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進藤コースケ君の受難の日々:05
体調を崩した果歩を家まで送ったせいで、帰りの電車の時間が大幅に狂っていた。っていうか、駅に着いたのが電車が出たすぐ後だった。
別に寄りたいところもなかったので、僕はフォームまで出て、そこのベンチに腰を下ろす。
制服のポケットから出したラノベを開き、のんびりと電車を待つことにした。
文字を目で追っているはずなのに、意識は何度もあの光景を見せ付けてきた。が、それを無視して、僕はラノベを読み進める。
傾き出した陽がほんの少し影を長くしていた。
あのときも……窓から入る日差しは、教室の中の物の影を長く残していた。
その反対側の窓に飛び散った赤い飛沫。
ズタズタに引き裂かれ、原型を留めていない果歩の死体。
それらが拭い切れない記憶となって脳裏に浮かび続ける。
何も出来なかった。
堕天使症候群の中で死んでも、ジョーカーになることは無い。それでも……あの光景を思い出すだけで、胸の奥がムカつくほどの焦燥感に襲われる。
自分の非力さに吐き気がする。
…………いや、違う。
あれは避け得ぬものなんだ。
だから、何だ?
仕方なかった。の一言で終わらせれるのか?
僕は果歩を……守れない。
あんな勘違いだらけの天然女を守る義理は無い。……そう思えるなら、もっと気が楽なはずだった。しかし、それができなかった。
果歩のことを女の子として好きなのかはわからない。けど、彼女を守りたいと、僕は思っている。
これは……きっと、殺人ゲームでパーティーを組まされているからだ。
果歩が華奢なくせに自己主張の激しい胸をしているとか、笑うとやたら可愛いとか、ツインテールがめちゃくちゃ似合ってるとか……そういうのは絶対に関係ないはずだ。
電車の到着を告げるアナウンスを聞き、僕は読んでいたページに指を挟み、ラノベを閉じる。
らしくないことに栞を使ってしまったことを後悔したが、いまではもう後の祭りだった。
きっと果歩のことだから、あの栞を見つけたら嬉しそうに笑うんだろう。
そう思いながら、フォームの白線に近付いて行く。
目の前を走る電車が起こしたが風に、僕は僅かに目を細める。
降りる人の流れが途切れるのを待ち、僕は電車に足を踏み入れ……
ぴちゃん!
水音を立てて、足を下ろしていた。
薄闇に染まった空と、地平まで広がる浅い水を張った平らな大地がそこにあった。
「チッ」
僕は露骨に舌打ちをして、指を挟んでいたラノベをポケットに入れる。と、ページ数を確認していなかったのを思い出し、苦々しさが倍になる。
ここはフィールドではない。
あの蛸女――クトゥルフのいる世界『ルルイエ』だった。
僕は溜息を吐き、仕方なく歩き出す。
何か用があって呼んだんだろうから、適当に歩いていればそのうち顔を出すはずだった。
一歩進むたびに水面に波紋が広がり、いつしかそれが幾何学模様となって広がっていた。
唐突に一枚のドアが……ドアだけの扉が僕の前に現れた。
さっさとこれを終わらせて現実世界に帰りたいので、僕は躊躇い無くそれを開く。
と、同時にバロック風のパイプオルガンの調べが鳴り響いた。
「うるせぇ!」
耳を押さえ、僕は声の限りに叫ぶ。
その向こう……ドアだけの扉の向こうで、のっぺりとした暗緑色の石だけで作られた椅子の上に、きょとんとした顔で座っているクトゥルフの姿があった。
「ボリュームを下げろ!僕の耳を潰す気か!!?」
僕の叫びが耳に届いたのか、クトゥルフが身を曲げて、さもおかしそうに笑い出した。
途端に、周囲を満たしていた爆音のようなパイプオルガンの調べが途切れる。
「ふはははは。これは失敬した。お主たち人の耳の弱さを忘れておった」
お前の耳が遠いだけだろ?クソババァが。
幾重もの法衣を纏った少女の姿をしていても、このクトゥルフは有史以前どころか、地球が生まれる前から存在していることを、僕はこいつから聞かされていた。
「クソババァは酷くないかぇ?さすがに妾でも傷付くというものじゃ」
ふんっと僕は鼻で返事をする。
「僕の心を読むなって言ったのを忘れたのか?」
悪戯っぽい笑みを浮かべたクトゥルフの襟足から伸びた軟体動物の触手が、返事をするようにうねうねと動く。
「で、何のようだ?」
僕の言葉を聞き、ぷふっとクトゥルフが笑いを漏らす。
「愛しい殿方を迎える乙女に、理由など必要ないじゃろ?」
ほんの少し肩を下げ、クトゥルフは纏っただけの法衣の前をずらす。その仕草で豊かな胸元が肌蹴る……が、それはほんのちょっとだけだった。っていうか、言う前に笑ったら意味が無いと思うんだけどね、その手の冗談は。
僕は同じ質問を口にしたくなかったので、先を促すようにクトゥルフに顎で示す。
その僕の態度に、クトゥルフは深い笑みを浮かべ、優雅に足を組みかえる。陶器のそれに似た美しさを見せる足の持ち主でも、その腕が無数の蛸の触手なら色気に繋がることはない。媚惑的な表情も胡散臭いだけだった。
「ふぅむ。お主はどうも扱い難いの。妾の誘惑に乗れば、灰になるまで愛してやると言うのに……」
「で!何の用なんだ?」
僕は諦めて、同じ質問を繰り返す。が、クトゥルフの返事は素っ気無いものだった。
「別に」
その言葉に、僕は頬を引き攣らせながら、歪んだ笑みを浮かべるだけで我慢をする。
前回会ったときは、その態度の悪さに悪態を吐いたが、そのときは触手の一撃でぺちゃんこにされたからだ。
クトゥルフはぷいっと横を向くと、
「あの娘だけずるい」
ぼそっと呟いた。
あの娘が果歩のことを指しているのはわかるが……拗ねたように横を向くクトゥルフの真意は全く読み取れなかった。
横を向いたまま、ちらちらとクトゥルフが視線を投げてくる。……が、僕は無反応を続ける。
むぅとクトゥルフの頬が膨らみ、
「つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!!」
触手と足をバタバタと動かし、椅子の上でクトゥルフが暴れ出した。けど、お前、パンツ履いて無いんだから暴れるなよ。具が見えるぞ。
「見るな!下衆が!!」
僕は視線を逸らして肩を竦めると、クトゥルフが飽きるまで暴れさせることにした。
実際……扱い難いのは、僕じゃなくてこいつの方だと思う。
異教のでも、一応は神なんだろ?
「で、妾の申し出は受ける気になってくれたかや?」
散々暴れて気が済んだのか、クトゥルフは清々しい笑顔で聞いてきた。
「いいや」
僕は首を横に振って、あっさりと拒否の言葉を口にする。
「前にも言ったが、お前ら化物の諍いには興味が無い」
むぅとクトゥルフが声を漏らす。
「そもそもお前は、あいつ……古き神の如き者だか深遠なる者だか知らないが、そいつの食事の邪魔をしたいだけなんだろ?」
「うむ」
クトゥルフは、悪びれることもなく、しっかりと頷く。
「なんで、それを僕がしないとダメなんだ?誰か他のヤツでいいだろ?」
「いや、お主で無ければ嫌じゃ」
ダメではなく嫌なのかよっ。
「どうして、僕なんだ?」
その問い掛けに、クトゥルフは両腕の触手を頬に添え、
「それを妾に言わせる気かぇ?」
と頬を赤く染めながら言った。けど、可愛くねえっての。化物が。
「しかし、の」
と、口調を変えてクトゥルフは続ける。
「あの宴の中で、骸に憑依したあの者に出会う人が何人おると思う?」
僕は視線をクトゥルフの薄い笑みを浮かべた顔から外す。
「ましてや、一生の内に二度も出会う者は?」
「単なる偶然だろ?」
その言葉に、クトゥルフは嬉しそうにけらけらと笑う。
「偶然かや?良い言葉じゃの。……されど、その偶然の中で、あの者に鉄槌を喰らわせたのはお主だけ、としたら?」
その言葉に、僕はクトゥルフを見る。
「くくく……くふふ……ふはははっはっはっ」
楽しくて仕方がないというようにクトゥルフは笑い転げる。
「これで終わらぬぞ。神に手を下した者の末路は悲惨と無残では言葉が足りぬことになるじゃろう」
クトゥルフは目を細め、僕を見る。
優雅に座り直し、その触手で己の頬を撫ぜる。
「さて、災厄に招かれるのは……お主だけかの?」
その言葉に、僕はぎりっと歯を鳴らす。
僕の中でぐらりと何かが揺れていた。その揺れは徐々に振り幅を大きくし、背後から纏うように怒りの感情が滲み出てきた。
「おぉ、おぉう。それじゃ、その顔じゃ」
嬉しそうに言うクトゥルフから顔を背け、僕はゆっくりと自分で手で顔に触れる。
怒りに狂いそうになりながら、僕は……口元を歪めた笑みを浮かべていた。
「さぁ、妾の前に跪け、妾の足に接吻をするのじゃ。……さすれば知恵と力を授けようぞ。あの者を殺し、愛しい娘を守る力を」
果歩を守る……力?
意識を縛るようなクトゥルフの誘惑に、僕は強く目を閉じる。
その目蓋の裏に、殺された果歩の残骸が浮かぶ。
僕に……力があれば……果歩を守れ……る。
顔に触れていた手を離し、その非力な手に視線を落とす。
僕は弱い。
誰も守れない。
果歩を守れない。
自分自身さえも守る力を持っていない。
しかし……それを得られるのなら?
拳を握り、それをゆっくりと下ろす。
僕はゆっくりと前に進み、クトゥルフの前に立ち……
「断る」
と、歪んだ笑みを浮かべたまま告げた。
「くっ」
顔を歪め、クトゥルフが声を漏らす。そして、それが……
「くく……くはっ!くはは。ふははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは……」
世界を揺るがすような爆笑に変わった。
「良い!良いぞ!ふはは。いま一度だけ地獄を見るが良い。くくく……そして、愛しい娘の骸をその腕に抱きながら、妾の足に接吻をするのじゃ」
クトゥルフは笑いに身を屈め、目を細め僕を見る。
「……また会おうぞ」
その一言で、僕の下半身は砕け散り、薄く水が張られた床に落ちる。
クトゥルフの触手の一撃だった。
びくん、と小さく震えて僕は読んでいたラノベを落とした。
喧騒が戻った世界で、僕はフォームのベンチに座っていた。
電車の到着を告げるアナウンスが……非現実的な響きを持って聞こえてきた。