前編
 
 珍しく旧友の湯坂が電話をしてきた。
 用件も告げず、あの頃は良かっただの、俺達も年を取っただのと言っている。
 この男は、頼み事があると何時も用件を後回しにするのが悪い癖だ。しかも、後になればなるほど嫌な頼みと言うのが今までの経験でわかっている。
「湯坂君。何か用件があれば早く言いたまえ」
 私の言葉にも、湯坂は「いや、いや」と話を引き伸ばそうとする。
「いい加減にしたまえ。私も暇じゃないんだから、用がないなら電話を切るぞ」
 相変わらず、湯坂はうむと頷くだけで用件を言おうとしない。
「いや、実は……恵子君を知っているかな?元町のカフェで女給をしている」
 長い沈黙の後、やっと湯坂は用件を話し出した。
「あぁ。君が前からモーションを掛けていた、あの子だね」
「そうそう。その恵子君に、ちと頼まれ事をしてしまったんだが……」
 ここまで言って、湯坂は黙ってしまった。
「言い掛けて黙るのは止めたまえ」
「あ、あぁ……すまん」
「で、その頼まれ事を私にさせて、君は自分の株を上げるつもりかい?」
 私の嫌味を聞いても、湯坂は続きを話そうとしない。
「うむ。しかし、俺には君以外に頼める人間がいないんだよ」
「そう言う台詞は、用件を述べてから言うものだよ」
「おぉ!そうだ。明日の夕方は時間が空いてるかな?」
 電話では言い難い用件と言う事か。
「あぁ、特に用事は無いが」
「それは良い。じゃぁ、そうだな……場所は、山手の松屋でどうだい?」
 弾んだ声で、湯坂は待ち合わせの場所を言ってきた。
「おぃおぃ。貧乏人に無茶を言うな。そんな高級料亭に行けるはずがないだろ?」
 実際、湯坂も私もそんなに裕福な生活をしていない。
「いや。勘定のことなら心配するな。あそこは先生の行き付けの店だからツケが利くんだよ」
「ん?君の頼み事は大原先生もご存知なのか?」
 電話越しに湯坂の舌打ちが聞こえて来たが、私は何も言わなかった。
「まぁ、詳しい事は会って話そう」
 余程慌てたのか、そう言うと湯坂は一方的に電話を切ってしまった。
 はてさて、どんな用件なのやら。
 電話を置いて、私は書き掛けの小説に向かい直した。 
 
 
 松屋は元町でも、老舗に入る料亭である。敷居も高いが値段も高いと評判の店だ。
 湯坂は店の前で立ち、私を待っていた。
「君一人じゃ入り難かろうと思ってね」
 にやりと笑いながら、湯坂はそう言った。
 この男、顔は良いんだが、笑うとどうもいけない。口許に下品な皺が入るのだ。
 もっとも、カフェの女給達は、それを可愛いとちやほやしているが。
 通されたのは、奥の六畳間だった。
 一通り酒と料理が来ると、湯坂は「用があったら、言いに行く」と仲居を引き払ってしまった。
「君は日本酒が駄目だったから、ワインを用意させてもらったよ」
 湯坂は上機嫌にワイングラスを持ち、香りを楽しんでいる。
 私も少し舐めてみたが、これは甘くて飲みやすかった。
「酒に酔わせて物を頼むのは、どうも卑怯な気がするな」
 笑いながら言うと湯坂は箸を止め、私の顔をじっと見詰めていた。
「君……幽霊というのを信じるかい?」
 私が余程怪訝な顔をしたのか、湯坂は声を出して笑い出した。
「いや失敬失敬。しかし、その顔を見ると君は幽霊を信じていないね」
「信じていないでもないが……。まさか、それが頼み事じゃないだろうね」
 湯坂は私の顔を見たまま、にやりと笑った。
「まぁ、順を追って話をしよう」
 ワインを一口呑み、湯坂は軽く咳払いをした。
「そこの角を曲がって、坂を登って行くと古い洋館が立ち並んで居るのを君も知っているだろう」
 この神戸には、通称『異人館通り』と言われている別荘地がある。
「そこに赤いとんがり屋根の家があるだろう?あの洋館の前の通りにアレが出ると言うんだよ。恵子君はカフェの仕事が終ると繁華街を避けて帰ってるんだが、そう言う噂があると帰りが怖くて仕方ないと……」
「その恵子君は、どこに住んでるんだい?」
 湯坂は、元町と新開地の境と言った。
「ふぅん。随分と遠回りして帰るんだね」
「あぁ。夜の繁華街は外国の船員が多くて、女の一人歩きは何かと物騒だからね」
 適当な事を言っている湯坂の顔を見ながら、私は煙草に火を付けた。
 指先で弾いて、マッチの火を消す。
「まぁ、それは良いじゃないか。とにかく、恵子君が言うには本当にアレが出るのかどうか知りたい。もし、本当なら退治してくれと」
 そう言うと、湯坂は懐から煙草を出した。
「ほう。君が魑魅魍魎の類を退治できるとは知らなかった」
 私の言葉に湯坂は、うむ!と大きく頷いて、こう言った。
「俺も知らなかった」
 昔から調子の良い奴だったが、未だに直ってないと見える。
「言っとくが、私もそんな器用な事は出来ないよ」
 湯坂は、他人事のように煙草をふかしている。
「よくまぁ、そんな事を約束できたね」
「あぁ。俺も幽霊なんて信じてなかったからね」
 煙草の灰を落しながら、湯坂は言った。
「一晩見張りをして、ほら何も出ないじゃないか。それで終り。これで男の株が上がるなら安いモンだと思ったんだよ」
「安いモンなら、君が行きたまえ」
 湯坂は、暗い顔をして下向いたまま黙ってしまった。
「まさか……君、行ってみたのかい?」
 何も言わない湯坂の顔を見ながら、私は煙草を灰皿でもみ消した。
「何とか言いたまえ。アレは出たのかい?」
 私の言葉に湯坂は小さく首を振った。
「松田君……いやさ井荻よ。俺達は親友だよな?」
 下を向いたまま湯坂が言った。
 都合の良い時だけの親友か。
「この事は、他言無用だぞ」
 湯坂は、下から睨め付けるように見てくる。
「実は……怖くて行けなかったんだよ」
 こう言う男だ。
「だが、このままでは男が廃るってモンだ。そこで井荻!親友のお前を男と見込んで頼みたいんだ。……代わりに行ってくれんか?」
 男男と暑苦しい奴だ。
 湯坂は真剣な表情でこちらを見ているが、どこか嘘臭さを感じる。
「ところで……湯坂君。いやさ耕作よ。俺達は親友だよな?」
 私は湯坂の口調を真似て言ってやった。
「おぉ!そうだとも!」
 湯坂は胸を張って答えた。
「じゃぁ。隠し事は止めにしないかぃ?」
 湯坂は胸を張り、顎を突き出したまま、目だけを右に動かした。
「な、何の事だい?」
「大原先生は、この件にどれくらい噛んでいるのかな。と……」
 姿勢を変えず、目だけが泳いでいる湯坂の顔は中々おもしろかった。
「差し詰め、先生がその洋館を買うか借りるかしたが、後でアレが出ると言う噂を聞いた。そこで君は、先生に噂の真意が判らん事には気味が悪いので調べてくれと頼まれる。人の口を辿り歩いている内にカフェの恵子君からも、やはり困っていると聞く。そこで君は思ったわけだ。この幽霊騒ぎに決着を付ければ、先生の信用も得られるし恵子君の気持ちも君に傾く。……どうだい?」
 私の言葉を聞いて、湯坂は、うぅむと唸っている。
「さすが、売れてなくても物書きの端くれだな」
 売れてないも、端くれも余分だ。
 湯坂は居直ったように足を崩し、ワインを一気に飲み干した。
「いや、その通りだ」
「それと、もう一つ。先生から謝礼はいくら出るんだい」
 私の質問にワインの瓶を取り掛けた手を、ぴくっと震わせて湯坂は神妙な顔を向けた。
「あの豪気な先生が気味が悪いなんて理由で君に頼んだんだ。口止め料込みで結構貰ったんじゃないか?」
 湯坂は悪戯が見付かった子供のように横を向いた。
「井荻。そう言う事を聞くのは下世話すぎんか?なぁ、君は一晩洋館に泊まり、奇異な経験をして小説のネタにする。私は先生と恵子君に対して男を上げる。これで良いじゃないか」
「……で、いくらだい?」
 観念したように湯坂は左の手を広げて、これだけだと言った。
「七三だね」
 私の言葉を聞いて、湯坂は座卓に手を置いて身を乗り出した。
「おい。いくらなんでも、それは殺生という物だよ。せめて、折半にしてくれんか?」
「君は話を持って来ただけだろう。三割でも取り過ぎだよ」
「いや、しかし、先生から謝礼を貰っても懐が寂しいままだと、人に頼んだのがバレてしまうじゃないか」
 湯坂は泣きそうな顔で、両手を合わせた。
「実は、恵子君にブローチを買う約束をしてしまったんだ。だから、そこを何とか……」
 やれやれ、人が引き受けるのを見越して違う約束をしたのか。
 私の表情を見て、湯坂は照れたように笑った。
「いや、すまん。さすがは親友様だ。じゃぁ、謝礼は折半。館の鍵は明日の昼にでも届けさせるよ」
 湯坂は「さぁ、芸者を呼んでくるか」と嬉しそうに部屋を出て行った。
 しかし、ここの勘定が先生のツケであり、芸者まで上げて遊ぶと言う事は……先生は、湯坂の奴に「本当にアレが出るか、調べられる人間を探してくれ」と頼んだのかも知れないな。
 と言う事は……謝礼とは別に紹介料を貰っている可能性もあるか?
 色々と引っ掛かる事は多かったが、湯坂が芸者を連れて上機嫌で戻って来た頃には、そんな事はどうでも良くなっていた。
 
 
 翌日。
 出先から帰ると、下宿の女将が大きな紙袋を預かっていた。
 約束通り、昼過ぎに先生の所の書生がやって来て、置いて帰ったそうだ。
 紙袋の中身は、洋館の過去の持ち主が書かれた書類と、湯坂が聞き歩いた話を紙にまとめた物だった。館の周辺で起こった奇異が何種類も書いてある。
 その紙袋の底に小さな鍵が入っていた。
「あら?どこの鍵ですの?」
 私の掌に落ちた鍵を覗き込んで、女将は意地悪そうな顔をして聞いて来た。
「また、どこかのお嬢さんのかしら?いけない人ですわねぇ」
 こういう言い方をされると、以前に私がどこかのお嬢さんを誑かしたかのように聞こえる。
「まさか。北野町の異人館の鍵ですよ。友人に頼まれて、今夜泊りに行きます」
 まぁまぁと大袈裟に女将は驚いて見せた。
「随分とハイカラな所で待ち合わせなさいますのね。やっぱり、物書きの先生は一味違うわ」
 どうやら女将は、私が逢引きをするものと信じ込んでしまっているようだ。
「生憎と今夜は一人ですよ。何でしたら後で見に来てもらっても構いませんよ。赤いとんがり屋根の家です」
 何を誤解したのか女将は顔を真っ赤にして背中を向けてしまった。
「いやですわ。未亡人とはいえ、私は主人に操を立てていますの。そんな事を言われては……」
 そこまで言って、女将はしなを作って顔だけをこちらに向けた。
「赤いとんがり屋根の家って、まさか……」
 女将も噂を知っているようだ。
「えぇ。アレが出ると噂の異人館です」
 女将はこちらを向き直り、腰を落して聞いてきた。興味の対象が変わったようだ。
「あの噂は本当ですの?」
「それを確かめに行くんですよ。だから色恋沙汰とは違います」
 女将は感心したような顔をしている。
「何時もネタが無いって言ってたけど……。やっぱり、小説家って大変なのですわねぇ」
 ネタが無いのは事実だが、他人の口から言われると物悲しい気持ちになる。
「何時出られるの?」
 唐突に女将が聞いて来た。
「四時頃にしようと思ってますが……。何か?」
「いえ。あの辺りは食べ物屋もありませんから。……後で、茜にお弁当でも持って上がらせますわね」
 そう言って女将は奥に戻ってしまった。
 私も、何時までも玄関先で立っていても仕方が無いので、そのまま二階に上がる事にした。
 
 
 この下宿(正しくは民家に間借りしているだけだが)には、女将と娘の茜さんが住んでいた。女ばかりでは物騒だと言う理由で、私が間借りしている。
 最初は間男だのナンだのと噂されていたようだが、女将さんの人柄もあって、最近では、「売れない物書きなんぞは、早く追い出してしまいなさい」という進言の方が多いようだ。
 私は出かける前に、湯坂が調べた物に目を通そうと机の前に座った。
 湯坂の調子の良い性格からは、想像も出来ない端正な字で紙面は埋められていた。
 奴が以前に「文と言うのは人柄を映す鏡みたいなのだからね。やはり誠実で真摯な文字で恋文は書かなければ、想いは伝わらないものだよ」と言っていたのを思い出した。
 しかし、内容の方はどうも一貫性が無い。
 噂が噂を呼んだと言うのか、微妙に違うだけならまだしも全然違う話も混じっている。
 面白がって話を作った物もあるようだった。お蔭で、どれが本当の話かさっぱり判らない。
 読み終えて、懐中時計を見ると三時を少し回っていた。
「さてと、ちと早いが……行くか」
 私は鍵と煙草を懐に入れて立ち上がった。その時、ととと……と軽やかに階段を上がる足音が聞こえた。
 どうやら、女将の娘が帰って来たようだ。
 勢い良く襖が開けられ、セーラー服に三つ編みの娘が部屋に入って来た。
「茜さん。戸を開けるときはノックをしてくださいと言ってるでしょう」
「そんな事より、今夜あの幽霊館に泊るんですって」
 娘は目をキラキラさせて私に詰め寄った。
「えぇ。今から出掛けようと思っていた所ですよ」
「へぇ〜。でも、あそこ本当に出るらしいよ。大丈夫?」
 大丈夫と聞きながらも、少しも心配そうではない。
 この娘は一回り違う私に懐いてたが、どうも口に毒があって行けない。母親の女将の前では、楚々とした物なのだから、何時もそうしていて貰いたいものだ。
「何で、そんな事引き受けたの?」
 疑問に思っているわけではない。私が期待通りの答えを言うのを待っての問いだ。
「いや。小説のネタになるかなと思ってね」
 ふぅんと気の無い返事をしながら、娘はにんまりと笑っている。
「まだ、時間あるんでしょ?お母さんがお紅茶でもどうですかって。良い葉を貰ったんだって」
「あぁ、いいですね。戴きます」
 今日の三時の話題は、私がいかに小説のネタが無いかに決まったようだ。
 私は娘に判らないように溜息を吐いた。