中編
 
 
 私は、赤い煉瓦が敷き詰められた坂を登っていた。
 このオランダ坂と呼ばれる道は、人が辛うじて擦れ違える程の幅しか無かった。
 辺りの塀と植え込みが、丁度良い日陰を作ってくれているのが助かったが、勾配のきつい坂道を随分と登って来たため、額に汗が浮いていた。
 私は日陰に入り、ハンカチで汗を拭う。九月も半ばに入ったというのに、蝉が忙しなく鳴いていた。
 しかし、蝉の声に混じって鈴虫の声が聞こえる所を見ると、もう夏も終りなんだろう。
 目的の異人館はここよりも西にあるのだが、この上の通りでもアレが出ると言うので、同じ歩くならと寄り道をしているわけだ。
 日陰に立っている私を、自転車を押しながら豆腐屋が追い越して行った。
 禿げた頭に麦藁帽子を被っている。
 年を感じさせない力強さで老人は坂を登って行く。
 私は、坂の上で小さくなった豆腐屋を追うように歩き出した。
 坂を登り終えると、やや広い通りに出た。
 この近所の家は、坂ではなくこの平らな道に、向かい合うように玄関を作っていた。
 しかし、辺りに人の姿は見えなかった。アレの噂を聞こうと遠回りをしたのだが、坂の途中でも会ったのは豆腐屋だけだった。
 仕事の邪魔をしては行けないと話し掛けなったが、こんな事なら声くらいは掛けておくべきだったかも知れない。
「もう少し……人がいても良いだろうにね」
 私は、もう一度辺りを見て呟いた。
 まぁ、その内に誰ぞに出会うだろうと歩を進めて行く。
 だが、予想に反して誰とも会わない内に、例のとんがり屋根が見えて来た。
 やれやれ、遠回りしただけ無駄になったか。
 館に近付くと門の前で、人がしゃがみ込んでいた。
 後姿からすると、どこぞの若奥様という風情だ。
「どうしました?」
 私が声を掛けると、彼女は顔だけをこちらに向けた。
 意外と若く、まだ十代の半ば位に見える。色の白い線の細い顔にうっすらと汗が浮いていた。
「こちらの家の方ですか?」
 苦しそうに眉を寄せて、か細い声で聞いて来た。
「えぇ。まぁ……そうですね」
「出来れば、お水を一杯戴きたいのですが……。お薬を飲みたいのです」
 私の切れの悪い返事を無視して、彼女は頼んできた。
 よほど辛いのだろうと肩を貸してやると、意外な程彼女の身体は軽かった。
 門を開け、庭に入る。
 アレが出ると噂されるくらいだから荒れ放題だろうと思っていたが、庭の手入れは行き届いていた。
 青い芝生と白いペンキが塗られた壁、それに赤いとんがり屋根が傾いた日を受けている。その外観からは、とても幽霊屋敷と思えない。こぢんまりとした異国情緒に溢れた館であった。
 苦しんでいる婦女子を待たせたまま、何時までも見惚れているわけにも行かず、私は急いで玄関に鍵を刺し込んだ。
 ドアは音も立てずに開いた。家の中も手入れはされているようだ。
 玄関の傍にソファーがあったので、彼女をそこに座らせた。
「水を入れてきますので、ここで待っていてください」
 返事をする気力も無いのか、彼女は項垂れたまま座っている。
 さて、厨はどこにあるのか?
 私は取り敢えず、奥の部屋へと歩いて行く。
 一つ二つとドアを開けて行くと、すぐに厨へと行けた。
 置いてあったグラスを濯ぎ、水を汲んで玄関に戻る。
「遅くなって、すみま……」
 私は言い掛けた言葉を飲み込んだ。
 ソファーの上に彼女の姿は無かった。
 玄関は、入って来た時と同じく、開いたままだった。出て行ったような気配は無かったし、さりとて家の中に人がいる気配も無い。
 ソファーに近付き、彼女が座っていた所を見ると濡れたような後が残っている。
 早速、出たというわけか。
「まだ、日も高いと言うのに……」
 水の入ったグラスを持ったまま、私は玄関のドアを閉めた。
  
 
 この洋館は南向きに立っていた。
 玄関は広く、入って最初に目に付くのが天井の高さだった。
 靴を脱いで上がるための段差が無い事よりも、この天井の高さが西洋の建築である事を印象付ける。
 玄関の正面右手に階段があり、踊り場の窓から裏庭の桜の木が見えていた。
 右手にあるドアを開けると、室内には大きな机と本の入っていない本棚が置いてあった。
 机の正面と左側に、大きな窓がある。
 正面の窓の下にグリーンの皮を張ったソファーと、左側に低いサイドボードが置かれていた。サイドボードの中には、数種の洋酒と磨かれたグラスが入れられている。
 机の後ろから室内を見渡すと、やはり背の高い窓が印象的だ。
 どちらの窓からも、庭に植えられた様々な木が見える。
 この洋館が建てられたのは、明治の後半と聞いたが、その時に植えられたのだろう。しっかりと根を張り、高く生い茂っていた。
 私は部屋の中央へと進み、机の前に立つ。机は両袖で、重厚な木製の物だった。
 良く見ると、随分と使い込んであるように見える。新しく用意された物ではなく、前の持ち主が置いて行った物かもしれない。
 何時か、私もこのような机で執筆したいと思う。
 ふと、気になって机の左の引出しを引いてみた。
 何も無かった。
 引出しを戻し、その下も見てみる。
 そこに……一枚の写真が入っていた。
 セピアカラーが更に色褪せ、細かい埃が薄く表面に浮いている。
 金髪の婦人と小さな女の子が、幸せそうに微笑んでいる。この家ではない、どこかの洋館が後ろに写っていた。
 しばらく写真を見ていたが引出しに戻し、私は書斎を出た。
 書斎の正面の部屋は、暖炉のある食堂だった。
 この洋館は、この暖炉の雨避けが円錐状で、赤く塗られていることから、赤いとんがり屋根の館と呼ばれている。
 先ほど水を汲みに行く時に通っていたが、改めて見ると天井の大きなシャンデリアが、豪奢な雰囲気を醸し出していた。
 この家にも電気は取ってあるが、シャンデリアは蝋燭を使う物だった。
 中央のテーブルには燭台が三つ置かれている。椅子は六脚用意され、それぞれが十分過ぎるほどの余裕を持って置かれていた。
 この食堂の右手のドアの奥に厨が……西洋風に言うならキッチンがあり、左側には床まで届く大きな窓になっていた。それがそのままガラス戸になっている。
 ガラス越しに見えるテラスには、白いテーブルと椅子が木陰の中に置かれていた。短く刈られた芝生が、青い天然の絨緞のようだった。
 私は食堂を出て、階段に足を向けた。
 
 
 二階に上がって最初に目に付くのは、南側全体を使って作られたベランダだった。
 幅も十分に取られ、何よりも景色が良い。
 私は部屋の探索を後にして、ベランダに出てみた。
 ガラス戸を開けると、緩い風が私の横を通り階段を滑るように流れて行った。
 洋館の壁と同じく、白く塗られた手摺に寄り添い外の景色を眺める。
 高く秋を思わせる空と小さな綿雲、所々緑を残した灰色の町、その向うに広がる神戸の海まで遠く見渡せた。
 西日を受けて、やや赤く染まった海と銀色に輝く波には、美しいと言う表現しか浮かばなかった。
 ベランダの隅に小さな椅子が置かれていたが、私は立ったままこの贅沢な景色を満喫する事にした。
 今日の月齢は覚えていなかったが、ここから見る夜の海もさぞかし美しい物だろう。
 後ろ髪を引かれる思いで、他の部屋を見て回る事にする。
 ベランダから直接入る事の出来るのは階段の右側の部屋だったが、ガラス戸に鍵が掛かっていた。
 私は廊下に戻り、左側の部屋に入った。
 随分と広い部屋だが、これと言って家具は置かれていない。可愛い色使いの絨緞と壁紙、それに椅子の上に置かれたフランス人形からすると子供部屋だろう。
 天窓から差し込む光りが、部屋の静けさをより強調しているように感じる。
 私はその部屋を出ると、右手の奥の小さなドアを開けた。
 洋式のトイレとバスのセットだった。
 どちらも綺麗に掃除がされていて、シャワーを捻るとちゃんと水が出た。
 多分、裏庭かどこかにあるボイラーを使えばお湯も出るだろう。
 トイレには紙も用意されていた。
 私はバスを出て、子供部屋の正面にある最後の部屋に入った。
 そこは、広い寝室だった。
 ドアの正面に大きな天蓋付きのベッドが置かれ、その右側に……これは新しく作られた物らしいクローゼットがあった。
 部屋の右隅に小さなテーブルセットとサイドボードがあり、テーブルの上には一冊の本が置かれていた。
 タイトルも中身も英文である。
 私が読めもしない本を手に眺めていると、階下から人の声が聞こえた。
 時刻からすると、茜さんが弁当を持って来てくれたのだろう。
 私は手に持っていた本をテーブルに戻し、寝室を後にした。
 
 
 来訪者を迎えようと階段を下りて来たが、私は踊り場で足を止めた。
「ごめんください」
 若く張りのある声が、静かな洋館の中で響いた。
 着物と髪型は違うが、玄関に立っていたのは先程の女性だった。蝋のように白かった頬は健康的な色を取り戻し、薄く紅を引いた唇も若々しい色香を持っていた。
「やぁ、もう大丈夫なのですか?」
 私の言葉に彼女はころころと高い声で笑った。
「どうしたの?井荻先生」
 そこに立っていたのは風呂敷を抱いた女将の娘だった。
「大丈夫って、何?」
 ブラウスにスカート姿の茜さんは、とことこと階段の下まで歩いて来た。下から私の顔を見上げ、首を傾げている。
「何?珍しい物でも見たような顔をして」
 私は返事をしないまま階段を下りて、茜さんの顔をまじまじと見詰めた。
 娘は顎を引き、風呂敷を守るように後ろに下がった。
「どうかしたの?」
 やや頬が上気しているが、何時もの茜さんだった。
「あぁ……いや、何でもありません。いらっしゃい。ちょうどお腹が空いてきた所です。食堂に行きましょう」
 私は食堂のドアを開け、茜さんを先に室内に通した。
「わぁ。すごい!」
 最初に目に付いたのは、シャンデリアだったようだ。
 上を向いたまま、じっと見詰めてる。
「アレが出るって言うから、もっと気味の悪い所だと思ってたのに」
「買い手が、先に掃除を終らせているからね。見た目は豪奢な洋館ですよ」
 空を赤く染める夕日が部屋の隅に落ちている食堂を、娘はゆっくりと見渡した後、
「ねぇ……アレ、もう出た?」
 身を屈め、小声で娘は尋ねてきた。
「えぇ。多分」
 私も小声で返す。
 一瞬、娘の目が大きく開かれたが、けらけらと笑い出した。
「もう、すぐそういう事言うんだから。怖がると思ってるんでしょう?」
 そう言うと、もう一度室内に視線を戻す。
「綺麗な所ですね」
 何時もとは違う口調に、私は娘の顔を振り返った。
「はい。お弁当」
 風呂敷から二段になった重箱を出し、私に渡した娘は十五にしては大人びて見えた。
「やぁ。これは美味しそうだ」
 御重の一段目には巻き寿司といなり、それと出汁巻き玉子も入っていた。巻き寿司を一つ摘みながら上の段を開け、どのようなおかずが入っているのか確かめる。
 豚肉の生姜焼き、きんぴらごぼう、肉じゃが、それに茹でた海老が入っていた。
 全て、私の好物である。
「おぉ、肉じゃがですか。それにきんぴらごぼうも入ってますね」
 私は大袈裟に喜んで見せた。
 この二つは茜さんの得意料理だった。
 娘は照れたように笑いながら、水筒のお茶を差し出した。
「井荻先生の好みくらいちゃんと知ってますよ。あ、海老の皮剥きますね」
 上機嫌に皮を剥く娘を見て、私は食事を始めた。
 私が食事中は話をしないのを知っている娘は、剥き終わった海老を置いて黙って見ている。
「茜さんは食べないのですか?」
 私の問いに娘は、
「作りながら食べちゃったから」
 と舌を出した。
 ふと、何か気になったように娘が後ろを向いた。
「どうしました?」
 後ろを向いた娘が、ゆっくりと天井に視線を動かして行く。
「何か……聞こえなかった?」
 娘が問い掛けてきたが、私には聞こえない。
「何がです?」
「……水の音」
 娘が上を向いたまま、小さな声で言った。
「先ほど水を出しましたから、ちゃんと止まってなかったんでしょう」
 私は立ち上がり「止めてきます」と付け足した。
 ドアを開けた時、不意に背中を抓まれた。
「一人にしないでよ」
 振り返ると茜さんは青い顔をして、微かに震えている。
「付いて来ると、怖い物を見るかも知れませんよ」
「でも……一人は嫌です」
 私は背中を娘に抓まれたまま、二階に上がった。
 一階では聞こえなかった水の音は、ここまで来るとしっかりと聞こえた。
 閉め忘れたなんて可愛い水量ではなく、シャワーは全開で出ているようだ。
 シャワー独特の長く線を引く雨に似た音に混じって、ぽたぽたと水の滴る音が混じっている。
 私は、ゆっくりとドアを開けた。
 音は一段と大きくなった。
 バスとトイレを仕切るカーテンが引かれている。
 日が翳っているのか室内は薄暗く、湯気が上がっているためカーテンの奥の人影は見えない。
 誰かがシャワーを浴びてるのか、それとも誰もいないのか……。
 背中に抓んでいる茜さんの手に力が入っている。しがみ付いていると言っても良い程だ。
 私はカーテンの端に手を掛け……一気に引いた。
 誰もいなかった。
 いや、それだけではなく、シャワーも出ていない。
 室内は薄暗いままだが、湯気まで消えていたのは意外だった。
 ぽたり……と、どこからか水の落ちる音が聞こえたような気がした。
「ふむ。化かされたかな」
 呆然としている娘の背中に手を廻しバスを出ようとしたが、身体が硬直しているのか動こうとしない。
「あ……あぁ……」
 震える声の中に、ガチガチと歯のなる音が小さく聞こえる。
「もう大丈夫です。さぁ、下に行きましょう」
 娘の身体を支え、ゆっくりと階段を下りる。
 足取りが覚束ないので、玄関のソファーに座らせる事にした。
「今日は、もう帰った方が良いですね。今からなら……日が落ちるまでに家に着くでしょう」
 娘は唇を震わせたまま、何度も頷いた。目に涙が溜まっている。
「井荻先生も一緒に帰ろうよ。こんな所に泊ったら取り殺されちゃうよ」
 私の手を両手で握り、懇願するように言ってくる。
「私は……まだ気になる事があるんで残ります。それに一晩泊るという約束です」
 娘は黙ったまま、下を向いている。
「それに、そんな暗い顔は茜さんには似合いませんよ。朝には帰りますから、明日は……元町で、キネマでも見に行きましょう」
 私は明るく笑いながら、娘の手を取って立たせた。
 門の外まで手を引いて連れて行く。
 俯いたまま強く手を握り返す娘の仕草が愛しく思えた。
 娘の姿が見えなくなるまで見送り、私は門の鍵を閉め洋館に戻った。