、脱ぎ散らかした服を拾う。
 Tシャツを着て、ジーンズを履く。少し考えて……上着は捨てた。大丈夫だろうけど、あの霧が付いてたら嫌だからだ。
 同じ理由で靴も履かないでおく。
 ここまでの道は舗装してあったので、意思を踏まなきゃ問題はないだろう。
 上着を捨てるならジーンズはどうなんだと考えたが、半裸で帰る気にはなれなかった。
 
 店に帰ると裏口から入り、三階のシャワーへ迷わずに行く。誰にも会わなかったが、そんな些細な幸運が嬉しい。
 シャワールームに入り、ちょっと考えてから、これ以上は無理ってほど温度を上げてシャワーを浴びた。
「ひぐっ」
 喉の奥から変な悲鳴が出た。マジで火傷をしそうだったからだ。でも、これで黴も洗い流せるだろう。確信は無いけど。
 しまった。着替えとかを用意してなかった。シャワールームの備え付けは普通のタオルだけだし、バスタオルは……持って来なければ、無い。
 どうしよう?あの黴の事もあるから脱いだ服は絶対に着たくないし。ってか、さっき脱いだときにゴミ箱に捨てたっけ。
 ゴミ箱の中から出した服を着るのは絶対に嫌だった。
 男の時だったら迷わずタオルで前を隠して上がるんだが……女の子になってから変に恥ずかしくなったっていうか、気を使うようになった。
 裸で歩いたらダメだっていう固定観念?みたいなのが出来てきた。
 僕は平気だけど、世間的にダメだろうみたいな?
 まぁでも、無い物は仕方ない。タオルで前を隠して上がろう。
 さすがに熱湯はキツかったので、冷水に気に変えてクールダウンをする。嘘です。ぬるま湯です。
 シャワーから出ると知らない間に着替えが用意されていた。扉が開いた気配はなかったのに。
 実用的な作業用のズボンと黒のタンクトップとボクサーショーツが用意されていた。
 これ、着てもいいのか?
 誰か他の人のだったら不味いよな?
 疑問を顔に貼り付けたままシャワールームのドアから外を窺い見る。
 誰もいない。っていうか人の気配が全然感じない。
 どうするか?と悩んだ後、タオル一枚で上に上がる事にした。
 他人の用意した物を勝手に着るのもアレだし、誰もいないのら問題なく上がれるだろう。
 会っても堂々としてれば大丈夫だろう。知らんけど。
 
 テントに戻った僕は適当なボクサーショーツと黒のタンクトップに着替えた。
 用意してあった着替えと同じ格好を選んだわけでない。
 ズボンをどうすっかな。ゴソゴソと引っ張り出したズドンを見て、僕の顔は険しくなった。
 僕の手の中には作業着風のズボンが握られていた。さっき用意されてた服じゃねえか!
 地面に叩き付けたい衝動を抑えつつ、深呼吸をしつつ、諦めてズボンを履く。
 着替えが終わると、どっと疲れが出た。
 簡易ベッドに横になり、テントの入口を見る。開け放たれた入り口の向こうにどこにでもある屋上の風景が見えた。
 コンクリートの床。驚くほど遠くに感じるロープで干されたシーツ。
 クロは仕事中なんだろうな。
 あの犬と長い間会ってないような気がした。
 仕事が終わったら……たまには頭でも撫でてやろうか。
 って考えても、仕事をしてるのは僕じゃなくてあの黒柴の方なんだけど。
 マジでヒモだなぁ。


    scene-23

 真帆の姿が闇に消え、女子生徒の強い意志を称えた目が伏せられる。
 小さな溜息を吐き、彼女は振り返った。
「そろそろ出てきてもいいんじゃない?」
 反射的に僕は背後の壁に自身の身体を押し付ける。
 見つかった?って言うか、見つかっていた?
「出て来ないの?」
 と言葉と同時に拳銃が真っ直ぐ僕の隠れている壁へと向いた。
「分かった。出て行くから撃つなよ」
 ホルスターから拳銃を抜き、引き金から指を外し、両手を上に向けて姿を現す。
 白々しく溜息を吐き、僕は話しかけた。
「いつから気付いてた?」
「いつから?さあて何時からだろうね。ま、学園を出てからはチョロチョロしてたよね?」
 じゃ、最初っからじゃねえか。いやいや、ありえないって。
「一定の距離を保ったままスニーキングされたら、あ、誰か尾行してるって普通は思うでしょ」
「あ、あの……失礼ですが、生前のご職業は?」
「警察官。あ、刑事とかじゃないよ。普通のおまわりさん」
 その割には銃口は僕の眉間を狙ったまま微動だにしていない。隙が無さ過ぎる。
「そろそろ腕も怠いしさ、手を下ろさせてもらっていいかな?それに銃口を下ろしてもらえると嬉しいな」
 緊張を解こうと冗談めかして言ってみる。
「腕はもう下ろしていいよ。けど、こっちの銃口は下ろさないけど」
 にっこり微笑みながら言われた。
「で、ここからが本番なんだけど……何の用?」
「いや、元々あんたに用があったわけじゃない。僕が尾行してたのはあのちっこい方だよ」
「ああ、あの子。何、ストーカー?って、君は女の子だよね?」
 誰がストーカーだ、誰が。女の子だよね?との質問には肯定も否定もしない。って言うか、できない。
「こっちの事はどうでもいいだろう?それよりあんたは何をし」
「不純異性交遊」
 最後まで言わせて貰えなかった。って、はあ?
「不純ってほど乱れた訳じゃないけど、異性と仲良くなっちゃダメなんだってさ」
 不純異性交遊。その言葉を聞き、僕は顔を顰めたまま天井を向く。
 年寄りの肉体じゃないから、その手の欲求が無い訳じゃないけど……。
 享年を聞きたかったが、さすがに失礼か?歳を取ってからでも恋愛は不可能じゃない。
「OK。理解した。で、彼氏を追い掛けるのか?」
「このまま放置じゃダメかな?」
 それは本気の質問ではないので僕は何も答えない。しかし、そのまま会話が途切れた。
 ……何か喋れよ。と思ったが、いつまでも無言のままなのも辛いので会話をふる。
「気が進まないか?」
「そんな事はないけど……ま、ね」
 そう言うと彼女は銃口を下ろし、後ろを向くととぼとぼと歩き出した。
 血痕を追い、無言で歩く。背後を着いて行く僕を無視するようにただ自分の足元だけを見て歩いて行く。
 地下駐車場の奥にある非常階段へと血痕は続いていた。
 緑色の鋼鉄製のドアを開け、その奥にある階段を登って行く。
 地下のと同じ材質のドアを開けると、涼やかな風が頬を撫でて行った。自然と目を細める。
 駐車場から外の道路へ出ると涼しさを頬に感じた。日差しが暖かい。珍しく蒸し暑さは感じない。
 道路に落ちた血痕を辿り始め……すぐに彼女が僕を振り返った。
 いや、僕じゃなく道路に落ちている血痕を振り返ったのだった。
「どうした?」
「何で?どうしてペースが上がって来ているの?」
 僕に対してての質問ではなく己の疑問が口に出ただけだった。
 再び血痕を追い始めるが、すぐに彼女は走り出した。血痕の主と同じように。
「何から逃げているの?」
「ゾンビかな?」
 僕が呑気に声を掛けると派手な舌打ちが返って来た。
「動きの遅いゾンビなら走って逃げる必要はないでしょ」
「真帆が……あのちっこいのが止めを差しに来たとか?」
「だったらもう死体と対面してるわよ」
 血痕は雑居ビルのエレベーターの前で途切れていた。エレベーターの電源は当然来ていない。
 ここの血溜まりが他よりも大きい。きっと動いていないエレベーターのスイッチを何度も押していたのだろう。
「こっちよ」
 彼女が叫び、エレベーターの横にある階段へと走り出した。
 信じられない速さだった。余裕だと思っていたら離されるほどの速さだった。これは本気で走らないと……と思ったらいきなり彼女が立ち止まった。
 立ち止まった彼女の足元には異様に大きな血溜まりがあった。
 
 暗い階段の途中、踊り場の手前に致死量を超えた血痕があった。血痕だけがあった。
 男の死体は無い。背後を見てみるがそこにも死体は無かった。
 何が?
 コツ。
 静かな階段の中で小さな靴音が響いた。上の方から聞こえて来る。
 コツ。コツ。
 ゆっくりと確かめるように降りて来る。
 静かに彼女が拳銃を構える。降りて来るモノに合わせるように階段の踊り場へと銃口を向ける。
 彼女の息は乱れてはいない。一瞬で息を整えたのか、そもそも乱れてもいなかったのか。
 コツ。コツ。コツ。
 さり気なく僕は彼女の影へと隠れた。拳銃は構えずにただ警戒だけはする。
 コツ。コツ。ずり。ず……。耳障りな音が静かな踊り場に響く。
 僕らの目の前に現れたのは若い男性の下半身だけだった。
 傷口から臓物が溢れ出る。
 彼氏なのか?どんなズボンを履いていた?靴は何を?思い出せない。
「彼氏か?」
 しかし、彼女は答えない。
 彼女の見てたのは崩れ落ちる下半身ではなく、手を繋がれ荷物のように下げられた彼の上半身を見ていた。
 彼の上半身は……断罪の執行者の手に繋がれていた。
「……耕ちゃん」
 耕ちゃんと呼ばれた男だったモノは何も移さない目を開き、声なき声で叫んだ。
 と同時に僕は彼女の影から走り出していた。拳銃を左手に持ち替える。
 二度三度と引き金を引く。が、耕ちゃんで塞がれた。食い掛けのゾンビを盾にするのか?右手でコンバットナイフを抜き、一気に間合いを詰め……振る。
 外れた。と認識すると同時に振り下ろされた耕ちゃんを腕でガードする。どのみち奴を狙っても避けられるので、振り回されている耕ちゃんの腕へと刃を走らせる。
 繋がれていた腕を切断され自由になった耕ちゃんが僕の背後に吹っ飛んだ。
 ヤツの正面に出て拳銃を二度撃つ。ヤツはあり得ないほど身を仰け反らせ銃弾を避ける。ブリッジの姿勢になり、不自然に向き直る。
 僕は微かな違和感を感じていた。
 銃弾を持っていた耕ちゃんで防ぎ、今また銃弾を避けたのである。
 何故だ?攻撃を避ける意味なんか無いだろう。ってか、以前は避けていなかった。どんな攻撃をされても防御なんかせずに受けて、そのまま攻撃をしてはずだ。
 何をしている?一瞬の疑問が僕の隙になった。
 断罪の執行者は持っていた腕を僕に投げ付けると……背中を向けて逃げ出したのである。
「手前っ……逃げるな!」
 追いかけて走り出そうした僕の足が…不意に絡れた。
 不様に顔面から階段に落ちる。反射的に手でカバーをした。
「くそっ!」
 悪態を吐きながら起き上がろうとする…が、力が、入らない?
 何だ???
 と、背後から銃声が聞こえた。彼女が耕ちゃんを撃ったのだろう。と、再び銃声と人が崩れる音が聞こえた。
 ???何だ?何が起こってる?
 いや、それよりも…何で僕はこんな所で寝っ転がってる?動けないのか?
 逃げた斬罪の執行者が上の階で暴れていた。って言うか、机なんかの障害物を押し除けて逃げているんだろう。
 その証拠にさほど待たされずに窓が破壊される音が響き渡った。
 飛び降りたか。上は確か六階だぞ。下に落ちたらペシャンコなのに。ま、アイツのことだから平気で逃げるんだろうけど。
 追い掛けるのを諦めたら、徐々にだが身体が動くようになっていた。
 仰向けになって、階段の踊り場で無駄に高い天井を眺める。
 ここで斬罪の執行者を逃したのは、絶対にドSのせいだった。アイツが僕の身体に何かをしたんだと思う。
 この間見た変な夢の日が怪しい。いや、良く憶えてないけど…多分、あの日が怪しい。
 ま、もう逃げられたから仕方ないけど…問題は下の彼女の方か。
 と、身体を起こして下の階に目を向けると耕ちゃんの上半身を抱き締めた彼女の死体があった。耕ちゃんの頭も撃ち抜かれている。
 思い溜息を吐き目を離す。
 こんな事だろうとは思ったけど。
 意味も無く憂鬱な気分になった僕はゆっくりと身体を起こし上の階へ行く。
 破壊された入り口のドア。そして一直線で窓へ走る足跡。そして、砕かれた窓。
 破壊された窓から下を見ると、ガラスの破片と血溜まりがあった。
 潰れた肉片もあるみたいだが、本体は見当たらない。もう逃げた後だろう。だから、僕も動けたのだろうし。
 ここで黄昏ていても仕方が無い。帰ってドSをとっちめてやろう。

    scene-22
 
 僕がシャワーを借りている間に、誰かが来て着替えを置いて行ったようだ。って言うか、脱いだ服も片付けられていた。
 ま、ある物を適当に着てみる。……ミニスカって言ってたけど、上半身も袖無しかよ。寒そうだなぁ。これ、ヘッドドレスっていうのか?あれ、パンツが二枚ある?
 つまりこれは……ミニスカでパンツが丸出しになるから見えても良いように、パンツのうえにパンツを履く……言わば見せパンだな。テニスとかで履く、アンダースコートだっけか。
 そもそもパンツ丸出しになるミニスカって何だよ。
 とにかく、適当に着替えて僕は店に戻った。
 
 店に入り、いかにもやる気がなさそうにドSの前に行く。
「お待たせ」
「おや、早かったね。ふむ。着替え方はわかったようだね」
 僕を上から下まで見て、ドSは残念そうに言う。何で残念そうなんだよ。
「さて、君の仕事だが……こっちに来てくれ給え」
 と、僕を奇妙な場所へ案内した。
 店の中央にある……檻?いや、上が開放されているから檻って言うよりゲージか?
「何だここは?」
「ここが君の担当だ」
 は?
「このゲージの中で接客に疲れ帰ってきた犬や猫を癒すのが君の役目なのだよ」
「はあ!?」
「勿論、それだけでは無い。動物たちを癒しつつ、それを眺める殿方を魅了するのも大事なポイントだよ」
「ふざけるな!嫌だ!そんなのただの見せ物じゃねえか!!」
 紛然と抗議しながら僕はそれは楽かもとチラッと考えた。
「嫌と言っても君はウエイトレスの経験はあるのかい?接客は?料理は?言っておくが食器洗いは最新式の全自動式の食洗機があるから不必要だよ」
「嘘だ!昭和の終わりに食洗機なんかなかっただろ!」
「上と交渉したのだよ」
 何でもありだな、上。
「それに君は思っただろう?チラッと……楽そうだな、と」
「うぅ」
「諦めたまえ。そもそもこれの為の衣装を着ているのだしね」
 何!?
「じゃ、最初からそのつもりで……」
「さぁ、そろそろ開店時間だ」
 ドSは僕の背中を押してゲージの扉を閉めた。
 
 ま、何ともあれこれが最初の仕事だ。と気分を切り替えて朝の挨拶から始める。
「おはようございまーす♪」
 明るく可愛くが大事だ。……多分。もっともその相手は小型犬のコーギーだけど。ってか、こいつってアレックスか?
「久しぶりって……」
 今の僕は別人だった。ま、犬相手だから問題ないか。
 アレックスは不思議そうな顔で僕を見る。ってか、明らかに怪しんでいるな。
 どうやって誤魔化そうかと思っているうちにアレックスはご指名が入った。
 その後、犬や猫が入ると同時にご指名が入り、疲れて帰ってくるってパターンだった。
 そして理解したのは……犬好きは猫が、猫好きは犬が決して好きではないと言う事だ。
 犬も猫も好きと言うお客もいるが、全ての客がそうでは無いのだ。
 近づいただけで嫌がるような露骨な事はしなくても、犬猫は視線に込められた嫌悪感だけでもダメージになるのだ。
 そんな犬猫を優しくゲージに迎えるのは……ストレスだ。
 僕は午前中の業務だけで根をあげた。
 と言っても、一日は耐えてみせた。一日だけは。
 二日目からは部署替えを切実に頼んだ。本気で心の底から懇願した。
 これは無理だ。耐えられない。気が狂う。本気で気が狂ってしまうと。正気のうちに他の仕事に変えてくれと。
 そして、僕の願いは……却下された。
 他の仕事はもう手が足りていると言うのだ。ついでに僕が入っても足手まといにしかならないと。
 結果、僕はお役御免なった。
 ただ、クロが犬部門の人気No1に選ばれたのでテントには今まで通り住まわせてもらえる事になった。
 つまり、犬のヒモのような立場になった。
 クロが雄なのがせめてのもだ。僕の今の性別が女の子なのも救いだ。
 これが逆だったら目も当てられないところだった。
 生活費を犬に稼がせ、僕は特にする事も無い。人としてこれでいいのか?と本気で思うが、バイトをしてお金を稼ごうにもどこにもコネはなく、また真面目に探す気にもなれなかった。
 犬猫の接待のダメージが大きかったのだ。や、マジで大き過ぎたのだ。
 ……という訳で、僕は東堂や真帆の監視をする事にした。
 以前からしてたが、ここんとこサボってたのが復活したみたいな感じだ。
 監視って言っても、近距離のストーカーっぽいのでなく、かなりの遠距離からの望遠鏡での監視だ。
 それは近距離からだと東堂に気付かれるからだ。いや、望遠鏡を見る限りでは、この遠距離からの監視も気付かれている風だった。
 だって、事あるごとに変なポーズを取っているからだ。
 誰も見ていないのにムーンウォークなんかしないだろ?爪先立ちで不自然なバランスで立ちながら前方を指差したり。訳のわからん化鳥のようなポーズを取ったり、とか。
 しかし、この距離からの監視がバレたのならそれはそれで諦めて監視を続けるしかなかった。
 変に気配を消したら逆に不自然だからだ。だから僕は諦めて東堂の狂ったポーズを見続けている。
 と、東堂の金魚のフンみたいにいつも引っ付いている真帆が珍しく東堂と別行動を取った。
 何だ?
 見ていると真帆は学園の外に待たせていた男女二人と一緒に街の方に歩いて行く。
 東堂のアホな踊りを見るのも飽きていたので、僕は監視を真帆の動向に切り替えた。
 
 真帆は学園を離れ、出島の外に出ていた。
 男女に先を歩かせ、真帆は背後を歩いている。時々前の二人の足が止まり、指示されたように向きを変えて行く。
 ここまでくると明らかに怪しい雰囲気が漂っていた。っていうか、出島を出た辺りで真帆は自動小銃で前を行く二人の背中を狙っていた。
 僕は徐々に距離を詰めつつ、三人の同行を見る。距離を詰める関係で時々真帆たちの姿が視界から離れる事もあったが、今の所は無事に監視を続けている。
 っていうか、もう壁一枚離れているだけなんですけど。それより、ここはどこだ?
 場所的に出島の外、旧市街地の地下になるのか?メイド喫茶のある通称新町の反対側。僕が地獄に落ちてきた地下駐車場の近くようだった。
 真帆が何かを喋っているが、声が小さく聞き取れない。もうちょっと声をでかくしろよと思いつつ、耳を済ませると……一発の銃声が鳴り響いた。
 背中を向け耳に意識を集中してたのでマジでビビった。慌てて向き直り分かっているはずだが、誰が打ったのか確認する。
 やっぱり真帆だった。打たれたのは男子生徒で、どうやら腹を打たれたらしくお腹を押さえ膝を着いている。
「行きなさい」
 静かに真帆が言う。言うが、腹を打たれて直ぐに動けるわけがない。
 それでも真帆は動けと言う。動けと銃口が膝を着いた男子生徒の頭に向けられる。
 泣きそうな顔でその銃口を見ていた男子生徒だったが、引き剥がすように目を逸らしゆっくりと立ち上がる。
 命乞いの言葉はなかった。
 ま、もう腹に一発喰らっているんだし命乞いはしても無駄くらいは理解出来るだけの知能はあるのだろう。
 それか……殺されても文句を言えないだけの事をしているのか、だな。
 足を引きずりながら男子生徒は地下街の奥に消える。
 見た感じ即死は免れがもう助からないだろう。出血の仕方が派手だからどこか大事な血管がやられていると思う。数分以内に的確な処置が必要な事例だ。そして、ここにはそれが無い。
 それに、血の匂いでそこら中のゾンビが集まりだすだろう。
 数分間会話もないまま、真帆と女子生徒はその場を動かなかった。
 銃口は女子生徒に向けられてはいない。とは言え、異様に重苦しい雰囲気だった。
 壁向こうにいる僕の方が重苦しい空気に耐えられず話しかけそうだった。
 真帆が腰の後ろから拳銃を出し、女子生徒に投げ捨てた。彼女の足元に拳銃は落ち、硬い音を残しがら止まる。
「拾いなさい」
 訝しみながら女子生徒は拳銃に手を伸ばす。その間も真帆から視線を外さない。いや、正しくは真帆の持つ自動小銃銃口からだ。
 そらこの流れなら拳銃を拾った瞬間に蜂の巣ってのもあり得るからな。
 しかし、銃口は下を向いたままだった。
 女子生徒も拳銃を抱くように両手で持ち、銃口を真帆へと向けない。
 静かに真帆が囁く。
「ここは……地獄だから」
 その時初めて僕は真帆が寂しそうに、悲しげに目を伏せているのに気付いた。
 反して女子生徒は力強く頷いた。
 そして、真帆は背中を向けると、その場を逃げるように走り出した。

    scene-21
 
 白い部屋だった。
 窓も家具らしい家具もない。ただ白いだけの部屋。
 僕が死ぬ前に入れられていた病院よりも無機質なその部屋は、微妙に寒かった。
 そりゃ寒いだろうよ。素っ裸で上掛けもなしで寝かされているんだからな。って、言うか、何で裸なんだ?
 久しぶりに生前を思い出し、僕は舌打ちをした。いや、したかった。麻痺している口は舌打ちが出来ず、ただ微かに口を開いただけだった。
 どうなってやがんだ?と周囲を見ようとしたが、微妙に頭が動くだけで何も出来ない。って言うか、硬い寝台のせいで後頭部が痛い。
 何とか動こうと足掻くうちに首だけはある程度なら動けるようになって来た。が、意味ねえ。
 ふと気付くと隣の寝台の上にクロが座って僕を見下ろしていた。
 黒い無機質な瞳だった。道端の小石を見る目と言えば良いのか、欠片ほどの愛情も感じられない目だった。
 このクソ犬が。見下ろしてんじゃねえ!と精一杯の眼力で睨むが、クロは「へっ」と馬鹿にしたように笑って興味を失ったようにあっちを向いて寝そべった。
 と、その時クロの首に銀色のドッグタグが煌めいているのに気付いた。所謂、認識票ってヤツだ。
 犬の首にドッグタグってどう言うセンスだ。いや、そういや迷子犬になったとき用に住所とか書かれた首輪があるって聞いたことがあるけど……。
「気に入ってもらえたかね?」
 いきなり耳元で囁かれ派手に振り向かされた。後頭部がゴリゴリと音がしそうだった。ってか、痛い。
 ドSだった。いつものいやらしい顔で薄ら笑いを浮かべていた。
「このIDタグは我々からの就職祝いだよ」
 ドSの生暖かい指先が喉元に触れ、首に巻かれたドッグタグを持ち上げる。クロと同じタイプのドッグタグが僕の首に巻かれていた。
 胸元に持ち上げたドッグタグを下ろし僕の肌を楽しむように指先を下に滑らせていく。
「君の新しい認識番号はNo10310だ。古い名は……幾つあったかは知らないが、もう使わない方が良いだろう」
 お臍の手前で指の動きを止め、ドSは言葉を続ける。
「これからは……遠見いおとでも名乗ると良い」
「こと……わ……る」
 ドSを睨みながら、辿々しく言う。
「ふふ。そんな物欲しそうな目で見ても何も出ないよ」
 心底嬉しそうにドSが言う。
 誰が物欲しそうな目をした。ふざけんな。
「それで……だ。君にもう一つ我々からプレゼントをしたいと思ってね」
 再び動き出した指の動きはゆっくりとお臍の下へと滑って行く。いや、その辺で止めろよ。
「普通の人とは違う。人を超えた能力……異能とでも言うべきか。単純に力と呼んでもいい」
「や……めろ。触るな、ショッカーめ」
 不意にドSが快活に笑う。
「はっはっはっはっ。我々を悪の秘密結社呼ばわりかい。だが安心したまえ。君をバッタ人間に改造しようと言うのではない」
「いや、ショッカーが通じるのかよ。そっちのが驚きだよ」
「ま、一般常識だよ。昭和の後期前後が舞台になっているからね、この世界は。流石に我々の権限では君をM78星雲の宇宙人にしてやることは出来ないが……」
 触れていた指先を離し、その指先をじっと見つめ……叫んだ。
「だが、脳のリミッターを外す事は可能なのだよ!」
 次の瞬間、ドSの指先は僕の頭を、頭皮を、頭蓋を通り越し、脳を直接掴んだ。
「う、があ……あがががが日hりおghじおjんvdlksんlrwんlkw」
 唇から漏れる叫びは言葉にならず、意味を成さない言語の羅列だった。動けないはずの手足は狂ったように痙攣し背中で硬い寝台を打った。
「ふふ。どうだい?なかなか出来ない経験だよ。直接脳髄を弄られると言うのは」
 ドSは楽しげに指先を好きに遊ばせる。
「何とか言い給え。気持ち良いのかい?苦しいのかい?……さあ、何が見え」
 な……に……が?
 言葉に誘われるように僕の目はドSの背後に広がる白い天井を見る。天井の向こうを見る。
「あ……あ……あ……あ……あ……あ……あ……あ……あ……あ……」
 そこに見たのは、あの日、僕が最後に、、、
  
 モスグリーンの天幕とその向こうの良く晴れた空が、僕の眼前に広がっていた。
「は?」
 何が起こっているのか理解が追い付かず周囲を見る。
 クロは昨日の犬用の椅子みたいのに収まったまま、まだ寝ていた。その首に昨日のドッグタグがあった。
 自分の首筋に触れ、そこにあるドッグタグを確認する。
 老眼だった頃の癖で、目を眇めて打ち込まれたナンバーを見る。
 NO10310だった。
 昨日のはやっぱ夢じゃないのか?
 脳を弄られる感触を思い出し、頭を振ってその記憶を追い出す。
 ふと気になってクロの側に行き、そのドッグタグに手を伸ばす。
「バウッ!!」
 めっちゃ怒られた。
「いや、ドッグタグを見せてくれよ。盗らねえって」
「グルルゥウ。ガウ」
 寝っ転がったまま文句を言うクロ。ってか、寝言か?まだ寝てるっぽいんだが。犬の寝言って初めて聞いたな。
 寝ている犬を起こすのもなんか悪いので一人で階下に降りる事にした。
 降り際に簡易テーブルの上に置かれた湿度計と時計が一緒になったヤツを見ると時刻はまだ早朝だった。
「店っていつから開店だろ?」
 時期と時刻の両方の意味で呟いてみる。って言うか、僕が意識を失ってたのが一晩とは限らないと思っていた。
 確か……二日ほどぶっ倒れるとか言ってなかったか?
 三階のトイレで用を足し、手を洗いながら鏡に映った少女の顔を見る。
 遠見いおだっけ?新しい名前か。ま、名前に拘りはないけど、あんまりコロコロ変えるのも何だかなぁである。
 シゴよりはゴロが良いように思うけど。
「シャワーでもいいから浴びたい」
 力無く呟く。
 トイレの横にシャワールームがあるのは確認出来たけど、タオルも着替えも持って来てなかった。
 って言うか、荷物はまだビデオ屋に置いたままだった。
 階段に戻り二階に降りる。一階まで行き、荷物を取りに行くかと考えたが先にメイドカフェに顔を出す事にした。
 ドSだけならどうでもいいけど、他の風紀委員の人がいるだろうし、挨拶でもしてる方がいいと考えたのである。
 短い通路を抜け、「ここかな?」と薄く開けたドアから顔を覗かせる。
「やあ、おはよう」
 無駄に響く声で目敏く僕に気づいたドSの一声だ。ってかドアを開けると同時に気付くってどこかに監視カメラでもあったのか?
 背後を確認するが……それっぽい物はなかった。
「どうかしたのかい?」
「それはこっちのセリフだ」
 と、そこで見知らぬ顔を見て「あ、おはようございます」と挨拶をする。
 僕が何を言ってるのか理解出来ないとう言う風に、ドSは白々しく首を傾げている。
「何でメイドカフェのウエイトレスが軍服を着ているんだよ」
「おや?分からないのかい?理解出来ないかい?」
 喉の奥で声を殺して笑いながら聞いてくる。
「分からないのなら教えてあげようじゃないか。勿論……それは」
 しっかりとタメを作ってドSは言った。
「致命的なほどメイド服が似合わなかったからだよ」
 確かに。容姿にも難がありそうだが。それ以上に性格的にメイドっぽくないからな。
「で、君はどうしたのだね?」
 それには答えずじっとドSの顔を見る。穴が開くほど睨みつける。
「ん?」
 白々しく不思議そうな顔をしているドSに僕は言った。
「昨日、僕の脳に何をした?」
「昨日?昨日は君が経口式栄養補給水SSS-rを飲んで倒れたので君をコットに運んで、私は下に降りたが?」
「じゃなくて、あの真っ白な部屋で僕の脳を弄っただろ?」
「真っ白な部屋?脳を弄った?私が?」
 ドSは本気で分からないようだった。
 じゃ、あれは夢だったのか?
「いや、じゃぁこれは何なんだよ」
 僕は胸元からドッグタグを引っ張り出した。
「ドッグタグだが?あの日、帰る前に君の首に掛けたのだよ。まだ微かに意識があったのだね。それで夢と混同したのだろう」
 じゃ、本当に夢だったのか?
 ま、こいつに聞いても本当の事は言わないだろう。あの白い部屋とかが事実だったとしても、だ。こいつの相手をしてても時間の無駄だ。
 僕は小さな溜息を殺し、背中を向ける。
「じゃ、行くわ」
「ん?何処へだい?」
ビデオ屋。荷物を取りに行くって言ってただろ?」
 首だけで振り返り僕は言う。
「荷物はテントに運んであっただろう。それとも、何か忘れ物でもあったのかい?」
「へ?」
「気付かずかい?一応朝露とかを避けるのにテントの奥に入れておいたのだが?」
 気付かなかった。
「そか。じゃ、まぁ……ありがと」
 じゃ、この後はどうすっかな?
「えと……シャワーとか貸して欲しいんだけど」
「ふむ。タオルとか石鹸は備え付けの物を自由に使うといいだろう。場所は分かるね?」
「こっちに来る時に前を通ったよ」
「では、着替えも用意しておこう。制服でいいだろう。さて」
 とここで言葉を切り、ドSは自慢げに言った。
「西洋風のメイド服と和風の給仕服とこの格好良い軍服と、どれが良い?」
「ん?給仕服もあるのか?」
「私の他にも洋装が致命的に似合わなかった者がいたのでね。誰とは言わんが……通称和君とかね」
 いや、言ってるし。
「和君。こっちに来てくれ給え」
 和さんだ。めっちゃ久しぶりだなっても一回会っただけだけど。
 こっちに来た和さんは超地味な和服に袖を襷掛けにした格好をしていた。が、その簡素さが妙に色っぽかった。
 ちなみに下半身は袴なので、メイド喫茶なのに女子受けがしそうだった。
「と、メイド服はそこら辺を歩いているのを見れば問題ないだろう」
 ずいぶん雑だな。ま、普通のメイド服だな。
「そしてこのお洒落なヨーロピアン風の軍服と好きな衣装を言いたまえ」
「僕は和服の着付けなんか出来ないぞ」
「ふむ。着るのが簡単なのはこの凛々しい軍服……」
「軍服は断る」
 ドSが全部言い終わる前に速攻で却下した。
「着付け頼むのも悪いし、メイド服にするよ」
「スカートの裾の長さはどうするね?」
 ん?見ると全員がロングスカートだった。
「ちなみに……ロングはもう在庫が無くてね」
 めっちゃいやらしいドヤ顔でドSは言った。
「メイド服は超ミニスカしかないのだよ」
 ドSはいやらしい笑みを隠さずに言う。
「ミニスカのヤサグレメイドも新しいんじゃないかい?」
「誰がヤサグレメイドだ!」

 

    scene-20
 
 結局、僕はドSは手を取らずに店を出て……ドSの案内でベースキャンプに向かっていた。ドSにストーキングをされるのも鬱陶しかったし、撒くのも面倒だったからだ。
 ベースキャンプと言うのは獄卒の休憩所みたいな物で、いまは安いビルを一個丸ごと借りているらしい。もちろん、ベースキャンプと言っても、ここからどこかに進軍するってわけじゃないようだ。
 僕の荷物はビデオ屋に置いたままだったが、ベースキャンプの場所がビデオ屋の近所だったので、こっちに住むのなら後で取りに行けいいと思った。
 道中、思い出したようにドSが聞いてきた。
「ところで、その犬君の名前は何と言うのだい?」
「僕の犬じゃないから知らんよ。っていうか、名前なんかあるのか?」
 言いながら後ろを歩く黒柴の方に目を向ける。
「しかし、君と同居をするとなると飼うことになるのだろう?そもそも首輪もしていないのだから飼い主不在だろう」
「そんなの知らんし」
 飼い主の存在を知らんし、飼う気も無いという意味だったが……ま、通じないだろうな。ってか、そんな思いは無視されるのだろう。
「飼うなら名前くらい決めておくべきだと思うだよ」
「名前……ね」
 黒柴から視線を前に戻して、僕はぼんやりと考える。
「朽……クッキー」
 朽木と言い掛けて慌てて別の言葉で濁す。ってか、なんであの禿茶瓶の名前が出てくるんだよ。
「クッキーか。存外に可愛い名前だね。乙女チックな良い名じゃないか」
 瞬間、僕は派手な舌打ちを響かせた。
黒柴……クロだ。こいつの名前はクロだ」
「クッキーじゃないのかい?」
「クロ。クッキーは間違い」
「ふむ。クロもシンプルで素敵な名前だと思うよ」
 ……本気か?
 内心の苛立ちのまま前を歩く黒柴……クロを睨み付ける。
 クロは馬鹿にした目付きで振り返り、小さく鼻で笑うみたいにクシャミをした。
 腹が立ったので蹴る真似をしたら、ギリギリ僕の足が届かない距離で尻尾を振った。
 バ~カバ~カと笑われている気分だったが、まぁいい。犬如きに本気になったりはしないのだ。
 と、ドSが生暖かい目でこっちを見ていた。
「こっち見んな」
 ふふ、と薄く笑い「失礼」と必要以上に良く響く声で言いやがった。
 大人しくドSの案内で道を歩いていると、ふと路地の奥が気になった。
 何もない。ただの路地だ。誰も見向きもしない路地。ビルの裏口とゴミ捨て場があるだけだ。
 足を止め、何かに焦点を合わせるように目を眇める。
 ……何も見えない。が、何かある。
 何がある?わからない。わからないが、なにかある。
「君の目には見えないのかい?」
 不意にドSに声を掛けられ、驚いたように振り返っていた。
 信じられないくらい心臓が激しく脈打っていた。
「大丈夫だよ。あれはまだ無害だよ。と、言っても君にはあれが見えていないだね」
 ドSはいやらしい顔でほくそ笑んだ。
「いや、見えていないのではないな。目では見えているが、脳が解析できていないのだろう。その目は生来の物ではないのだろう?」
 そう聞かれ、僕はどうだっけ?と考えていた。
 頭蓋を移植した際に眼球も移植したのだろうか?以前と微妙に目の色が違っているような気もするが……。
 ふん、と鼻で返事をする事にした。
「目で見えているのに脳が解析できない。……頭が悪いのだね」
「ケンカ売っているのか。貴様は」
「失礼。……いや、本当にあれに関しては問題は無いよ。黴みたいな物だよ」
 カビ?
「天使と言う者もいるがね。だが、あれは黴と思ってくれて問題無いよ」
 さあ、行こう。とドSは歩き出す。
 僕は路地の奥をいじましく見ていたが、やはり何も見えないので諦めてその場を離れた。
 
 ドSが僕を案内したのは、小さな三階建てのビルだった。
 小さいと言ったが、それは階数だけの話で敷地面積は結構あるようだった。
 一階はキャンプ用品やサバイバルゲームの道具が売られるショップで、例のメイドカフェが二階。で、三階は職員の寝所だとドSは言った。
「で、この四階フロアが君の為だけのスペースだよ」
 両腕を広げ誇らしげにドSは言い放った。無駄に良い笑顔で。
「屋上じゃねえか!」
「ま、そうとも言うね」
「そうとしか言わねえよ。こんなとこで寝泊りしろってのか?」
「その点は問題無いよ。見た前。我が隊の最新式のテントとタープ、それに寝袋とコットもある」
 屋上のど真ん中に小さくはないテントが張られ、その前には布の天蓋が広げられたスペースがあった。
 天蓋の下には簡易テーブルとキャンプ用の椅子が広げられ、小さな焚き火台もセットになっていた。
 一階のキャンプ用品売り場から展示物を一式屋上に持って来ただけじゃないのか。
「気に入らないのかい?」
「いると思うのか?」
 と、僕が憤然と腰に手を当てているとクロが天蓋の中に入って行き、小さな犬用の椅子みたいなのにすっぽり収まった。ま、収まるまで三回転ぐらいしてたけど。
「気に入ったみたいだね」
 僕は忌々しそうに舌打ちをする。
「後、トイレとバスは三階の我々と共通で、犬君はお店に出る前にトイレを終わらせて置いてくれ」
「犬のトイレって、どうやるんだ?って言うか、そんなの出来るのか?」
「おむつをしてやると自然と出来るんじゃないのかな?で、出したら褒めてやると良いはずだよ」
 綺麗好きな犬だと家の中だとしたがらないので、散歩のときなどが良いらしい。犬の世話は飼い主の義務とドSは誇らしげに言った。お前、実はドMなのか?
「それと……」
 一階で渡されていた買い物袋の中身を簡易テーブルの上に広げる。
 ちなみに、ドSは一回り小さな椅子をなんかの道具箱の中から引っ張り出し座っている。僕は天蓋の下の元々セッティングされていた椅子に座る。微妙に天井が低いのが気になる。
 ドSは簡易テーブルの上にドサドサと怪しげな商品を並べている。
「これは?」
 いや、だめだ。聞くな。と脳が危険信号を発していたが、僕は聞かずにはいられなかった。だって、それは食べ物には見えなかったから。
 でも、この流れなら……キャンプ一式の寝泊り所の説明の後は、当然、その夜の食事ってなるじゃないか。でも、だけど、出されたのがモスグリーンの袋に怪しげなパウチだったら気になるだろ?
 普通の……僕のイメージなら、キャンプの食事はカレーが定番なんだよ。カレー粉にジャガイモ、人参、玉ねぎetc etc。最悪、レトルトのカレーと焚く前のお米のはずだ。
 それが何だ?何で怪しげなパウチやモスグリーンの袋になるんだ?
 もしかして、これは食料ではないのか?僕の卑しい勘違い?
 そう思っていると、ドSは真剣な表情で「これは我々の遠征用の食糧なのだよ」と言った。
「食料?」
「食糧……任務時に用いる携帯用の食料パックだよ」
 怪訝な顔の僕に説明してくれるが……正直、説明の続きを聞きたくないと思った。 
「先ず、これが……」
 500mlのペットボトルを前に出し、
「経口式栄養補給水SSS-r、だ」
 指先で弾きながら、何故か、視線を逸らした。
 スリーエスアール?って、何であっちを向いたままテーブルの端に避ける?
「ちょっと待て。何でそれそっちに避けているんだよ」
「ん?これかい?これは……まぁアレだよ。アレ」
「アレって何だよ?」
「これは非常に性能が良く、これ一本で一日分の栄養と水分の補給を完了し、活動が可能になるがくぁzwsぇdcrfvtgbyhぬjみk、おl。p」
「あん?今、早口で何て言ったんだ?活動が可能になるの後、何て?」
 ドSは僕の質問には答えず、にっこりと微笑んだ。
「君は知らなくて良いんだよ」
「そんな訳行くか!テーブルの上に毒物を置かれているかも知れないんだぞ」
「毒物か。……ある意味そうかもだね。何しろこれは一日分の活動が可能になる代わりに二日間行動不能になるからね」   
「毒物じゃねえか!」
 思わず叫んでいた。
「いや、丸っきり毒でも無いんだよ。獄卒なら体調が万全なら無事……かも知れないんだが」
 端にやったペットボトルをまた真ん中に持ってきながらドSは言う。
「一般人が飲めば、血圧が300mmHgまで跳ね上がる程度だよ」
「300って……どれくれいだよ」
「正常な数値が130mmHg以下が普通の最高血圧だから、まぁ鼻血を噴き出して脳の血管が破れまくるね」
「飲めるかあ!」
 思わず叫びながら立ち上がっていた。クロがうるさそうに僕を睨む。
「まぁ、それはともかく……これが経口式栄養補給水SSS-γだ」
 書体の関係か丸っきり同じに見えるんだが?アールとガンマの違いか。
「この経口式栄養補給水SSS-γは先のrの改良品で味が付いているのだよ。匂いもね。勿論、飲んでも大丈夫だよ」
 僕は胡散臭そうに経口式栄養補給水SSS-γを手に取る。キャップを開け、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「何の匂いもしねえぞ?」
「そんな事は無いだろう。かすかなアイソトニック飲料のような匂いがするはずだが?」
 ドSは僕の手からペットボトルを手に取り、軽く鼻を近付ける。
「ふむ。君の脳の具合の所為だね。微妙な匂いは脳が認識が出来ないのだろう。さっきの黴と同じだよ」
 獄卒じゃないと分からないほどの匂いなのか。じゃ、味も無いかもな。
 ドSからペットボトルを受け取り、一口飲んでみる。
 ……予想通り何の味もしない。
「何の味もしねえぞ。普通の水だ」
「そんな筈はないだろう?恐ろしく不味い筈なんだが。のた打ち回る程度には不味いだろう?それとも君は味覚も馬鹿なのかい?」
「ケンカ売ってるのか?」
 言いながらペットボトルを乱暴にドSに押し付ける。
 ふとドSが押し付けられたペットボトルを不思議そうに見ている。ゆっくりとその頭が丁度45度の位置で止まる。
「どした?」
「すまん。許してくれ。これは経口式栄養補給水SSS-rだ」
 僕は大声で叫びそうになった。叫びたかった。毒の方じゃねえか!と叫びたかった。
 しかし、僕は両手で口を押えたまま何も言えなかった。
 その僕の鼻からどろりとした血が指先に流れていった。
 ゆっくりと視界が歪み、指先から手の甲に伝う血液の生暖かさを感じていた。
 白く霞み歪んだ世界でドSが歪んだいやらしい笑みを浮かべていた。
 ちくしょう。騙したな、この野郎。
 助けを求めるようにクロを見る……と、クロもんだ笑みを浮かべていた。
 犬っころめ。人間を嘲笑うんじゃねえ。
 白く歪んだ世界が一瞬で闇に染まった。
 暗転って、本当に真っ暗になるんだ?
「本当に、許してくれ給え」
 誰かがどこか遠くで囁いていた。

    scene-19
 
 餃子を中央に置き、僕とドSは静かに睨み合っていた。
 空になったチャーメンの皿は、どちらも下げられている。テーブルには餃子一皿とタレの入った取り皿が、僕とドSの前に一つずつ。コップに水差しもあるがそれは問題じゃない。
 問題なのは、餃子が七個なのが問題だった。なぜ、七個なのか。何故、八個ではないのか。
 僕とドSは箸を手に餃子を食い入るように見つめていた。
 
「さて」
 静かにドSは会話を始める。やや半身に構え、盛り上がった胸を強調するように、自慢するかのように見せつける。
「君はその華奢な身体で、まさか餃子を四個も食べようとしているのかい?食べ過ぎだろう?もうチャーメンだけでお腹がいっぱいなんじゃないのかい?」
「いや、ふざけるなよ。誰の金で餃子を頼んだと思っているんだ?僕の、だ。当然、僕が四個貰う。それは当然の権利だ」
 僕の主張を聞き、ドSは余裕の笑みを浮かべる。
「何か勘違いをしていないか?私は君の胃腸を心配してやっているのだよ。食べ過ぎだろう?もう」
「余裕だね。なんならもう一杯チャーメンを食べたっていいくらいだぜ?」
「ふっ。無理をするな。そんなに食べてもAカップの胸は大きくはならないよ」
 な、と僕は自分の平坦な胸を反射的に隠す。いや、自分でも意外なほど女の子らしい仕草に驚いたが……急いで男らしく胸を張る。いや、確かに今は女の子だけど。
「くっくっく。いや、このスタイルを維持するのに以外とカロリーが必要でね」
 確かにドSの胸はでかい。細い身体の割に胸が極端にでかい。アンダーのサイズは僕とさして変わらない感じなのにトップは明らかに違う。Dカップ……いや、Eくらいはありそうだ。
 せいぜい僕は贔屓目に見てもBカップだった。いや、測ったことは無いけど、Bだと手の平が入っちゃうような気がする。普段はノーブラだけど。
 一度、学校に居たときに着替えにブラを用意してくれてた事があって、それがBカップで。スポーツブラだったけど……サイズが合わなくて。いや、それはもう忘れよう。
 とにかく!この戦いで僕は絶対に負けるわけにはいかないのだった。
「胸のサイズは関係ないだろう。餃子と胸は関係ない」
「そうかね」
 そう言うと同時にドSの持つ箸が餃子を一気に取り上げた。
「え?」
 知っての通り餃子は一つずつ個別に皮で包まれているが、焼き上がったときにその皮と皮は引っ付いている。丁寧にその引っ付いた皮を剥がさないと皮が破れ、中の具が零れてしまう。
 いま、ドSは餃子を下からすくい上げるように四個までしっかりと箸を入れ、重そうに持ち上げる。そりゃそうさ。重いだろう。餃子を七個全部を一気に持ち上げたんだから。
「ちょっと待て!おい、やめ……」
 僕の制止も聞かず、ドSはリスのように頬を膨らまし餃子を七個全部頬張った。
 もぐもぐとドSのリスは嬉しそうに目を細めている。
 ごくん、と派手に喉を鳴らし嚥下する。
「美味しいな!これは」
「お前……」
 涙目の僕の様子に気付いたようにドSは悪びれた風もなく言う。
「ああ、餃子の皮が引っ付いていたんだったね。ちゃんと四個三個で分けようと思っていたのに、全部引っ付いて来てしまった」
 失敬失敬、とドSは全く反省の色がなかった。
「しかし、タレ無しでも美味しいものだな」
 僕はドSの顔を恨みのこもった眼で睨む。この餃子の件、絶対に忘れんぞ。

 取り皿の上に箸を置き、ドSは両手を顎の下に組み、真っすぐに僕を見る。
 僕は箸をドSの顔にぶつけたい気持ちを抑えつつ、震える手で箸をテーブルに戻す。
 視線をドSから外し厨房の方に向ける。追加の注文と勘違いしたお姉さんがこっちを見たので、慌てて手でそれを制止しあいまいな笑みを浮かべる。
「君の分の餃子を注文しても良いのだぞ」
「僕の金でだろ。いらねえよ」
 そうかいとドS答える。
「さて、君は私達について、どこまで知っているのかな?私達の生態や生活、習性に嗜好……食事などだ」
「何にも知らねえよ」
 ぷいっと顔を横に向け言い捨てる。
「そうかい?」
 ちらりと横目でドSの様子を伺うといやらしい顔でにやにやと薄ら笑いを浮かべていた。
 内心舌打ちをし、僕は大きくため息を吐く。
「僕が知っているのは、お前たちはいわゆる地獄の鬼でこの世界の治安維持をしている……くらいかな?」
「ふむ。それは概ね正解だね。それだけではないが、それでいいだろう」
 ドSは箸を手にし、何かを書くように餃子のタレを上をなぞる。何だろうと自然と僕の視線も箸の動きを追う。
「そこで問題は……そう問題があるのだよ」
 怪訝な顔で視線を皿の上の箸からドSの顔に上げる。
「我々が生活をするのに最低限の物資は上から届く」
「上から?」
「上からだ。今はそれ以上の詮索は無しだ。非常にややこしい問題だし何かとトラブルの元になる問題なので、ここは『上』で納得したまえ」
 非常に気になったがドSが口調が有無を言わさぬ調子だったので僕は頷く。
「あ、ああ。ま、上から届くなら問題はないだろう?」
「問題はない。物資に付いては、だ。問題なのは……」
 躊躇うようにドSは言葉を切り、一気に言い放った。
「我々はどうやってお小遣いを得ればいいのだろう」
 畳みかけるようにドS言う。
「金銭が流通貨幣がお金が、上からの支援物資には含まれていないのだ。わかるか?喉が渇いても缶ジュースの一本も買うことが出来ないのだぞ?」
 そんな事を言いながらドSはタレをなぞっていた箸を舐める。いじましいな。ってか、舐め箸は行儀が悪いぞ。
「喉が渇いたなら水を飲めばいいだろ?」
「ふざけるなよ。喉が渇いてるだけだと思うか?疲れた身体を休め、心身を最新したいと思うのが人の性だろう?リフレッシュと言うものだよ」
 拳を握りしめドSは立ち上がって言った。
「とにかく、快適な暮らしを送るために我々には金銭が必要なのだ」
 ドSは背後を振り返りながら胸に掲げていた拳を開く。
「お金を稼ぐ!それが我々の命題なのだ」
 くるっと振り返り両手をテーブルに着く。寄せられた両胸の厚みに圧迫感を感じずにはいられない。見せ付けてるのか。
「可及的速やかに解決すべき問題なのだよ」
 そして、「我々に取っては」と付け足した。
「いやいやいや、何で我々なんだよ。僕を巻き込むなよ」
 ふむ、とまるで納得したかのように頷き、テーブルから身を起こし両手を胸の下で組む。乳房を強調するかのようなポーズだった。さっきから何なんだ。いや、僕が気にし過ぎなのか。
「何故、我々なのかだね。それは私達獄卒には色々と意見してくれる者が必要だからだよ」
 ドSはゆっくりと椅子に座る。
「私達獄卒と君ら一般人とはやや味覚の作りが違うのかも知れないのだ。もし君が私達と協力をしてくるのなら後で配給のレーションを味見してく……」
 そこまで言ってドSは慌てたように言葉を遮った。
「あ、ああ……まだこれを話してなかったね。私達は流通貨幣を得るためにアニマルメイドカフェを始めようと思っているのだよ」
 にやり、とドSは口の端を歪めて笑った。
 
 アニマル冥途カフェ?
 いやいやいや、この場合は普通にアニマルメイドのカフェだろう。アニマルメイド?
「いや、普通にアニマルメイドなんかあり得ないだろ?ってか、特殊な嗜好の殿方ばっかり来るぞ?」
「違う違う」
 ドSは笑顔を浮かべながら否定する。珍しいなこいつの普通の笑顔。
「アニマルなメイドじゃなくアニマルとメイドだよ」
「なんだそっちか。じゃ、アニマル「・」メイドかアニマル&メイドって言えよ」
「ふむ。確かにその方がいいな」
 言いながら懐から出した手帳に書き込む。
「つまり、こう言う事なのだよ。私達じゃ人の生活に対して理解が乏しいのだ。小さな問題から大きな問題まで全く理解の及んでいないのが問題なのだよ」
 僕は眉間に皺を寄せながら話を聞く。
「問題に気付いていないのが問題なのだよ」
 こいつの言わんとするところは理解する。理解するが……何で僕なんだ。
「だから、オブサーバーとして君に協力を求めているのだよ」
 勿論、とドSは言葉を続ける。
「私達に協力をしてくれるのなら、今人の活動範囲に出されている反乱分子その生き残りの捜索を終了させる……と言うのはどうだい?」
 それに、と言葉を続ける。
「住むところの確保というのはどうだい?勿論、給金は支払わせてもらうよ。君が時給1000円。外の犬君が時給1500円」
「何で僕が1000円で犬が1500円なんだよ」
 どうでもいいことだが、ちょっときになったのでぼそっと呟く。
「実際に客を呼べる実力の差だね。君よりも犬君の方が明らかに人気が出そうだからね」
「ほぅ?」
 ちょっとイラっとしたぞ……いや、人気なんかいらんけど。
「いや、そういう意味じゃないよ」
 目ざとく僕の感情を読みドSは言葉を挟む。
「人である君よりも犬君の方が一般受けをするだろうという事だよ。彼のように犬種が分かりやすいのは人気者になりやすいのだよ」
 店の入り口に目を向け、ドSはその外にいるであろう犬の様子を伺うように見る。
「非常に訓練の……いや、躾のされた犬君のようだね。彼は君の犬なのだろう?」
 いや、違うが。でも、ちょっと待て。時給1500円?あの犬が???
「どうした?何故無表情になる?」
「む、う〜ん……いや、正直に言うと正確には僕の犬じゃないんだ」
「なんと!」
 ……何だその白々しい反応は。
「あの犬は朝、どこかからやってきて僕に付いて回り夕方にはどこかに帰って行くんだ。こうやって店に入ったりしてると外で待ってるんだけど……僕の飼い犬じゃないんだ」
 納得したようにドSは頷き、「でも、それは君が家に招かないからじゃないのかい?」と言った。
 だから、と僕は不機嫌そうな声を出す。
「僕は住所不定の無職なんだよ」
「だから、私達が君にその住所と職を与えようと言っているのだよ」
 ガタっと席を立ち、ドSは誇らしげに手を差し出してくる。いや、この手を掴んだらアカンでしょ?
 うん。マジでヤバい橋に渡らせられる予感がする。

   scene-18
 
 困った。いや、別に困ってないけど……まぁ、困ったなと思う。
 よく考えたら呼び名を知らなかったが、朽木のグループが壊滅させられたのだ。
 僕は運良く整備の終わったカブに飛び乗り早々に逃げ出せたが、他の面々は壊滅させられたようだった。
 逮捕、捕縛ではなく壊滅と言ったのは、ぶっちゃけ虐殺されていたからだ。
 多分、生き残った者はいないだろう。ってか、あの日からグループのメンバーとは誰とも出会っていない。
 僕が見逃されたのは、僕の顔が学校の名簿には載っていないからだろう。それとメンバーの皆が口を噤んでいたのだろう。
 律儀なやつらだと思う。ま、僕が最後の一人になるのは予想できたのだから、喋らないのはあいつらなら当たり前なのかも知れない。
 しかし、全員を学校のグランドに引き摺り出し、その場で一人ずつ銃殺にするってのはエグイよな。
「何か隠している事はありませんか?教えていただけたら……ここに残された方々の復学を認めましょう。つまり、最後のチャンスを上げましょう。どうです?」
 藤堂がそう言ってたけど、自分の命だけじゃなく仲間の命も秤に掛けようってのがいやらしいよな。
 ま、それでも誰も口を割らなかったのは、あいつが信用されていないからだろうな。生半可な人望のなさじゃないからな、あいつ。
 その後、拠点にしていた学校は襲撃の傷跡を消すように再び整備され、そこを中心に町が開かれていった。
 まだ治安は良くないが(ゾンビがうろつくのを治安がよくないと言うのなら)、学校周辺の商店街や学生寮など徐々に町は広がりを見せていた。
 寝床を失くした僕は町外れの(かなり治安の悪い地域の)……何だろう?寝泊りのできるビデオショップ?ネットカフェ?マンガ喫茶???そんな変な感じの店を寝床にしていた。
 ちなみに、メンバーカードの会員になれば割と自由に部屋を取れた。ま、空き部屋があれば、の話だろう。いっつも空きだらけだが。
 あ、メンバーカードの会員証は偽造の学生証であっさり作れた。この時ばかりは朽木に感謝した。カブも有難かったが。
 あの日から僕は、夜は寝床代わりの変な店に帰り、昼間は広がった住人の生存範囲を探索して回っていた。
 
 暇を持て余した住所不定無職の未成年風な感じで、軽やかな足取りで階段を降りて店の外に出る。
 僕の生きていた時代ならフリーターの女の子って感じだろうけど、この時代ではまだフリーターは一般的じゃなかったように思う。
 ちなみに……二階が店の入り口で、普通の客はエレベーターを使う。僕はエレベーターの扉が開いたら銃口を向けられたっていうパターンが嫌で階段を使ってる。
 大丈夫だとは思うけど、さすがにあの虐殺シーンを見た後では小さな箱の中に自ら閉じ込められようとは思わない。
 普通の雑居ビルの一階フロアに出る。一階はテナント募集中で床もなんだか埃っぽい。だから、この店の怪しさは半端ないんだよな。床ぐらい掃除すればいいのに。
 雑居ビルの外、じめっとした暑さの外に出る……と、いつものように黒い犬が待っていた。
 犬。黒い柴犬である。けど、僕は柴犬に知り合いはいない。
 いや、そもそも、猫派である僕は犬に知り合いはいない。猫派……猫好き、だよな?いや、犬も嫌いじゃないよ。コーギーとかハスキーとか好きな犬種もあるよ。
 でもなあ。ぶっちゃけ黒柴は好きじゃないんだよね。
 好きじゃないし好かれる理由もない。
 なのに、この犬はいつも僕を待っている。ってか、付きまとわれている。今日、どこかで撒いても、翌日にはまたここで待っているはずだ。
 生前、僕の飼っていた猫が生まれ変わり、黒柴になって僕を守護するために顕現したって……ないないない。
 僕の愛した猫ならばシベリアンハスキーになっているはずだ。僕に愛されるためならなっていてくれているはずだ。
 よしんば柴犬になっちゃったにせよ。柴犬なのは仕方ないとしても黒はない。黒猫は好きだが黒柴は嫌いなのである。柴犬なら茶色がいい。茶柴なら許す。
 僕の愛した猫たちが僕の好きじゃない黒柴になるなんてあり得ないと言いたい。いや、絶対にあり得ない。
 だから、この犬は僕の知り合いじゃない。知り合いじゃないはずだ。ないはずなんだけどな。……でも、だったらなぜ?僕に付いてくるんだ?
 僕は横目で黒柴の様子を見ながら、犬の横を擦り抜けていく。真正面に座られていたから、僕が横に避ける形だ。
 僕の歩調に合わせ、黒柴は静かに立ち上がる。その無駄の無い動きは訓練された犬の動きに見えるんだけどなぁ。
 ま、こいつが何者なのかはその内わかるんじゃないかな?わからないかもだけど。
 黒柴と一緒に商店街のアーケードの下を歩く。ま、アーケードって言ってもテント地の雨よけが貼ってあるだけの薄っぺらい天井だけど。
 梅雨っぽい湿気に人気の少ない埃っぽさもあって、閉まったままのシャッターが多い商店街は、どことなく不衛生な感じだ。
 ふと気になって細い路地の奥に目を向ける。止めた足を半歩戻し路地に奥をしっかりと正面に見る。見る……が、何だ?
 黒柴も僕の足元に来て、一人と一匹で一緒に何もない路地に奥を見る。
 何が気になったんだ?路地に奥に不審な物はない。背の低い商店風の建物と建物の間の普通の路地だ。
 ここに来るまでに何度も素通りして来た路地と同じはずだ。なら何故、ここで足を止めた?
 そう。まるでそこにゾンビでも立っているかのような不安感がある。思わず路地に突っ込んで拳銃を「それ」に向かって乱射をしたくなる。
 が、「それ」はどこにも見えない。そこにあるはずの脅威が見えない。
 目を眇め、僕はもう一度路地の奥を見る。
 濃いグレーの湿っぽい路地だ。日も射さない埃っぽい路地の奥だ。
 僕は諦めて顔を商店街に戻す。見えないモノに神経を使うのは時間の無駄だ。僕は疲れたように目頭を揉む。
 やっぱ、例の虐殺を見た後だから神経質になっているのかな?
「行こか?」
 無意識に黒柴に声を掛け、僕は誰の姿も見えない商店街を歩きだす。
 
 商店街の奥にその店はある。
 中華飯店『湖畔』である。
 その店の内外装にそぐわない優美な店名である。
 そう、湖畔は不愛想な両開きのガラス戸の入り口にその店内の様子を隠すような暖簾のある店だった。
 その濃紺の暖簾に書かれた白い店名が『湖畔』である。
 僕は黒柴を店の外に残し(飲食店だから動物の入店は原則禁止だ)、客の入りを見ながら店に入る。
 今日も僕以外の客の姿はない。
「いらっしゃいませ〜」
 店のお姉さんの声に軽く会釈をして、入り口傍の席に座る。
 ま、いつもの席だけど。
 この薄っぺらい内装だと店のどこに座っても即死確定だからな。バズーカ砲どころか普通の拳銃でも壁越しに狙えるからな。
「いつもの?」
 明るくお姉さんに聞かれ、「うん」と僕は答える。
「いつもの。超ハードで」
「超ハードなんかないよ」
 お姉さんが笑いながら言い、僕も自然と顔をほころばせ……ガラッと店のドアが開かれると同時に無表情になる。
 それはその奥に立つ新たな客が誰なのかを知ったからではなく、他の客の前でにやにや笑っている顔を見られたくないからだった。
 実際、入り口を背に座っている僕には客は姿は見えない。ってか、見たくない。ワタシハシラナイヒトデス。話しかけるな……頼むから。
「おや?おやおや?珍しいところであうな?」
 僕はゆっくりと振り返り、顔を苦々しく歪める。
「ナンバー……10524」
「その変なナンバーで僕を呼ぶな」
 ふむ、とドSは面白そうに微笑む。
「では、どう呼べと?」
 お前にはどんな名でも呼ばれたくない。と言いたかったが、無駄な会話が長く続きそうだったから短く僕は答える。
「シゴ……だ」
「死後?」
「死後じゃない。死語でも死期でもない。カタカナでシゴだ」
「ふむ。変わった名だな。まぁ良い。さて……」
 と、ドSが壁にあるお品書きに目を向けると同時に僕は言う。
「奢らないぞ」
「……」
 ドSの動きが止まる。と同時に真っすぐに僕を見つめる。穴の開きそうなほど強い視線だった。そしてその視線をついっと店の入り口に向ける。店の入り口、店の外で待つ黒柴に視線を向ける。
「外に……黒い柴犬がいたが?あれは君の犬かな?」
「違う。あれは僕とは無関係だ」
 いや、実際に僕とは無関係だけど、こう聞かれると何か関係があるみたいじゃないか。
「首輪をしていなかったな。この界隈には珍しい野良犬かな?」
「さあな。知らない」
「野良犬なら……捕まえて殺処分だが……さて……どうしたものか、な?」
 にやにやとドSは僕を見る。
 勝手にすればいいだろ、と言い掛けたとき「チャーメン、お待ちぃ」とお姉さんが僕の前に注文のチャーメンとウスターソースを置く。
「あ、私もそれと同じ物を」
 と、ドSが当たり前のように僕の前に座る。
「ここで食事をする間に……詰め所に野良犬の報告を忘れる事になりそうだな」
「いや、忘れるなよ」
「ふふん。そう言うな」
 ドSは僕の顔を見らながらにやにやと笑う。はっきり言って、いやらしい顔だった。
 こいつの相手は腹が立つので黙っている事にする。
 そして、無言のままドSのチャーメンが運ばれて来るまで黙ってやった。
 黙ったままウスターソースをチャーメンにかけ、八宝菜風のタレを混ぜる。だが、混ぜ過ぎないように気を付ける。
 このウスターソースの中途半端な混ざり具合が僕の好みだった。
「それは……ウスターソースだろう?それに、これは揚げ麺か?」
 ってか、こいつ僕が何を頼んだのか解らないまま同じ物を頼んだのか。
「チャーメンだ。揚げ麺にチャンポンの具を掛けた料理だよ。ちなみに掛かってる具を八宝菜と言うと店の奥からオヤジが出て来て小一時間説教を食らう事になるから気を付けろ」
 不思議そうにドSはウスターソースを持ったまま料理を見ている。
ウスターソースは……ま、好みだな。僕は好きでよく掛けているが」
 ふむ、とドSはウスターソースを大量にぶちまける。僕はそれを見てうへぇと顔をしかめる。いや、明らかに掛け過ぎだろう。
「ちなみに、チャーメンは揚げ麺と柔らかい中華麺の二つから選べる。あと、チャンポン麺……汁有りのラーメンタイプと鉄板焼きの焼きそばも注文可能だ」
 ほほうと言いながら、もうしっかりとドSはチャーメンを食べている。
「色々とあるのだな」
「ま、この店の売りらしいけどな。売りって言えばこの店の炒飯と餃子も……」
 ん、ドSは顔を上げる。
「高菜が入ってて美味いぞ。って言っても奢らんぞ!金が無いなら注文すなよ」
「そう言うな。今日は金になる話を持って来てやったんだ。……聞くかい?」
 くっ……聞くなら炒飯もしくは餃子か。両方は金銭的に厳しいぞ。
「餃子……半分ずつなら」
「商談成立だ。すいませーん。餃子を一つ追加で」
 くっくっく、と喉の奥で笑いながらドSは注文をする。