第五日目 昼 1.
 
 
 朝早く、与えられた部屋を出て一階の談話室へと足を向ける。簡単な身支度をして、死者の仮面を付けて……もう見慣れた階段に足を下ろし、変わる事の無い窓の外の風景に目を向ける。
 霧が煙っている。あるか無しかの風に濃淡を付けられながら、霧はその全てを白く塗り潰す。白く、塗り変える。
 窓の外、変わらぬ風景に目を向けながら、僕はその意識を背後に向ける。
 そこには、何時ものように瑠璃が歩いている。
 瑠璃は思ったとおり、昨日の事は何も憶えていなかった。
 バスルームに入った僕を待っている間に寝てしまった、と彼女は記憶していた。
 ルールに沿った記憶の改竄……と言う事か。
 僕は溜息を殺し、後ろを歩く彼女の事は気にしないでいようと思った。
「お早う御座います」
 全員が揃うまでは開かれている談話室の扉を潜り、榛名のにこやかな挨拶を聞く。そして、僕は死者の仮面越しに談話室の……円卓の上に着く面々を見る。
 円卓に座っているのは、六名の男女だ。
 相良耕太、古川晴彦、井之上鏡花、志水真帆、山里理穂子、田沼香織。居ないのは、本田総司と大島和弘の二人だ。つまり、どちらかは喰われた事になる。
 いや、狩人のGJがあれば二人とも生きている事もある。あるが、それは有り得ないだろうとも思った。
 そんな思いを隠しながら、横目で円卓を見る。あの円卓座ったメンバーの中に人狼はいる。間違いなく『村人』である人を喰い散らかした人外が……ん?
 奇妙な視線を感じて、僕は振り返る。が、そこには誰も居ない。いや、榛名は居るが、井之上鏡花と談笑をしている。何を話しているんだ?いやいや、そんな事はどうでもいい。誰もこっちを見ていないのに視線を感じたのが変だった。
 と、僕は気付く。
 クトゥルフと呼ばれていた球体関節人形の少女の目が薄く開かれている。その瞳が、光の加減でこちらを見ているように光ったんだ。
 僕は動かない球体関節人形の瞳を見る。
 深い海のような蒼さを湛えた黒い瞳だった。黒く見えるが、光の加減で青く輝く、そんな色だった。
 あの人形……目を開く事もあるんだ。
 と、僕は視線の主に気付いた事で安心し、席に腰を下ろす。いや、ちょっと待て。
 球体関節人形
 もう一度、僕はクトゥルフを見る。見るが、そこに球体関節人形はいなかった。
 いや、球体関節を使われているんだろう。使われては、いる。が、その球体関節は外からは見えない。薄い皮膜が張られているからだ。
 その皮膜……皮膚そのものは美しいが、その造詣は醜かった。反射的に目を背けてしまうような、生理的に受け付けない醜さを感じた。
 人間の骨格を外骨格にして、その上から無理矢理皮膚を張ったような歪さが、奇妙な違和感が不気味さを際立たせる。吐き気を覚えるってのを僕は生まれて初めて実感した。
 その瞳と髪が異常に美しい事が、より一層不気味にしている。いや、美しさで言ったら、その身体を覆う皮膚も美しい事には違いない。違いないが……。
 ぞくり、と寒気を覚え、僕は目を伏せる。
 毎日徐々に作られていく人形の少女。誰かが死に、人形が完成に近付く。そして……その完成の日には誰も居なくなった館に、人形だけが残される。
 いや、違う。そんな事は無いはずだ。それなら、僕らは勝てないゲームをしている事になる。そもそもよく思い出してみろ。あのクトゥルフは本当に球体関節人形だったか。歪な関節を見て、僕が球体関節人形だと勘違いをしていただけじゃないのか。死体をパーツに人形を作るなんて、有り得ないだろう。
 世迷言だ、と僕は声に出さずに呟く。
「あの、どうかしたんですか?」
 不意に声を掛けられ、ビクッと激しく震える。顔を上げると、瑠璃が心配そうに、僕の顔を覗き込んでいた。
「え?ああ、何でもないよ」
 そう瑠璃に答えながら、僕は談話室に最後に訪れた人物を見る。その人物の背後で、重々しく談話室の扉は閉じられる。
「今日は……大島和弘か」
 談話室の入り口に立ち、本田総司は眼鏡の位置を直しながら静かに言った。
 そこで僕は違和感を感じる。
 今まではメイドが部屋の異常を伝えて来て、死亡が確認されていなかったか?何故、今日に限ってメイドは何も言わないんだ。
 小さな溜息を漏らし、本田総司が言う。
「加納、今日も悪いが……」
「いや、今日は加納はここに居てくれ」
 本田総司の言葉に被せるように相良耕太が口を開いた。
「昨日の大島和弘の言葉を信じた訳じゃないが、殺されたのがアイツなら『村人』確定になる。……だったら、その指摘を無視する訳にもいかないだろう」
 椅子を鳴らし、相良耕太は席を立つ。
 近付く彼に一瞬だけ目を向け、本田総司は自嘲的に言う。
「だったら、二人とも部屋に残っていろってのが筋じゃないのか?」
 眼鏡を抑えたまま、その相良耕太から視線を外すように本田総司が顔を背ける。
「それじゃ、アンタも加納も納得しねえだろうが」
 駄々を言う子供に諭すように、薄く笑う。話しながら、相良耕太は円卓の周りをゆっくりと回り込む。
「加納は死者として基本的にゲームを離れた身だし、昨日のアイツの……大島和弘の意見とは関係なく、俺はアンタに死体を確認して欲しいと思う。今までと同じに、だ。……加納は、文句無いだろう?」
 相良耕太は僕を振り返って言う。が、返事をしたのは古川晴彦だった。
「そう言う事なら、僕も付き合おうか」
 席を立ちながら、古川晴彦は言う。それを見て、相良耕太が顔を歪める。
「そんな露骨に嫌そうな顔をしないでくれ。昔あった子供のゲームと同じだよ、狼と羊を一緒に船で渡らしたら負けってね」
 キレるのを我慢するように相良耕太は顔を引き攣らせて薄く笑う。
「俺が人狼だと言いたいのか?」
「いや、表現が悪かったかな。そうじゃなくて、誰かと組んで行くにも二人ってのはマズイって意味だよ」
 本田総司と相良耕太の前に行き、古川晴彦は笑みを浮かべて振り返る。
「悪いけど、今回は僕らが行って来るよ。加納君もそれでいいよね?」
 古川晴彦は確認をするように聞くが、これは形だけの質問だった。ここで僕がNOと言えば、人狼サイドの発言になる。円卓に残されたメンバーの視線を感じながら僕は答える。
「好きにしたらいいさ。別に死体を見る趣味がある訳じゃない」
 大島和弘が喰われた事によって、彼の昨日の発言が多少なりとも信憑性を持って受け取られたという事だろう。馬鹿馬鹿しいと思う反面、気を付けなければ思う。
 僕はもう吊られたから関係無いが、本田総司を円卓で吊らせる訳にはいかない。
「お嬢さん方も、それで文句は無しだな?」
 相良耕太が円卓に向かって言う。生き残りの内、男子が死体の確認に行き、女子が円卓で待つという形になっていた。
「別に興味ないから良いけど。って言うか、あんなエグイの見たくないし」
 田沼香織が言い、
「私達もそれで良いわ」
 井之上鏡花が答える。が、『私達』だって?
 反射的に彼女を見てしまったが、彼女はもう視線を誰も居なくなった円卓の正面に向けていた。
 『私達』……誰と誰を指しても言葉なのか。井之上鏡花の右側には誰も座ってはいない。左側は、志水真帆で、続いて山里理穂子だ。しかし、彼女達の二人ともそれらしい反応はしていない。
 比較的会話の多かった田沼香織を指して言ったんだろうか?いや、そうじゃない。田沼香織の言葉を聞き、『私達も』と井之上鏡花は言ったんだ。それは井之上鏡花が誰かと組んだ事を意味する。
 この場合、志水真帆と山里理穂子のどちらなんだろう。
 彼女達を見比べていると、
「じゃ、行くか?」
 相良耕太の声が響く。本田総司が僕に目配せをして、背を向ける。その背後、一番後ろを古川晴彦が着いて行く。
 彼等が戻るまで一時、円卓に残った女子達はどことなく気まずそうに顔を見合わせる。
 自分じゃない誰かが死体の確認に行ってくれた。そんな想いがあるんだろう。彼女達の顔には安堵の色が窺える。
 ……何も無い、変わらない死体の確認なのに。
 
 
 戻って来た三人は、何故か口を開かずに席に着いた。三人とも顔色が悪く、重く沈んだ顔をしている。
 いや、人が喰い散らかされている現場を見に行くんだから元気に戻ってくる方が変なんだが……窺うように本田総司に視線を向ける。
 視線を上げた本田総司は僕を見ると、小さく首を横に振った。
「死体は?」
 誰も口を開かないので、井之上鏡花が業を煮やしたように手短に訊く。
「あった」
 それに同じく短い返事を返したのは、相良耕太だった。彼は返事をしながら、本田総司に目を向ける。しかし、本田総司は眼鏡の位置を直すように抑えたまま目を合わそうとしない。仕方なく、といった感じに相良耕太は続けて言う。
「あったが、俺達の、いや、あんた達の想像したものとは違う形だったな」
「何よ、それ?何が言いたいのよ?」
 相良耕太の自嘲的な笑みがどう映ったのか、田沼香織が噛み付くように言う。
「死体はあった。けれど、喰い散らかされてはいなかった」
「へ?」
 古川晴彦が棒読みで答え、それを聞き、田沼香織が間抜けな声を出す。
「間違いなく死体はあった。大島和弘は首を切断された状態だった。しかし、それ以外に見たところ外傷はなく、死体は綺麗なものだったよ」
 眼鏡を抑えたまま本田総司は言った。
「え?で、でも、だって……え?」
 言葉の意味を理解出来ず、田沼香織は離れた席に座る井之上鏡花を見る。
「喰い散らかされずに、そのままの状態で……この場合は、首を切断された状態で、死体が発見された。と、解釈して良いのかしら?」
「ご丁寧に、切断した後にくっ付けようとしたみたいだぜ?」
「それに関しては、僕と相良君の意見が食い違ってて……本田君は、意見を保留だっけ?」
 相良耕太の言葉に古川晴彦が続く。
「保留?」
 井之上鏡花が呟くように言う。
「首を付けようとした、という意見に付いては、保留にしている。実際あれは付けようとしたようにも見えるし、切断面を確認しただけのようにも見えた」
「切断面を確認って?」
 田沼香織が首を傾げる。
「切断した部位が問題なく重なれば良し。という事かしら?」
「それを試す意味が無いと俺は言ったんだが……」
 井之上鏡花が聞き、本田総司が呟くように言う。
「意味はあるんじゃないか。切断面を合わせ、欠損部分が無い事を確認したんだろう。欠損部分が無いのを確認し、人狼は普通の殺しに見せたかったんだ」
 相良耕太が本田総司の言葉を引き継ぎ、古川晴彦が呆れたように首を左右に振る。
「だから、そこが無意味だろう。人狼が犯人なら首を合わせて確かめて見るなんて、おかしいじゃないか。僕は人狼に見せかけた殺人だと思うよ」
人狼に見せかけた殺人なら、俺なら死体をバラバラにするぜ?少なくとも、ここにいる全員は、一度は人狼に喰い散らかされた死体を見ているんだからな」
 相良耕太の言葉に、女子達は吐き気に堪えるように口を抑える。矢島那美の遺体を思い出したんだろう。
「少なくても確実なのは、大島和弘の他殺体があり、他の誰も殺されてはいない。……つまり、昨日の死者は『大島和弘』でいいんだな」
 堂々巡りになりそうな意見を纏める意味で、僕はそう確認した。
「随分と、簡単に言うのね?」
 僕の言葉に不快感を表し、井之上鏡花が言った。
「まるで、大島和弘の死体の意味を考えて欲しくないみたい」
 田沼香織が追随して言葉を紡ぐ。……死体の意味?
「加納は現状の把握をするのに言っただけだ。早とちりをするな。……だろ?」
 相良耕太が僕の意見を待たずに口を開く。
「え?あ……あぁ、そうだ、けど」
「ん、何だ?何か意見でもあるのか?」
 相良耕太に言われ、僕は田沼香織を見る。彼女は拗ねたように横を向き、席の離れている井之上鏡花に相良耕太の悪口を言っている。その様子を見ている限りでは、『死体の意味』は深い意味もなく口にしただけだろうとした思われた。
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
 そして、円卓の上に意見は戻される。
「加納の意見じゃないが……確かに、堂々巡りは芸がないな」
「明確な答えは、人狼だけが知っている。かな?」
 場は、相良耕太と古川晴彦が中心になっていた。これも大島和弘が死んだ効果だろう。
「先ずは、預言者の言葉と死者の夢を聞こうじゃないか」
 相良耕太が言い、円卓に座る面々が頷く。そして、山里理穂子へ視線が向けられる。
「……言ってくれ」
 相良耕太はそう呟いて、目を閉じる。その様子を見ながら、山里理穂子は自嘲的に溜息を漏らす。
「言ってくれ……か。随分、勝手な意見よね。人狼として吊る事が決定しているがお告げだけは聞いてやるぜって感じでいるのかしら」
 誰に言うとも無しに山里理穂子は呟く。
「私がその人物を占ったのは……あまりに人間臭かったからよ。そう、記憶を弄られ、こんな円卓に集められ、人を吊らされる。人じゃないかも知れない。でも、人かも知れない。……ね?」
 薄い笑みを浮かべて山里理穂子は続ける。
「でも、知ってた?それとも人狼には感付いていた、と聞くべきかしら?……私達の感情がある程度コントロールされていたって?」
「何が言いたいんだ?」
 山里理穂子の遠回しな物言いに苛立ったように相良耕太は口を挿む。が、彼女は無視して言葉を紡ぎ続ける。
「普通はこんな場所に連れて来られたらパニック起こして大変よね?だから、そうはならないようにプロテクトでいいのかしら?それが掛けられているの。ある程度の感情の揺さぶりはあるけど、それ以上はないように、ゲームを妨げないように」
 口の両端を持ち上げて、彼女は笑う。
「そんな中で、人間的な振舞いを続ける……あなたは、不自然なまでに人間臭過ぎたのよ」
 彼女は席を立ち、その男を指差し、宣言した。
「相良耕太。あなたは『人狼』よ。もう逃げも隠れも出来ないわ。私は『人狼』を見付け出した。私が喰われれば、あなたが人狼だった証になり、あなたも『吊り』を逃れられない!……一人では死なないわよ。あなたも一緒なのよ」
 山里理穂子に指差された相良耕太はその指先を見て、見ているだけで憂鬱になりそうな溜息を吐く。
 頭をガリガリと掻き、山里理穂子を見上げる。
「あのな、何で、お前が喰われたら俺が『人狼』になるんだよ?」
「な、私が真の『預言者』で、『人狼』に喰われるんだから、黒判定のあなたは『人狼』に決まっているじゃない!」
 山里理穂子は胸を張ってそう言い、相良耕太を見下ろす。
 助けを求めるように相良耕太は、本田総司を見る。が、それを無視するように本田総司は視線を外す。
「……お前が、狂人だった場合はどうなる?」
「え?」
「お前が狂人で人狼に喰われた。喰われたら『真』に間違い無しだ。んじゃ、お前に黒判定を貰っている俺も吊っとけ、ってか?冗談じゃねえぞ」
 相良耕太は立ち上がって声を荒げる。
「手前が吊られるのは勝手だが、俺まで巻き込むんじゃねえ!何が『あなたは人狼よ』だ。っざけんなってんだ」
「……本当にそうかな?」
 呟くように古川晴彦は言う。
「彼女の意見はもっともだと言えないかな?……人間臭過ぎる、か。上手いとこ付くよね?」
「……手前」
「彼女の吊りは逃れられない。だったら、その次は君でも良いんじゃないかな?」
 楽しそうに古川晴彦はそう言う。言いながら、意見を他に求める。
「本田君は、どう思う?」
「俺は……山里理穂子は『真』だと思う。『狐』が殺せていない段階で『預言者』を失うのは……人狼に喰われるなら諦めも付くが、『吊り』で失うのは納得行かない」
 続いて井之上鏡花が意見を言う。
「山里理穂子の真偽は不明。だけど、黒判定が出たのなら『吊り』は確定で……間違いはない。他に預言者が居ない限り、そう思わざるを得ない」
「言われてみれば、確かに演技臭いような気もするよね?」
 田沼香織が続き、
「『吊り』にしない理由はないです」
 志水真帆が告げる。
「……手前ら」
 誰も自分を弁護しないと知った相良耕太が拳を握り締める。握り締めた拳を振り上げる事をせずに、相良耕太は荒々しく席に着く。
「……次は、加納の夢だよな」
 忌々しそうに顔を背けながら、相良耕太は言う。
 
 
 相楽耕太は見るからに不機嫌な態度で、視線を外したまま呟くように言う。
「加納、話してくれ」
 その投げやりな態度に不快なものを感じながらも、僕は相楽耕太の態度には振れずに、話をすることにする。
 大きく息を吸い、出来るだけ気持ちを落ち着けて話し始める。
「その人物が男子なのか女子なのかは、僕には分からなかった。だから、と言うわけじゃ無いけど……僕はその人物を『それ』と呼ばせて貰おうと思う。人物でありながら『it』とするのも変な話だけど……」
 
 それは孤独だった。
 誰かにそう言われた訳じゃ無い。自分でそう思った訳じゃ無い。ただ歴然した事実として、『それ』はひとりだった。
 クラスで、部活で、委員会で、寄り添い助け合う生徒達を見ながら、『それ』は思う。なぜ一人で出来る事を大勢でしたがるのか、と。
 全ての日常が、助け合う事を前提に作られた社会が、『それ』には理解不能だった。しかし、理解不能なまま、それはそれで良いだろうと思った。自分には関係ない話だ。
 変わらない生活が続く。世界は相変わらず、無駄に助け合い、善意を謳歌している。『それ』も目立たぬように、そんな社会の中で生きて行く。……無駄な事ばかりだと思いながら。
 そんなとき、『それ』は『彼女』と出会う。
 出会いは、特別な何かを感じさせるものでは無かった。
 図書館で貸し出しカードを拾い、『彼女』に渡しただけだった。それだけの事、それだけの関係で終わるはずだった。
 読みたい本も無いままに、適当な雑誌を広げる『それ』に話し掛けたのは『彼女』の方だった。
 だが、それもただそれだけの話だった。
 『彼女』の持つ、輝きも、優しさも、明るさも、『それ』の生活には関係無かった。
 ……無かったはずなのに。
 『彼女』は死んだ。
 唐突に、何の前触れも無く、『それ』の手の届かない所に行ってしまった。
 人が一人死んだだけだ。ただそれだけのはずだった。変わらない『それ』の生活は続くはずだった。
 なのに、全ては色褪せ、前よりも下らなくなっていた。
 『彼女』の愛した風景。『彼女』の愛した時間。『彼女』の愛した人々。
 変わらずに、そこにある。あるのに、『彼女』だけがいない。
 『死』は、何れは全てのものを覆い尽くす。全てのもの……例外は無く、朽ちて行くのは絶対の運命だ。
 ただ……『彼女』は、それが他人よりも早かったに過ぎない。そう……人が一人、死んだだけだ。
 『それ』は思う。…………何故、『それ』ではなく『彼女』が死ななければならなかったのか?
 何故、『彼女』が死ななければならない?何かが死ななければいけないのなら、『それ』でも良かったはずだ。
 『彼女』は、世界を愛していた。愛していたんだ。
 『それ』とは違い、この世界を愛していたんだ。
 殺すのなら、何故『それ』にしなかった?世界を奪うというのなら、『それ』の世界を奪えば良いんだ。
 『彼女』の居ない世界で、『それ』は思う。何もかも、消えてしまえ……と。
 色彩の無い世界の中で、『それ』は虚ろな瞳のまま移り行く風景を眺める。
 『彼女』の愛した風景。『彼女』の愛した世界。
 それを見て、自分を慰めようとは思わない。陳腐な慰めなど求めない。
 『それ』は、世界など愛していないのだから。
 
 円卓から視線を外す事で、僕は話の終わりを告げる。が、乾いた拍手の音に外した視線を戻される。
「いやぁ、面白い。中々話し上手だよね、加納君は」
 死者の仮面の中で、僕は顔を歪める。歪め、拍手を終え、ゆったりと手を下ろす古川晴彦を睨む。
「でも、どうして『彼』を『それ』と表現したのかな?」
「加納の話を聞いてなかったのかよ。男か女か分かんねえから、『それ』にしたって言ってただろうが」
 古川晴彦の言葉に、相良耕太が呆れたように返事をする。
「男なのか女なのか、分からない……か。僕は『それ』の話を聞いて男だと感じたけど?」
 絡むように古川晴彦は僕に話し掛ける。無視しようとしたが、にこにこと僕の方を向いたまま視線を外そうとしない。
 心の中で溜息を吐くように僕はうな垂れて返事をする。
「それは僕の主観が入っているからだろう。昨日、見た夢は一人称だったんだ。僕の視点で『それ』の感じた世界……世界観を見せられた。男と感じたのは、多分、僕の所為だろう」
 う〜〜ん、と古川晴彦は納得の行かないような声を上げる。
「それを差し引いても、僕は男だと思うけどなあ」
「男か女か、は関係ないだろう。俺達が問題にすべきは、『人狼』か否かだ」
 本田総司が眼鏡の位置を直しながら言い、女子達の意見を求める。
「お前達は、どう感じた?」
 女子達は互いに顔を見合わせ、小さく意見を交換する。その声は僕の位置までは聞こえない。
人狼……じゃないのかしら?と言うのがあたし達の意見よ」
 女子を代表して返事をしたのは、田沼香織だった。
「加納君が分からないって言ったのは……男の子だったら感じる所はあるって言うか……普通に感じている事だから?」
 話を途中で疑問形にし、田沼香織は井之上鏡花に意見を求める。彼女が頷くの見て、田沼香織は話を続ける。
「私達女子も排他的になる事はあるけど、世界と『彼女』を計りに掛けるような表現はしないと思うの。『彼女』の死は、死として受け止めるみたいな?」
 話の途中で井之上鏡花の顔を見る。
「んで、『人狼』と思ったのは……明快な破壊のイメージは無いけど、危ういバランスで生きてるみたいな感じに思ったの。こう……何て言うか、放っといたら自殺しました。みたいな?」
 話を疑問系にし、田沼香織は視線を落とす。井之上鏡花に確認をしないところを見ると、これで話は終わりなんだろう。
「……つまんねえな」
 ぼそっと呟き、相良耕太はガタッと音を立てて席を立つ。
「どこに行くんだ?」
 咎めるように本田総司は言う。
「どこでもいいだろ。まだ時間はあるんだ。それに……生存の確認なら、朝に集まれば十分だろう。『吊り』の時間には戻るから、好きにさせてもらうぜ」
 振り返らずに相良耕太は言い、そのまま談話室を出て行った。まるで、円卓の中には興味が無いと言うように。