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Intermission:02〜森川果歩の一日〜
森川果歩の朝は、三個の目覚ましとの戦いから始まる……が、普通は最初の一個を止めると完全に目が覚めている。
その日も最初の一個のベルを止めると同時に起き上がり、残り二つの目覚ましをしっかりとした手付きで解除する。
果歩は寝乱れたパジャマ姿で大きく伸びをすると、勉強机に向かって、
「おはよう」
と、にっこりと微笑みながら言う。
そこには友人に隠し撮りをしてもらった一人の少年の生写真が十枚以上貼り付けられていた。
早朝にもまだ早い午前五時に彼女がしっかりと目を覚ましているのは、彼のお弁当を作るという楽しみがあるからだった。
そもそも料理実習でも『鍋のお湯が沸くのを見ているだけ』の果歩が、日々お弁当作りに励んでいるのは、彼が視線を外したまま、
「ごちそうさま」
というのを見たいが為だった。
彼のクラスの女子に言わせると『最低』の態度も、果歩から見れば『素直じゃない』彼の態度であり、そこがどうしようもなく可愛いのだった。
慣れない料理との戦いは熾烈を極めていた。
間違っても失敗は許されない。
何しろ果歩がお弁当を作り始めてから、彼はお弁当を持って来ていないのだから。
自分のお弁当を楽しみにしているのかはわからない。でも、彼はあたしが持ってくると信じてくれている。
それだけで果歩は、眠いのも忘れてお弁当作りに励めるのだった。
二人分のお弁当を用意すると、急いで制服に着替え、彼が好きだと噂されているラノベの主人公に似せて髪をツインテールに結ぶ。
母親は、「もう子供じゃないんだから」とこの髪型を嫌うが、母親の好みと彼の好みを秤に掛けようとは思わなかった。
鏡の前で三回連続でくしゃみをして、果歩は小さく首を傾げる。
二回ならいい噂だっけ?
前髪を直し、鏡に背を向けるともう出掛ける時間だった。
学生鞄と二つのお弁当が入った鞄を持ち、
「いってきまーす」
果歩はいつも通りの時間に家を出た。
彼女が上機嫌で聞いているiPod nanoから流れているのは、昭和後期の漫才だった。ただし、昭和60年代の漫才ブーム以前の物である。
果歩の持論の一つに、『漫才ブーム以降の漫才はコント化が進んでいる』というものがあった。
そもそも漫才は観客のリアクションを見ながら、臨機応変に行われる演芸であり、台本に沿って行われるコントとは全く違う物なのである。故に昨今の漫才はアドリブの効いたコントである場合が多い。と、彼女は思っていた。
もちろん、全ての芸人が真の漫才を忘れているとは彼女も思ってはいない。しかし、テレビの演出によって漫才が漫才で無くなる場合が多い……そう思わずにはいられない。
漫才とは、日々変わり続ける『日常の笑い』を人に見せる芸である。
なら、いまの自分はどうだろう?と果歩は思う。
殺人ゲームという現実の中にいる自分の日常に笑いはあるのだろうか?
果歩は周囲に興味を失ったような冷めた目をした少年の姿を心に思い浮かべ、小さな笑みを作る。自分の優しさに気付かないまま、いつも果歩を守ってくれる少年だった。
一人なら耐えられなかった世界でも、彼が一緒なら笑っていられる。生きて行ける。
学校とは反対側になる駅前まで来ると、果歩はいつもの場所で彼が改札を抜けて来るのを待つ。
構内を流れる、電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえ、果歩はiPod nanoを停止し、イヤホンを外し……制服のポケットにそれを直した。
改札を抜けた彼は果歩の顔を見つけると、視線を外し、ゆっくりと近付いてくる。
「おはよう」
「おはよ」
短い朝の挨拶も視線を外したままだった。
何も話さずに歩き出す彼の横に並ぶ……と、その歩調が果歩の物に合わせた速度に変わる。
無意識に歩調を合わせるのは彼の癖なのか、果歩を気遣ってのことなかはわかない。でも、彼は決して道路の内側に果歩を立たせることは無いし、車の流れや他人の位置を絶えず意識して歩いているのも伝わってくる。
ふと、彼が足を止め、果歩の顔をじっと見つめてきた。
「?」
果歩は小さく首を傾げて彼を見る。
「顔、赤いけど熱でもあるのか?」
「え?あたし、顔、赤い?」
言われて額に指を当てるが、確かに熱っぽいような気がした。
「ん……別に熱くないけど?」
果歩の返事を聞き、彼は僅かに目を細めて、また歩き出した。
そんな二人を同じ学校の生徒たちが追い抜いて行く。
彼が果歩と一緒に歩くのは下駄箱の前までだった。
「……じゃな」
ぼそっと小さく呟くと、彼は振り返らずに靴を変え、自分の教室がある方の階段へと歩いて行く。
それを見送り、果歩は自分の頬に指先で触れてみる。
熱は……かなりあるみたいだった。
早退をするわけにはいかない。
それは彼の昼食を心配してのことだったが、一緒にお弁当を食べたい気持ちのほうが強かった。……が、午前中の授業を受けるまでが、果歩の体力の限界だった。
お昼休みになっても、机から立たない果歩に気付いたクラスメイトが異常を知り、そのまま保健室に運ばれてしまった。
彼のお弁当はクラスでも仲の良い美奈が届けてくれると約束してくれたが、いつもの時間に会えない寂しさは泣き出しそうになるほど辛いものだった。
実際、保健室のベッドの上で果歩は誰もいないのを理由に泣いていた。が、すぐに保健の先生が戻ってきたので、慌てて布団の中に隠れる。
くすくすと笑う声が聞こえる。
「面会よ」
と言われ、ちらっと顔を出すと、そこに薄い笑みを浮かべた保健の先生と、めちゃくちゃ嫌そうな顔をした彼が立っていた。
二人の後ろから美奈が顔を覗かせ、にこにこ笑いながらピースサインを出している。
それを見て、自分でもわかるほど果歩の顔が赤くなる。
「あら、また熱が上がった?」
保健の先生に言われても、果歩はなにも言えなかった。彼が二つのお弁当を手に立っていたからだ。
美奈と保健の先生が離れると、彼が横にあったパイプ椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
「食べれそうか?」
果歩は、すまなそうな笑顔で小さく首を横に振る。
「そうか。……じゃ、僕は勝手に食べるからな」
普段よりぶっきら棒な喋り方になっているのは、後ろが気になっているからだろう。
何も言わず、彼はいつものように果歩が作ったお弁当を食べている。
ただそれだけのことなのに、果歩は嬉しくて仕方なかった。
「食べ難い」
箸を止め、彼が小さく呟いた。
「え?」
「こっちばっか見るなよ」
「うん」
答えながら、果歩はゆっくりと目を閉じる。
そして、柔らかい眠りの中に静かに落ちていった。
目を覚ますと、もう放課後になっていた。
グランドから聞こえる部活をしている生徒たちの声を耳に、ぼんやりと保健室の天井を眺める。
横を見ると、果歩の学生鞄と、いつもお弁当を入れている鞄が並べて置かれていた。
もしかしたら、と期待した彼の姿は無かった。
いつも帰りは駅まで一緒に歩いているが、それは果歩が勝手に着いて行っているだけなのだから、これは当然の結果なのかもしれない。
保健の先生が歩いて帰れるかと聞いてきたので、それに「大丈夫です」と答え、果歩はお礼を言って保健室を出る。
と、廊下の向こう……下駄箱の前で、壁に背を預けて立ったまま文庫本を読んでいる彼の姿があった。
果歩の姿に気付くと、彼は名残惜しそうに開いたページに目を落とし、それを静かに閉じる。
走り寄る果歩を見て、彼の顔が険しくなり……慌てて走るのをやめて、歩く。
「ごめんなさい」
つい謝ってしまった果歩を見て、彼は何で謝ってるんだ?と言いたそうな顔をする。
「歩いて帰れるの?」
「うん」
果歩の返事を聞き、彼は一瞬だけ眉を寄せる。それは彼が、朝に熱が無いと言った嘘を憶えているからだった。
「ほんとに大丈夫だよ」
笑いながら言うと、彼は納得してくれたのか背中を向けて歩き出した。
「どっちに行くんだ?」
と、校門を出てすぐに言われて、果歩はきょとんした顔をする。
「お前の家はこっちだろ?」
「え?」
ふぅと溜息を吐き、彼は嫌そうな顔で、
「何のために僕が待ってたと思うんだ?駅から一人で帰らせたら意味が無いだろ?」
「え……あ、うん」
曖昧に頷く果歩を無視して、彼は勝手に歩き出す。
一度、家まで送ってもらったことがあるから、道はわかっているらしい。
「明日……」
果歩が追い付くと、彼は前を向いたまま話し出した。
「弁当とか無理しなくてもいいからな」
それを聞き、果歩は考える。
もう熱は無いみたいだし、明日は大丈夫だと思うけど……
が、果歩がショックで黙り込んだと思ったのか、彼が慌てたように喋り出した。
「言っとくけど、別にもう作ってくるな、とか言ってるんじゃないからな。あ、いや、別に楽しみにしているわけじゃないけど、その……無理をするほどのことじゃないって言いたいだけで、だから……」
「うん」
自然と笑みを浮かべながら、果歩は返事をしていた。
その笑顔を見て、彼は頬を引き攣らる。
きっと心の中で、
『別に果歩のことを心配してるんじゃないんだからな』
とか思っているに決まっている。
家の前で彼に、
「ありがとう」
と言うと、頷くわけでもなく視線を逸らし、彼は気まずそうにしていた。
そして、
「……じゃ、な」
とあっさりと背中を向けて歩き出した。
一度だけ振り返り、果歩がまだ家の前に立っているのを見て、ぷいっと前を向き直って……彼はそのまま歩き去った。
家に帰り、お弁当を包んでいるナプキンを広げると、一枚の栞が挟まれていた。
それには書き殴ったような字で、
『ごちそうさま』
とだけ書いてあった。
いつも嫌そうな顔をしながら食べているのに、彼は必ず「ごちそうさま」と言いながらお弁当箱を返してくるのを思い出し、果歩はくすくすと笑う。
果歩は栞を手に……『やっぱり彼はツンデレなんだ』と思った。
夜、いつもより早く勉強を終えてベッドに入ると、果歩は机の前に貼られた写真に「おやすみ」を言い、枕を抱き寄せて目を閉じる。
その写真の中で一枚だけ混ざっている栞は、彼女の大事な『思い出の栞』だった。