第三話 猫の気持ち
 
 
 今日はバイトも無いので、家でゴロゴロしている予定だった。……けど、非常に気まずいんですが?
 朝食のとき、妹は僕から視線を外して、ずっと手塚さんの世話ばかりしてたし、いまもパソコンで遊びながら、やたら緊張してるっぽい。いや、緊張しているって言うより、意識してるってのが正しいか。
 まぁ、意識してるのは僕も同じだった。
 妹は昨日着ていた僕のタンクトップを相変わらず着ているが、ちょっとしたときに脇とか深く見え過ぎるので、目のやり場に困る。
 しかし、「ノーブラはやめろ」とは言えなかった。
 正直、見てて楽しい……じゃなくて、言うのが恥ずかしいからだ。
 ちなみに、手塚さんはワイシャツ一枚からTシャツと下着に変わっている。
 トイレを覚えたから下着を履いていても大丈夫らしい。ただし、トイレの前で「にゃぁ、にゃぁ」鳴き出したら、扉を開けてあげないとダメだった。もちろん、下着も脱がしてやらないとダメだ。
 というわけで、手塚さんの世話は相変わらず妹がしている。
 しかし、部屋にノーブラの女子高生が二人って……僕は幸せ者なんだろうか?
 そんなことを考えながら雑誌を読んでいたら、手塚さんがするりと僕の前に来て、どかっと雑誌の上に座り込んだ。そして、そのまま何事も無かったように、立てた膝をぺろぺろと舐め始める。
「ちょ……なんだよ」
 ぺろぺろぺろぺろ……。
「これ読んでるんだから、どいてくれよ」
 そう言いながら、雑誌を引き抜こうとするが……全く動かない。
 見ると妹はモニターから目を離し、こっちを冷めた目で見ていた。
「黙って見てないで、何とかしてくれ」
「自分ですれば?」
 由希の声は、限りなく絶対零度に近かった。
 こう言うときの妹には、何を言っても無駄なのを僕は体験上知っていた。触らぬ神に何とやら、だ。
 僕は雑誌を読むのを諦めて、ちょっと外の空気を吸いに出ることにした。
 立ち上がり、
「ちょっとコンビニでも行ってくるけど、なんか欲しい物あるか?」
 と、妹に聞く。
 返事は、
「デザート」
 の一言だった。
 僕は、財布と携帯電話を手にアパートを出る。
 外は初夏の香りを感じさせる晴天で、ときおり見えるツバメの姿が何故か懐かしかった。
 こんなちょっとした風景に癒されるほどに、いまの僕は疲れているんだろうか?
 コンビニで雑誌を立ち読みするも、欲しいような本は無し。先に本屋に行ってから、こっちに来るべきだったか?
 妹のリクエストのデザートは……かぼちゃのプリンを三個買うことで消化し、ついでっぽくカゴにコンドーさんを追加する。
 ちょっと気になっていたレジは、あっさりとスルーできた。
 もし、「未成年者への販売は禁止されてます」とか言われたら、僕はコンドーさんの自販機を探しながら街を彷徨うことになっていただろう。
 アパートの前で、僕は妹にメールを送ることにした。
『お土産、お楽しみに!』
 即行で返事が返ってくる。
 内容は……
『デザートいっぱいよろしくぅ(猫の顔文字)』
 だった。
 猫はやめれ。っていうか、一個ずつしか買ってないよ。
 ついでだから、家じゃ聞けなかったこともメールで聞くことにした。
『明日、学校だろ?今日、帰るのか?』
 即行で返事。……打つの早いな。
『今日も泊まっちゃうよ♪学校の用意は後で取りに帰るつもり(猫の顔文字)』
『猫の顔文字やめれw』
『(猫の顔文字)(猫の顔文字)(猫の顔文字)(猫の顔文字)(猫の顔文字)(猫の顔文字)(猫の顔文字)(猫の顔文字)』
 ダメだ……こいつ。
 僕は返信をせずに携帯電話をポケットに入れると、アパートの階段を上がった。
 玄関の鍵を開けると、ガタガタガタと何かが崩れる音がした。
 な、なんだ??
 部屋に急いで入ると、目をまん丸にした手塚さんと、僕の秘蔵のDVD(エロ)を抱き抱えた妹の姿が見えた。
「あ……こ、これ、観てたわけじゃないからね!」
「観てたって……なに、押入れから出してるんだよ」
「だって、布団をしまうときにラベルの無いディスクがあったから……」
「あったからって、普通は観ないだろ?」
「観てないよ!」
 妹の焦りようが面白い。
「観てない……か。だったら、DVDドライブが開いたままなのは何故だ?」
「ぅ」
「ふふふ。観てないまでも、観ようとしていたな?」
「……うー」
「それに……」
「?」
「内容を知らないにしては、その焦りようは不自然過ぎる!」
「あ……ぅ」
 由希は小さく呻くと、諦めたようにがっくりとうな垂れた。
 僕は妹の前に立つと、コンビニの袋を渡し、抱えているDVDを一枚ずつ取り上げる。
「人ん家の押入れとか、勝手に見るなよ……な?」
 返事が無いので振り返ると、妹はコンビニの袋からコンドーさんを取り出し、ビキビキに固まっていた。
 
 
 かぼちゃのプリンを三人で食べ終わると、妹は学校の用意を取りに実家に帰っていった。
 コンドーさんを見た上で、今夜も泊まると言うことは……やっぱ、OKってことだよね?
 手塚さんのヒップ攻撃から避けるため、僕はベッドを背凭れにし、雑誌を持ち上げて読んでいた。
 な〜の〜に〜……なんで、僕の上で寛いでいるのかな?この猫娘は。
 最初は、胡坐をかいた足の上に座ろうとしてきたから、足を広げ、その間に座らせていたんだけど……そのうち、どん!と勢いつけて胸に凭れて来て、結果がこれだった。
 遠慮なく凭れてくれてるせいで、結構重いんですが。
 今も手塚さんは僕に凭れたまま、手の甲や膝をぺろぺろと舐めている。
 昨日からよく膝を舐めているけど、やっぱ慣れてない歩き方で膝が痛いんだろうか?
 僕はすぐ目の前にある手塚さんの顔をじっと見た。
 そう言えば、女の子の顔を至近距離で、じっと見るのは、これが初めてかもしれない。いや、この距離だけで言うなら初めてだ。
 昨日、由希とキスしたときも、こんなにしっかり見る余裕は無かった。
 ふと、昨日の夜、僕の堅くなった物を舐めていた妹と、今、熱心に膝を舐めている手塚さんの顔が重なった。
 その連想に脳下垂体は過剰に反応し、ダイレクトに下半身に血液を送り込む命令を出した。限りなく脊髄反射に近い、その速度と反応に僕は焦りを感じる。
 ヤバイです。
 僕の反応を知ってか、知らずか……手塚さんは膝を舐めるのをやめ、僕にん〜〜〜〜っと顔を近付けてきた。
 顔全体を押し付けるような猫独特のキス。
 眠たそうな顔の手塚さんは、また毛繕いを始める。
 僕は雑誌をベッドの上に落とし、理性を総動員して天井を見ていた。
 妹の話だと、この子も僕のことが好きだったらしい。が、いまいちピンと来なかった。
 部活のときもあんまり話とかしなかったはずだし、そもそも僕は生まれてこの方モテた記憶が無い。女友達は何人かいるが、彼女いない歴=実年齢である。
 もしかしたら……自分で気付いてないだけで、結構モテるタイプなのか?
 …………あり得ないな。
 現実を再認識させれた結果、僕は下半身が落ち着いてきたので、手塚さんの様子を観察することにした。
 髪型は、普通のショートカットだ。
 でも、今は洗い晒しのままなので、毛先があっちこっち向いている。ちょっと癖毛なのかもしれない。
 学校では綺麗にブロウした髪型しか知らなかったから、今は別人のように見える。
 顔立ちは一言で言うなら……綺麗だ。
 無表情な状態だと、冷たい印象を受けるかもしれない。だから、学校で見てた弱々しい雰囲気は性格から来てるのだろう。
 今は、何だか幸せそうに口元に笑みをずっと浮かべている。
 しかも、眠そうなのがデフォルトだ。
 猫面な妹よりも猫っぽいのは……やっぱ、この表情のせいかな?
 身長は妹と同じくらい。……たぶん、155cmくらいだろう。
 全体的に華奢な感じだけど、太腿の肉付きはいい。
 これでもうちょっと胸があれば、完璧だな。
 顎の下に手をやって、さわさわと撫で上げると、手塚さんは気持ちよさそうに喉を伸ばし、うっとりと目を閉じた。
 彼女の肌のすべすべした感触が気持ちよかった。
 やっぱ、全身つるつるすべすべ……なのかな?
 そう、僕は素直な疑問から、Tシャツの裾に手を滑らし、彼女の胸に触れ……ると、
「いやっ」
 って、小さな悲鳴を上げた。
 え?
 手塚さんが自分の小さな胸を抱くように身を縮め、泣きそうな顔で僕を見ていた。
「え?……あれ???」
「……ぃゃ」
 怯え切った表情が崩れ、いまにも泣き出しそうだった。
「だ、大丈夫。何もしなから……その……え〜と…………」
 落ち着け。冷静に対処するんだ。
 僕は自分の胸に手を当てて何度も深呼吸をすると、両手を広げて害意の無いことを示しながら、怯える手塚さんに話し掛けた。
「えぇ……と、記憶は大丈夫?自分の名前は?」
「手塚……香織」
「OK。……じゃ、俺のこと憶えてる?高校の部活で一緒だった佐藤だけど」
 手塚さんはゆっくりと……しかし、しっかりと頷く。
 僕のことを憶えていてくれたのなら、後の説明は楽にできそうだった。
「うん。じゃぁ、これが最後の質問だから……」
 僕は彼女を……いや、僕自身を抑えるように手を上下にゆっくりと動かしながら、一番大事なことを聞くことにした。
「猫だったときの記憶は……ある?」
 YESでもNOでも、僕が窮地に立たされることは間違いないように思えるが、現実をしっかりと把握しておきたかった。
 その質問に手塚さんは、おずおずと恥ずかしそうに、小さく「はい」と頷いた。
 
 
 こうなって来ると、問題は僕の手に余ってくる。
 手塚さんの胸に触ったとか、妹とのえっちを見られたとか、スカートやワイシャツの裾の際どいところに視線が行っていたとか、そんなことは問題じゃない。
 いや、問題だ。
 だが、それどころじゃない。
 っていうか、由希は、まだか!?
 とにかく、先ずは手塚さんに普通の服装をしてもらおうと思ったのだが、彼女の下着が無いし、制服も無い。
 僕は、急いで妹に電話で確認することにした。
 手塚さんには、いま気持ちを落ち着かせるために、ミルクたっぷりの紅茶を飲んでもらっている。
 ちらりと、様子を見ると、まだ恥ずかしそうに部屋の隅を見ていた。
「あ、俺だけど……」
「ん、どしたの?あたしまだ時間掛かるよ」
 マジか?
「手塚さんの制服とか、どうしたんだ?」
「ほぇ?」
「ほぇ、じゃなくて……」
「いま、コインランドリーで乾かしてるよ。この後、家でアイロン掛けて持って帰るけど」
「あ、そうなのか……」
「なんで制服いるの?まさか……お兄ちゃん、着るつもりだったんじゃ」
「どあほ!手塚さんが元に戻ったから着る服がいるんだよ」
「えぇぇっぇぇえええっ!!」
 僕は顔をしかめて、携帯電話を耳から離す。声、でかすぎ!
「なんで、それを先に言わないのよっ!」
「え?あ、悪い。俺もちょっとパニクってる」
「ちょっと、香織ちゃんに代わって」
「うぃ」
 僕は手塚さんに電話を渡すと、その横に座り……ちょっと離れたところに座り直した。
 電話の内容は気になるけど、横に座っただけでビクッとされたら離れるしかない。
「……うん」
「うん……でも、大丈夫」
「うぅん。…………うん」
「待ってる」
 短い会話が終わると、手塚さんが僕に電話を渡した。
 彼女は、半分くらいになった紅茶のカップを手に上目遣いで僕を見ていた。
「もしもし?」
「あー……一応先に言っておくけど……」
「ん?」
「香織ちゃんにえっちなことしたんだって?」
「な!?」
 あれだけの短い会話で、どれだけの情報を引き出したんだ、この妹は!!?
「まぁ、香織ちゃん可愛いし、猫だったし……しょうがないかなぁ」
「あぁ……その……うん、そうだ……よな?」
「でも、あたしが帰るまでに、それ以上何かしたら殺すよ、兄貴」
 お兄ちゃんから兄貴に降格ですか?
「詳しいこと、あたしが聞くから、いまは何も聞かずに香織ちゃんが落ち着くようにしてて」
「いや、しててって言われても……」
「じゃ、よろしく!馬鹿兄貴」
 電話は一方的に切られた。……けど、どうすればいいんだよ?
 僕は携帯電話をテーブルの上に置き、その場に座り直す。
 手塚さんは、まだ恥ずかしそうにTシャツの胸を隠している。
「あのさ……制服とか、いま洗ってるって」
「はい」
「だから……その……ちょっと待ってて」
 部屋の隅のタンスから、半袖のパーカーとジーパンにベルトを出し、彼女に渡した。
「これだけでも無いよりマシだろうから」
「……ありがとぅ」
 消え入りそうな声だな。
 僕は手塚さんが着替えやすいように部屋を出ると、自分用にコーヒーを淹れることにした。
 目の覚めるような熱くて濃いヤツが飲みたかった。
 
 
 妹はまだ帰って来ない。
 手塚さんは何も話さない。
 彼女は二杯目の紅茶を飲みながら、まだ恥ずかしそうにしていた。
 いや、部活で見た彼女の様子を思い出してみると、これがデフォルトなのかもしれない。っていうか、いまにも泣き出しそうなのを我慢してるようにも見える。
 だから、妹の禁を破り、僕はちょっとした質問をすることにした。
 場を和ませるために……だ。
「あの……手塚さん?」
「は、はい!?」
「あ、あのさ……もうちょっとリラックスしてくれないかな?」
「……」
「そう緊張されると、俺まで緊張しちゃうから……ね」
 手塚さんは、上目遣いに僕を見るだけで、何の反応も見せなかった。
「…………」
 不意に彼女が呟いたが、声が小さ過ぎて、ほとんど聞こえなかった。
「え?」
「あたし……ふぁ……だった」
 ここでいきなり彼女はぽろぽろと泣き出した。
「な……どうしたの?」
「あ……あたし……ファーストキス……だったのに」
 だったのにって言われても……どうしようもなかった。こ、ここは手塚さんをなだめないと、妹が帰ってきたときに誤解されてしまう。
「あ、あれは……ほら、猫だったし」
 ぐずぐずと頭を振りながら、手塚さんは泣き続ける。
「だから……ほら、ファーストキスってお互いの同意の上でのってが基本だから……その、あー言うのはノーカウント……ね?」
 自分に言われたら、そんな話は聞いたことねぇ!ってツッコミを入れそうな苦しい言い訳だが、いまはこれで切り抜けるしかなかった。
「そ、それに……」
「それに?」
 ぐずっと鼻を鳴らして、手塚さんが言葉を続けた。
「む、胸とか触られたし……」
 あー、触りました。
「由希ちゃんとあんなことしてて……」
 しっかり見られてました。
「あ、あたし……どうしたらいいんですか?」
「いや……その……」
 なんでこうなるんだ?普通に会話したかっただけなのに。
「キスは事故……だよね?それに胸を触ったのも……猫のときだから事故……に、ならないかな?」
 なる訳ないよね。
 八方ふさがりで、僕の方が泣きたい気分になってきた。
「最初……」
 ん?
「最初……この部屋で目を覚ましたとき、先輩が傍にいてくれて、すごくうれしかった」
「え?」
「あたし……先輩の傍にいられるなら、ずっと猫でもいいと思ったのに」
「いや、それって?」
「由希ちゃんとあんなことしてるなんて……」
「……ぅ」
「先輩……あたしじゃダメなんですか?」
 こ、これって告白されてる?
 真直ぐな目で僕を見てくる手塚さんを前に、僕は何も言えなくなっていた。
 
 
 数時間後、僕はまた街を彷徨っていた。
 妹は帰ってくると、
「香織ちゃんと大事な話をするから出て行って」
 と、当たり前のように僕をアパートから追い出した。
 携帯電話で連絡するまで帰ってくるな。とのことだ。
 僕のアパートなのに、この扱いは酷過ぎると思う。しかし、妹と昨日の夜にしたことと、手塚さんにしたことを考えると……怖くて部屋に戻ることはできなかった。
 もしかしたら……修羅場の真っ最中かもしれない。
 都合のいいことを言うようだけど、それだけはやめてほしかった。まだ二人で僕の悪口で盛り上がってくれたほうがいいと思う。
 僕は公園のベンチ(またこの公園かよ)で、自分の気持ちを整理してみようと思った。
 妹は……由希は可愛いと思う。
 昨日は、いきなりあんな展開だったけど、もっと普通に恋人同士みたいな感じで付き合いたいと思う。
 もちろん、えっちなこともしたい。
 デートもしたいし、ずっと傍にいたい。
 それに、なんて言うか……言葉にならない部分で、由希を守りたいと感じている僕がいる。
 じゃぁ、手塚さんのことをどう思うかって言うと……彼女のことも可愛いと思っていたりする。
 僕だけを見ているあの目が愛しく、ずっと傍に置いておきたいと感じている。たっぷりと可愛がりたいと思う。
 この妹を触れた手は、手塚さんを求めている……それをいま僕は自覚している。
 でも、それだけじゃない。
 手塚さんへの想いは、自分勝手な欲望だけじゃない……多分。
 そう……高校の部活のとき、ずっと僕は手塚さんを見ていた。
 だから、部屋で最初に彼女を見たとき、僕はあんなに戸惑ったんだ。
 それに、僕は……僕は、ずっと彼女のことを忘れてなかった。
 これが『好き』なのか?
 じゃ、妹は?由希のことは『好き』じゃないのか?
 …………結局のところ、僕は二人とも好きなんだろう。
 不誠実な気持ちかもしれない。でも、自分の正直な意見を言わせてもらうなら、
『二人と、えっちがしたい!!』
 が、本気の本音だった。
 そう僕は童貞だし、昨日からオアズケ状態だ。
 だが、しかし!それは許されない。
 道徳とか常識とかモラルの問題じゃなく、由希と手塚さんが友達だからだ。
 僕は二人とも好きだから、二人が仲違いするようなことはしたくない。
 じゃぁ、二人と均等に距離を取って付き合えるのか?
 そんな器用なことが、僕にできるとは思えなかった。
 なら……それなら、どうしたらいい?
 答えが出ないまま時間だけが過ぎ、僕の携帯電話が鳴った。
 
 
 アパートに帰ると僕を温かく迎えてくれたのはカレーの匂いだった。
「おかえり〜」
「おかえりなさい」
 二人は仲良くカレーを作っていた。……が、僕は緊張したまま玄関で立ち尽くしていた。
「……」
「あ、お風呂沸いてるから先に入ってて」
 緊張感の欠片も無い柔らかい雰囲気にアパートの部屋は満たされていた。
 なんていうか……拍子抜け?
 っていうか、状況が把握できないんですけど?
「あ、詳しい話は後でするから……ね」
 やたら上機嫌な妹が怖いんですが。
 とにかく、何か嫌な予感がしたので、僕は素直に風呂に入るとこにした。
 湯船に浸かり、この二日間、やたら疲れたとか思ってると、バスタオルに身を包んだ由希が風呂場に乱入してきた。
「ちょ……なんだよ、いきなり」
「ん?背中でも流そうかなって思って」
「て、手塚さんは?」
「香織ちゃんはジャンケンで負けて、カレーのお鍋を見てるよ」
 はぁ?
「えっとね……ここにいる間、二人で共同戦線を張ることになったの」
 何を仰ってるんでしょうか?この方は。
「つまり、二人で競争しつつお兄ちゃんを落とすの」
「なんだよ、それ」
「いやなの?」
「いやって言うか……俺の気持ちとか、どーなるんだよ」
「気持ち……ねぇ」
「そうだよ。俺の気持ち」
 ふぅんと鼻で笑いながら、妹は冷たい目で僕を見る。
「二人とも可愛いから、どっちかなんか選べない?とか考えてたくせに」
「!?」
「何年妹やってると思ってるの?お兄ちゃんの性格も好みも把握済みです」
「な……」
「で、背中流さなくていいの?」
「いい!もう洗ったからいいよ」
「そっか」
「そうだ」
「じゃ、そろそろご飯だから、てきとうに出てきてね」
 と、妹はにんまり笑いながら、風呂場から出て行った。
 二人で競走だって?
 どう考えても妹のほうが有利じゃん。いや、そう言う問題じゃない。
 この先、いったいどうなるんだ?
 
 
 カレーは美味しかった。
 それにコショウの効いたポテトとベーコンのサラダがめちゃくちゃ美味しかった。
 正直に感想を言うと、手塚さんの作った分だったらしく、
「そこまで褒めたら、ご褒美とかないとね〜」
 と、由希が囃し立てた。
「香織ちゃん、ご褒美欲しいよね?」
 え?あの?と口篭りながら、
「……欲しいです」
 と、顔を赤くして手塚さんが言った。
「ご褒美って何だよ?」
 僕が不貞腐れたように聞くと、二人でコソコソと話し合い。
「じゃ、お兄ちゃんは今から『手塚さん』じゃなく『香織』と呼ぶこと!」
「はぁ?それのどこがご褒美なんだよ」
「いいから、いいから」
 手塚さんは恥ずかしそうに俯いているだけで、何も言わない。
「じゃ、最初の命令は、なに?」
「命令??」
「命令、お願い、何でもどーぞ」
 何か変なノリだが……僕はとりあえずコーヒーでも淹れてもらうことにした。
「あー……じゃぁ」
 コホンと咳払いをして、
「香織、コーヒーを淹れてくれ」
 僕は言い、
「……はい。かしこまりました」
 香織はそう答えると、逃げるようにキッチンへと行ってしまった。
 かしこまりましたって……ちょっと萌えた。
 妹は香織の後を追い、キッチンへ入っていった。二人の話し声は聞こえるが、内容まではわからない。が、きゃーきゃーと盛り上がっているのは間違い無いようだった。
 コーヒーが入り、二人が戻ってくると、今度はジャンケンを始め、また妹が勝っていた。
「じゃぁ、あたしが買ってくるから、香織ちゃんはお兄ちゃんのお世話をすること!いいね?」
「……はい」
 ん〜〜、二人の間で何らかの力関係ができているみたいだけど、これでいいのか?
 由希が出て行くと、香織は改めて僕の前で正座し、
「不束者ですが、よろしくお願いします」
 と、頭を下げた。
「ちょ、それって……ちょっと待って」
「はい?」
「それって嫁ぐときや初夜のときにする挨拶だし……」
「え!?しょ、初夜???」
 初夜と聞き、香織の顔が真っ赤に染まる。
「うん」
「だって、由希ちゃんが部屋に泊めてもらうんだし、ちゃんとした挨拶しないとダメだよって、教えてくれたんで……」
 語尾はごにょごにょとして聞き取れなかった。
「……あの馬鹿妹め」
 香織は、正座したまま下を向いて動かなくなってしまった。耳まで赤くなっているのが可愛い。
「まぁ、泊めるって言っても今夜だけだし、大袈裟に考えなくてもいいよ」
「え?」
「えって?」
「由希ちゃんは、とうぶんお世話になるって……」
 何だって?
「あたしがもうちょっと安定するまでとか、猫が治るまで……とか言ってましたが」
「ちょっと待って。電話するから」
 急いで番号を打ち込む……と、ベッドの上から呼び出し音が聞こえた。
 携帯電話、置いていってるじゃん。
「むぅ……。あいつ、どこに行ったの?」
「え?それは……あの……あたしの着替えを……買いに行くと……」
「あ、そっか。そう言うのもいるよね」
 詳しいことは妹が帰ってきてから……か。
 マジで詳しく聞かないとダメだな、これは。
 
 
 妹が帰ってくると、とりあえず着替えを香織に渡す間だけ待って、キッチンに呼び出した。
「どうなってんだよ?」
「お兄ちゃん、声が大きい。香織ちゃんが怯えるじゃない」
「いや、とにかく説明してくれ。詳しくな」
「説明って言っても……う〜〜〜ん、どこから説明しようか?」
「最初っから説明しろ」
「じゃ、猫!猫からでいい?」
 ピッと人差し指を立てて、嬉しそうに由希は聞いてきた。
「あぁ」
 僕の返事を聞いて、由希は自信に満ちた顔で、「ん」と大きく頷くと話し出した。
「あれって、多重人格の一種っぽいよ」
「え?」
「子供のときに飼ってた猫が香織ちゃんの中にいるみたい。実際にそう言う症例もあるし」
「猫の人格?」
「うん。小さい頃から一人のときに猫になっちゃうことが多かったって……でも、普段なら簡単に戻れるって言ってた」
「……」
「だから、今回みたいに一日以上猫のまんまってのは初めてだって」
「でも、それって」
「最後まで聞いて。だからね、一人にならなければ猫化しないってわけ」
「いま向こうの部屋で一人だけど……」
「だーかーらー、両親もいない好きな人も遠くに行っちゃったってのが原因なわけ。お兄ちゃんが傍にいる限り猫にはもうなりません」
 由希は、きっぱりと言い切った。
「でも、ずっと一緒にいたのに猫のまんまだったじゃないか」
「おっかなびっくり扱われて、女の子の心が癒されるわけないでしょ?」
「そういう問題か?」
「うん」
 と、由希は大きく頷く。
「だから、香織ちゃんが安心するまで、一緒に暮らすことにしたの。いずれは家のほうで一緒に住めるようにお父さんに頼もうと思ってるけど、今はまだ無理だと思う」
「ここならいいのかよ」
「うん」
 あっさり返事しやがって……。
「香織ちゃ〜〜ん。着替え終わった?」
 もう話は終わったと思ったのか、由希は背中を向けて襖に手を掛ける。
「ちょっと待て、話はまだ……」
 と言いかけたまま、僕は凍り付いてしまった。いや、見惚れてしまったと言うべきか?
 妹が開いた襖の向こうに、メイド服を着た香織が恥ずかしそうに立っていたからだ。
 しかも、そこに立っているのは、安っぽいコスプレ衣装じゃない……本物のメイドさんだった。
 その姿に、僕は魂を奪われたかのように、呆然と見惚れる。
 だが、断言しておこう。僕はそっち系のマニアじゃない!
 いや、ほんと……変な属性とか無いですから。
 
 
 メイド服を着た香織は、嬉々として食器を洗っていた。
 夕食は昼の残りのカレーを使ったドライカレーと、何か聞いたことも無い酸っぱいスープだった。
 妹が言うには、インド料理らしいが、はっきり言って僕の口には合わなかった。だが、香織が褒めていたから、単に合わなかっただけだろう。
「どこであんな服買ってきたんだよ?」
 食後のコーヒーを啜りながら、僕は由希に話し掛ける。
「ん?制服の専門店だよ。業務用の」
 由希はストレート・ティを優雅に飲んでいた。夕方に、自分用にと買って来たヤツだ。
「そんなとこあるのか?」
「あ、またエッチなお店で買ってきたとか思ってたんでしょ?」
 見事に言い当てられたが、僕はそれを顔に出さず、もう一口コーヒーを啜った。
「花の女子高生がそんなとこ入れるわけないでしょ」
 花の女子高生は、メイド服を買ったりはしない……と、心の中でツッコミを入れ、僕は手近にあった雑誌を読むことにした。
 
 
 その夜。
 二人にベッドを譲り、僕は一人で布団で寝ることにした。
 悶々としたものは、素数を数えることで退散させた。っていうか、羊を数えるより寝付きが良かった。