第六日目 昼 1.
 
 
 朝、談話室に下りると同時に、溜息が聞こえた。
 誰が発したのかは、すぐには分からなかったが、そんな事はどうでもいいんだって事に気付く。
 古川晴彦の姿が見えないのだ。
 僕以外の人間が揃っていれば、そこから一名を抜けば、それで全員だろうと判断出来る。出来るが、したくはない。そんな思いが、吐かせた溜息なんだろう。
 そして、その溜息は……僕の背後で閉じられる扉の、重々しい響きに紛れ、虚空に消える。
 メイドの一人が、榛名に耳打ちをする。榛名は小さく頷き、メイドの少女に下がるように言う。
「古川晴彦様が、部屋に閉じ篭ったまま、出て来ようとしません。また、呼び掛けにも応えられません」
 決まった台詞のように、榛名が棒読みで言う。
「部屋は施錠されているかしら?」
 井之上鏡花が聞くが、これは予想範囲内の返事が返ってくるのを見越しての、質問だ。
「はい。メイドに確認させたところ、部屋はドアロックが成されている、との事です」
「確認に行かなきゃってコトだよね?」
 田沼香織が井之上鏡花に確認するように言う。
「そうね。問題は……誰が行くのかしらね?」
 言いながら、井之上鏡花は本田総司を見る。見るが、本田総司は大島和弘の影響で信用を失いつつある。前日の確認も、古川晴彦と相良耕太と一緒に行かされたぐらいだ。
 どうするんだ?
 本田総司を見ると、彼は少し思案し、
「もう全員で行くべきなんじゃないだろうか?」
 と呟いた。
 僕はその言葉に反射的に否と言いそうになる。正直、『人狼』の残す遺体は尋常じゃない。あれを女の子に見せるのは、普通はあり得ないだろうと。
 しかし、この……ここまでの状況を考えると、全員で確認に行った方が、安全且つ確実な気もする。
 実際、誰を選んでも――僕はじっと本田総司以外の円卓に座る面々を見る――『人狼』の可能性があるように思える。
「……そうね。それが正解かも知れないわね」
 溜息のように井之上鏡花は呟く。
「行きましょう。ここに残っている全員で」
 井之上鏡花が席を立つ。それに続き、田沼香織が大袈裟な溜息と共に立ち上がり、本田総司と志水真帆が椅子を引く。
 と、その中で一人だけ頑なに椅子に座り続ける者がいた。
「私は遠慮させてもらうわ」
 山里理穂子だった。
「あんな死体みたくないし、そもそも誰が死んでも興味なんかないし」
「いや、それ」
「好きにしろ」
 山里理穂子を説得しようとした僕を遮り、本田総司が冷徹に言い放つ。
「な!?」
「君は、好きに、すれば良い」
 眼鏡の位置を直すようにしながら、本田総司は繰り返し言う。
「加納も文句は無いな?」
 本田総司の態度に、奇妙な違和感を感じる。感じるが、その違和感の意味は僕には解らなかった。
「あ、ああ」
 いや、本田総司だけじゃない。誰もが山里理穂子とは目を合わそうとしていなかった。
 僕が来るまでに何か話があったのか?何かゲームの進展が?
 
 メイドの少女に案内され、僕らは二階の一室の前に来ていた。ここが古川晴彦の使っていた部屋だった。
 こうやって、部屋の前に来ると、嫌でも田沼幸次郎の事を思い出さずにはいられない。
 メイドの少女と本田総司が、部屋が施錠されているのを確認し、鍵を開く。
「ドアチェーンが成されているのを確認できたのなら、遠慮はいりません。切ってしまいなさい」
 榛名に言われ、少女が小さな工具をドアの隙間に入れる。
 カチカチと工具が鳴る。時を刻むように工具が鳴り響く。誰も何も言わず、静かに少女を見守る。そして……。
 ザッと鎖の滑る音と共にドアが開かれる。
「ひっ」
 一番後ろに立っていた志水真帆が小さな悲鳴を上げる。
 前にいた本田総司、井之上鏡花、田沼香織は、ただ声を殺していた。
 だが、前にいた三人が死体に慣れていたのではない。ただ声を殺すほどに、息を呑むほどに、驚いていたのだ。
「これは……誰だ?」
 本田総司は呟く。呟くが、誰なのかは分かっているはずだ。古川晴彦の部屋に来たんだから、彼が居るはずだ。居るはずなんだ。
「げえ。……うげえ」
 廊下の隅で、田沼香織が吐いていた。が、田沼香織の吐瀉物の臭いが僕まで来ることは無い。
 濃厚な、濡れたような濃密な血の臭いに染められているからだ。
「これは……古川晴彦なのかしら?」
「そうだろうな」
 井之上鏡花が訊き、本田総司は呟くように答える。
 そして、僕は部屋の惨状をもう一度目に入れる。
 部屋に死体と呼べるものは無かった。
 ただ血と肉片と汚物が広げられていた。
 信じられない血肉の量だった。たった一人の人間をバラバラにしただけで、こんなに大量の血と肉片になるのか。
 馬鹿な話だが、僕は驚きを隠せなかった。一人の人間が殺されたって言うのに、僕はこんな詰まらない事で驚いてた。
「遺体の部位の確認は……」
「不可能だろうな。こうなってしまえば……言葉は悪いが、ただの肉片としか判断は出来ないだろう」
 ただの肉片か。しかし、ここまで徹底出切るのなら、なぜ最初からしなかったんだ。やはり、遺体を僕らに見せる事にある種の意味でもあったんじゃないのか?
「もう大丈夫よ。ごめんなさい」
 田沼香織が志水真帆に支えられ、こっちに戻って来た。
「すまないな。もう少し、気を付けるべきだった」
 眼鏡の位置を直しながら本田総司は、田沼香織の嘔吐物に目を向ける。田沼香織の吐いた物を確認しながら、本田総司は言う。
「チェーンロックがしてある段階で、ある程度は判っていたんだから、下がるように言っておくべきだったよ」
 田沼香織の自分の吐いた物に一瞬だけ振り返り、本田総司を睨む。
「……試したの?」
 本田総司は無言で首を振る。
「まさか、な。『人狼』は『村人』を喰らう人外なんだ。こんな……食べ残しを見たくらいで吐くような神経は持ち合わせていないだろう」
 本田総司はメイドの少女に向き直り言う。
「すまないが、この部屋を片付けてくれ。遺体の確認は行かないから、後で連絡をする必要ない。……古川晴彦をよろしく頼む」
 言い終えた本田総司はその場で目を閉じ、俯く。
「……本田さん?」
「あ、いや……大丈夫だ。何でもない」
 顔を上げた本田総司はもう普段通りだった。
「談話室に……戻ろう」
 声を掛けた田沼香織を無視するように僕の方を向き、本田総司は言う。
 彼に促され歩き出すが、僕は田沼香織を振り返る。と、田沼香織はファンキーなポーズで右手の中指を立て、舌を出していた。
 
 
 古川晴彦の部屋を後にし、僕らは談話室に戻る。一番最後を歩いていた僕の背後で、扉は再び閉ざされる。
 山里理穂子と一緒に残っていた琉璃に頷き、僕は席に戻る。
 琉璃は深々と頭を下げ、僕が座るのを待つ。そういう仰々しい真似はしなくていいと言っているのだが、彼女は逆にしていないと落ち着かないと言う。
 ま、言い合っても仕方が無いので、琉璃の好きにさせているが……。
「どうでしたか?」
 小声で琉璃が僕に訊ねる。
「ああ、間違いなく死んでいたよ。こっちはどうだった?」
「特に怪しい動きはありませんでした」
 僕はその返事に頷く。
 琉璃には念の為に山里理穂子を見張るように言っておいたのだ。
 ちらり、と山里理穂子を見る。彼女は僕らが談話室を出たときと、何ら変わった様子は無い。無いが……何だ、この雰囲気は?
 誰一人、山里理穂子と目を合わそうとしない。いや、それどころか、彼女の存在を邪魔にするように会話を止めてしまっている。
 初日以上の気まずさだった。
 いや、それ以上に気になるのが……クトゥルフの存在だった。
 球体関節人形の少女は、もうどこにも居なかった。
 節くれだった球体関節を袋詰めしたような、歪な姿をした人形はここにはない。いや、人形がここに居ないのだ。
 クトゥルフという名の少女だけが、榛名の横、豪奢な椅子の上ですやすやと眠っている。
 人としての骨格が与えられたクトゥルフの美しさは際立っていた。……が、何かが足りない。
 未完成な、作り掛けの、まだ造形が中途半端で、大切な『何か』が欠けている。それが何なのか、僕は知っているような気がした。
 多分、臓物だろう。クトゥルフの中身はまだ何も無いはずだ。美しいが、それは表層だけの、上っ面だけの美しさだった。
 クトゥルフは、まだ完成していない。そして、ゲームはまだ続く。
「だから、何度も言ってるはずよ」
 山里理穂子が苛立ったように声を軋ませていた。
「『人狼』が見付かったんだから、後は『狐』を殺せばいいだけの話でしょ?」
 『人狼』が見付かった?
「ちょ、ちょっと待ってくれ。……『人狼』が見付かったって本当なのか?」
 大袈裟に溜息を吐いて、山里理穂子は僕を見る。
「田沼香織が『人狼』……ラスト・ウルフよ」
 山里理穂子は勝ち誇ったように言う。言うが、しかし……僕は混乱しそうになり本田総司を見る。本田総司は腕を組んで、俯いたまま動こうとはしない。
「いや、でも」
「つまり、井之上鏡花が『狐』だったのよ。志水真帆は『村人』だったから、井之上鏡花が『狐』になる。田沼香織が『人狼』だったのだから、それしか考えられないわ」
 僕は名を上げられた少女達を見る。井之上鏡花を、志水真帆を、田沼香織を……だが、二人の少女は人外指定を受けたにも関わらず、落ち着き払っていた。
「私は……」
 落ち着いた声で、志水真帆が話し出す。
「『村人』です。『人狼』じゃありません」
「は?だから、そう言ってるじゃない。あなた、何を言ってるの?」
「『人狼』かぁ……。だったら、面白いかもだよね?」
「そうね。私が『狐』と言うのは少々捻りが無いだけに、あなたが『人狼』と言うのは面白いわね」
 山里理穂子を無視して、彼女達は楽しげに会話を続ける。
「でも、あなたが『人狼』なら……随分とキュートな狼女さんね」
「私は地味な『村人』です」
「鏡花ちゃん、『狐』って言うより猫じゃない?タイプ的に」
「あ、狐ってイヌ科でしたっけ?」
「イヌ科ね。でも、その気性は猫に近いって言うわ」
「でもでも、『狐』も妖狐ってしたら雰囲気合うかも」
「葉子はいたじゃん。葉子と妖狐じゃややこしいって。ね?」
「そうかしら?イントネーションの違いで判断出来るはずよ」
「そうかな?葉子は妖狐に襲われました。妖狐は葉子に殺されました。妖狐と葉子は別人です。……わかった?」
「あなたの知能に問題があるのは、よく解ったわ」
「あなたたち、何を言ってるの?」
 和気藹々と喋る女子達を遮り、山里理穂子は呟くよう言う。言うが、それを田沼香織が引き継ぐ。
「ほんと、何言ってんだが……あたしの知能に問題はありません」
「有りませんじゃなくて、知能が在りませんじゃないの?イントネーションとか大丈夫かしら?」
「ムキャーッ!!」
 離れた席に座る井之上鏡花に向かい、田沼香織が両手を上げる。上げながら、その手で自分の頭を掴んで掻き毟った。
「ふざけないでっ!!」
 両手を円卓に叩きつけて、山里理穂子は大声で叫んだ。彼女はそのまま、はぁはぁと息を荒げている。
「悪ふざけが過ぎるぞ」
 眼鏡の位置を直しながら、本田総司は彼女達に静かにするように言った。
「加納、説明が未だだったが……田沼香織に黒判定が出た」
 興味も無さそうに本田総司は話を続ける。
「志水真帆は既に白判定を貰って、尚且つまだ生きている。……即ち、『狐』ではありえない。つまり、他の未だ判定が成されていない俺か、井之上鏡花が『狐』となる」
「あなたは『狐』じゃないでしょう?共有者のはずよ」
 山里理穂子が口を挿むのを無視して、本田総司は続ける。
「つまり、山里理穂子が言うには、先ず『狐』候補を吊り、その翌日に田沼香織を吊れば……『村人』の勝利になる、らしい」
「あったまわるっ」
 ピクッと頬を引き攣らせて山里理穂子が田沼香織を睨む。田沼香織は明後日の方を向いて、下手な口笛を吹いている。
「それで加納……君の見た夢だが」
 本田総司は真っ直ぐに僕を見て、
「今日は話さないでくれ」
 確かに、そう言った。
「え?」
「今日は頼むから話さないでくれないか?」
「いや、それは構わないが……でも、どうしてなんだ?」
 本田総司は僅かに視線を落とし、真っ直ぐに僕に視線を戻して言う。
「聞かせたくない人間がいるからだ」
 本田総司は続ける。
「お前がその夢の事をずっと悩んでいるのは気付いていた。見たくない。しかし、見てしまう。言いたくない。だが、話してしまう」
 僕の目を見て、見続けて、彼は言う。
「済まなかった……と、俺は思う。ゲームに勝つ為には、お前の夢の内容が必要だったんだ。だが、もう安心して良いんだ。誰も、お前に夢の内容を聞こうとしない。お前の胸の中に閉まっておいて良いんだ」
「何勝手に話を進めているの?私は」
「榛名!今日の投票用紙を貰えないか?」
 山里理穂子の言葉を遮り、本田総司は言う。
「まだ時間は充分にありますが……宜しいのですか?」
「構わない」
 用紙が手渡され、それをまともに見ずに本田総司はペンを走らせる。そして、穢れた物のように円卓の中心へと投げ捨てる。
 その用紙には確かに、山里理穂子の名にチェックが入っていた。
「え?」
「じゃ、あたしも貰っちゃおうかな。榛名、紙くれる?」
「そうね。書く名が決まっているのだから、無駄に話をする必要も無いわね」
「用紙を下さい」
 三人の少女が用紙を受け取り……それぞれに山里理穂子の名にチェックを入れ、円卓に投げ捨てる。
「4対1だな。君が誰に入れても票はもう覆らない。山里理穂子……君の吊りが決定した」
「な……何で?」
 呆然と山里理穂子は円卓に投げ捨てられた用紙を見る。
「あなた、狂ったの?」
「冷静に考えろ、と言いたいのか?……勿論、冷静だよ」
 本田総司は眼鏡の位置を直しながら、円卓を代表して言う。
「井之上鏡花、田沼香織の人外説は十分に可能性のある話だ。だが、君は勘違いをしていないか?それは、あくまで、可能性だけの話なんだよ」
 本田総司は続ける。
「君が今日、『狐』を殺していれば……君は『真・預言者』として迎え入れられただろう。例え、その夜に喰われるとしてもね」
「『預言者』の真が確定すれば『人狼』に喰われるのは定石」
 井之上鏡花が言葉を挟む。
「だが、君は『狐』を殺せなかった。つまり、君は真の『預言者』の資格を失ったんだよ」
「ま、待ってよ。じゃ、じゃぁ今夜、今夜に井之上鏡花を見ればいいんでしょ。そうすれば私が『預言者』だって証明してみせるわ」
「それじゃダメなんだよね」
 田沼香織が今度は言葉を挟む。
「今日の吊りを俺か志水真帆にしたとしよう。今夜、君が『狐』を殺せたとしよう。だが、同時に『人狼』が『村人』を喰ったとしよう。ならば、その結果はどうなる?」
 本田総司は眼鏡の位置を直しながら、短く言い切った。
「積みだ」
「そ、それなら私を吊っても同じ事じゃない」
「いいや、違うな。君はある可能性に気付いていない」
「え?」
 魂を忘れて来たかのように山里理穂子は声を漏らす。
「山里理穂子が、人外……特に『狐』である可能性だ」
「そんな事があるはずがないじゃないっ!!」
 山里理穂子の叫びと同時に、メイドの少女が左右から山里理穂子を拘束する。
「ちょ、何をするのよっ!!離しなさいよ。離し、離せって……冗談じゃないわよっ!!!」
 山里理穂子は引き摺られながら叫ぶ。
「私は『預言者』なのよっ!何で私が吊られなきゃなんないのよ。『人狼』に喰われるんなら分るわ。何で、何でこの私が吊られるのよぉおおおっ!!!」
 山里理穂子の前に顔に被せる袋が広げられる。
「いやぁぁあっ!いや、いや、いやよぉおおおっ!!きぃゃぁぁあああああああっ!!!!」
 顔に被せられてからは、もうほとんど言葉の意味を失った叫びだった。
 本田総司が用紙を要求し、他のメンバーも同じくそれを要求し、山里理穂子が連れ去られるまで……一瞬の出来事のような素早さだった。
 言葉を挟む間も無かったと思う。言葉を挟む事が……僕には出来なかった。
 そして、呆然としたまま僕は山里理穂子が吊られるのを見る。
 ロープを掴んで吊られまいとしたのは一瞬で、足元の板が外れた瞬間に彼女は……身動ぎのような死の踊りの後に、沈黙していた。
 これで……。
「疲れたから、もう……休ませてもらう。話は明日以降だな、加納」
 席を立ちながら本田総司は言う。
「まだ……明日はあるのか?」
「俺の計算だと、まだあるはずだ。あるはずなんだが……」
 本田総司は円卓を振り返り、三人の少女を見る。
「あると、良いよな」
 ふっと笑みを残し、僕の肩を叩いて去った。