後編
 
 
 私は食事を済ませた後、特にする事も無かったので二階の寝室で休む事ことにした。
 靴を履いたまま、ベッドに横になる。
 ぼんやりと上を見ると、天蓋の裏側には淡い色のレースが貼られていた。
 この洋館にはラジオも本も無かったので、私は時間を持て余していた。
 いや、一冊だけ本はあった。
 寝室の隅に置かれたテーブルの上にある洋書だ。
 私は体を起こしてテーブルを見た。
 洋書は私が置いたままに、そこにある。
 私は洋書を取り、ベッドに戻った。
 皮張りの豪華な装丁だが、さほど分厚い本ではない。
 ぱらぱらと中を見てみる。字の羅列や行間の開け方からすると、詩集のようだった。
 表紙から奥付まで、全て英文である。
 さっぱり解らないので、私は本を横に置いた。
 目を閉じて、深く息を吸う。
 湯坂の調べた奇異の中に、窓際に若い女性の姿が映ると言うのがあったが、あの女性と同一人物なんだろうか。
 階段の踊り場で見た彼女は、明るく健康的で、幽霊と聞いて連想される儚さみたいな物は無かった。
 綺麗な人だった。
 恨みつらみがあるような風情では無かったが、何を迷って化けて出るのか……。
 
 どれくらい時間が経ったのだろう。
 
 微かな匂いを感じていた。
 甘く柔らかい花の薫りが、細い糸のように流れている。
 知っている薫りだった。
 何の花だっただろう。
 いや、花ではない。
 西洋の香水の匂いだ。
 誰かが、この香水を使っていたように思う。
 薄く途切れそうな薫り。
 意識を向けると、逃げるように消えて行く。
 諦めると、また微かに流れてくる。
 逃げ水を追うように繰り返される遊戯の中で、私は香りを探すように目を開いた。
 
 
 部屋はすっかり暗くなっていた。
 ガラス戸から入る月の光が、青く室内を染めている。
 懐中時計を出して見ると、日付が変わるまで後一時間程だった。
 何時の間にか眠っていたようだ。
 私は夢の中で嗅いだ香水の匂いを思い出そうとした。
 しかし、あの薫りは泡のように消えてしまっている。香りが持っていた印象だけが、残像のように残っていた。
 私はベッドを降り、ベランダに出た。
 緩やかな風を肌に感じながら、外の風景に目をやる。
 空に星は無かった。
 明るい下弦の月が、薄く千切られた雲を纏い浮かんでいる。雲は月よりも白く、夜の青を浮き上がらせていた。
 月の影を長く映す海は暗く、穏やかな波が煌くようにその淡い光を反射している。
 月に隠された星の代わりと言うように、街の灯が闇の中に点々と灯されていた。
 私は懐から煙草を出し……灰皿が無いのに気が付いた。
 いま少し煙草を諦め、この夜景を楽しむ事にした。
 緩い風に乗って、微かな花の薫りが流れて来る。
「あら、お客様でしたの」
 若く艶のある声に、私は振り向いた。
 ベランダと寝室を繋ぐガラス戸に手を掛け、昼間の女性がそこに立っていた。
 
 
 淡い藤色の寝巻きにレースの肩掛けをした彼女は、私の驚いた表情が可笑しくて仕方ないという風にくすくすと笑っている。
 左手の中にあの詩集があった。
「ごめんなさい。驚かすつもりはなかったんです」
 そう言いながら彼女はベランダに出て、手摺に身体を預けた。身体の動きに合わせ、軽く編まれた髪がゆっくりと動く。
「綺麗な月……」
 高く細い消えそうな声で呟く。
「あなたは?」
 私の質問が聞こえなかったのか、彼女は海を見詰めたままだった。
「夜の海って怖いですね。暗くて……まるで底が無いみたい」
「……」
ウェスターさんは、秋にならないと日本に来られませんよ」
 彼女が前を向いたまま、静かに囁いた。
 湯坂の資料の中にあった、この洋館の過去の持ち主の一人だった。
 レイク・J・ウェスター。
 英国の貿易商で、一年の約半年を日本で過ごしていた人物だ。
 家族は、英国人の妻と娘が一人。
 来日の際に家族を同伴していた記録は無い。
 十三年前、この洋館の権利を持ったまま母国で亡くなっている。
 資料では老衰となっていた。
ウェスター氏は十三年前に亡くなりました」
 彼女は海を見詰めたまま、私の言葉を聞いている。
「享年六十五歳。英国の自宅で、妻と娘と二人の孫に見送られたそうです」
 何も言わず海を見る彼女は、私の言葉をどう受けとめているのか。
「あなたは……何時まで彼を待ち続けるつもりですか」
 彼女は前を向いたまま、ゆっくりと目を閉じた。
 風が花の薫りを運んで来る。
 いや、それは彼女の使っていた香水の香りなのか。
 私は寝室に戻り、枕もとに置いていた灰皿を手にした。ベランダの彼女を見ながら、煙草に火を付ける。
 マッチの火に照らされた彼女は淡い影のように揺らめいた。
 一瞬、そのまま消えてしまうかと思ったが、彼女はベランダの手摺を背に、こちらを見ていた。
「私とあの人の話を聞いてもらえますか」
 囁きは、緩い風の中で消えそうなほど細く感じた。
 私は灰皿を手に、彼女の横に戻る。
「艶っぽい話じゃないですけど」
 言いながらも、その頬は薄い紅を付けたように染められている。
「今夜は月が綺麗ですね。テラスで……ワインでも、どうですか?」
 私の誘いに彼女は微笑んだ。
 大輪の花が咲くような艶やかな物では無く、優しいがどこか寂しげで、彼女の恋を象徴するような儚い笑みだった。
  
 
 元町のカフェで、私と茜さんは湯坂を待っていた。
 今朝、電話で昨夜のあらましを説明すると、湯坂は「女将の娘さんに怖い思いをさせてしまったのなら、キネマの代金はオレに払わせてくれ」と言って、どうしても譲らなかったからである。
 もうすぐ約束の時間だったが、湯坂は姿を現さない。
 キネマの始まるまで、まだ時間はあるから良いが……時間に細かい彼には珍しい事だった。
「あれから……どうだった?」
 茜さんがおずおずと聞いて来た。
「怖い事なかった?」
「怖い事はありませんでしたよ」
 ソーダ水の氷をカラカラと回しながら、娘は首を傾げた。
「事はって……何かあったの?なになに?」
 昨日の怯え様が嘘のように、娘は明るく聞いてきた。
 私は湯坂が来るまでの間、娘が退屈しないように少し昨日の話しをする事にした。
「あの洋館の窓に女の影が映る、というのを聞いた事はありますか?」
 娘はストローを咥えたまま頷いた。
「彼女は……八重さんと言って、今から二十六年前に亡くなった人です。当時、洋館を所有していたのは、レイク・J・ウェスターという英国人でした。彼は一年の内、十月から四月まで日本に滞在していたそうです。彼が日本にいる間、身の回りの世話をしていたのが八重さんです」
「お妾さんだったの?」
 娘の質問に私は苦笑した。
「そういう関係は無かったそうですよ。八重さんの実家は元々雑貨屋を営んでいたそうですが、相次いで両親を亡くされ店を畳もうと思っていた頃に、二人は出会ったそうです」
 彼女の「お薬を飲むための一杯の水を貰ったのが縁になりました」という言葉を、私は思い出していた。
「それから三年間、八重さんはウェスター氏が日本にいる間は彼の世話を、それ以外は洋館の管理をしていたそうです」
「三年だけ?」
「三年目の夏に八重さんは亡くなりました。肺を病んでいたらしいです」
 娘は空になったグラスの氷をカラカラと回している。
「八重さんが亡くなってから、ウェスター氏が日本に足を下ろした言う記録はありません。多分……八重さんのいない日本に来たくなかったんでしょう」
 私の言葉を聞いて、茜さんは拗ねたように視線を落した。
「でも……その人は、ずっと待ってたんでしょう?」
 私は答えず、懐から一冊の洋書を出した。
「八重さんの本です。ウェスター氏は日本にいる時に、八重さんにこの詩集を訳して詠んでくれてたそうです」
 娘は本を取り、ぱらぱらと見ている。
「次の来日で、最後の詩を訳する約束だったそうです」
 最後の一頁を開けて、茜さんは私に見せてくれた。
「ここ……万年筆で何か書いてあるよ」
 それは私も気付いていた。ウェスター氏が残した物だろう。
「何て書いてあるか判りますか?」
 娘は首を傾げたまま黙っている。
 ふと、前を見ると見慣れた男が手を振りながら近付いて来た。
 湯坂だった。
「いやぁ、お待たせ。遅くなってしまった」
 ここまで走って来たのか、額に汗を浮かべて息を切らせている。
「洋館を手放すよう大原先生を説得するのに時間が掛かってしまってね」
「手放す?彼女は多分もう出る事は無いよ」
 湯坂は、椅子に座り大きく深呼吸をした。
「うむ。それは判っている。こちらにも事情があってね。おや?グラスが空ですね。茜さん、ここのソフトクリームは食べましたか?」
 一息に喋る湯坂に気圧されたように下がりながら、女将の娘は首を振った。
「いけませんねぇ。花の女学生が今流行りの物を食べていないなんて。どうです?級友に自慢できますよ」
 言いながら、湯坂は代金を強引に娘に渡した。
 娘は仕方なく洋書をテーブルに置いて、小さな行列の後に並んだ。
「しかし、何故に洋館を手放す事を説得したんだい?」
 茜さんに聞かれたくない内容だろうと思い、湯坂に小声で尋ねた。
「うむ。実は……先生は、あの洋館で、妾を囲うつもりだったのだよ」
 湯坂は息を調えながら切れ切れに話す。
「しかし、それじゃあんまりだろうと思い、あの洋館を欲しがっていたアメリカ人の夫婦に売買の手続きをして来たんだよ。君との電話の後、すぐにね」
「まさか……先生に黙ってしたわけじゃないだろう?」
「いや、黙ってしたんだよ。捨て値で売ったわけじゃないから、儲けはあるんだが……オカンムリでね」
 そう言いながら、湯坂はにやりと笑った。
「破門だ何だと騒ぐから、うるせぇ!ヒヒ爺ぃ!!って言ってやったよ」
「良いのかい?」
「構わんよ。ほとぼりが冷めたら知らん顔で戻って、事のあらましを説明するさ」
 まぁ、あの先生なら話せば納得してくれると思うが。
「謝礼は前払いで預かってるし、心配するな」
 そう言うと、湯坂は立ち上がった。
 ソフトクリームを持った娘が、とことこと戻って来る。
「もうすぐ、キネマが始まる時間だろう。俺はこれで失礼するよ」
 湯坂は謝礼の入った袋をテーブルに置いた。
「君は一緒に来ないのかい?」
 私の問いに、湯坂は振り返り答えた。
「うむ。俺はちと用事があってな。……墓参りだよ」
 あ、と小さく娘が言った。
「そう。あの人の墓前に花でも添えたい気分なんだ」
 照れたように笑いながら、湯坂は私達に背を向け歩き出した。
 茜さんが私の袖を引いて、微笑んでいる。手にあの洋書を抱いていた。
 九月にしては、陽射しの強い午後だった。
 私は茜さんの微笑みに頷き、湯坂の後をゆっくりと歩き出した。