■
epilogue〜進藤古都葉の受難の始まり〜
短い入院中に、果歩と真奈美、それに理奈が立ち代り見舞いに来てくれたが、坂本は最後まで顔を見せなかった。
コースケが教えてくれたことだが、僕が舌を噛まないように口の中に入れていた坂本の指は食い千切られる寸前で、かろうじて骨だけで繋がっている状態だったらしい。
指そのものは切断せずに済んだらしいが……もう二度と動かないそうだ。
坂本の左手の人差し指と中指……それが僕の命と引き換えに、この世界で失われたものだった。
退院して家に帰ると、僕は八つ当たりをするようにシャワーを浴びた。
六畳あった僕の部屋はコースケの物になり、いまの僕の部屋は南側にある四畳半になっていた。
高価なグラフィックボードを挿したデスクトップはコースケの物で、僕のパソコンは廉価品のノートになっていた。
白を基調に、青いインテリアが置かれた部屋は、どことなく女の子っぽい感じがして、居心地が悪かった。
新しい部屋の中で、以前の僕の生活の香りがするのは、本棚に集められたラノベとマンガだけだった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
シャワーを出ると、僕は絆創膏とボクサーショーツを身に着ける。髪を乾かし、Tシャツにジーンズといういつもの服装で、無駄に大きいバッグを肩に家を出る。
退院したら最初にしようと思っていたことを、僕は今からするつもりだった。
坂本の家に行き、あいつとあいつの両親に詫びを入れる。
これは僕のケジメだった。
勢い込んで家を出たが、僕は坂本の家を知らなかった。
だから、あいつの親が経営するホームセンターに行くことにした。
店に入ると、レジに坂本の姿は無かった。
レジの奥……家具が多く展示されているコーナーに隣接するサービスコーナーで名前を告げ、坂本を呼び出してもらおうと思ったが、あいつは今日は休みだと言われた。
「ちょっと待っててね」
と、サービスコーナーのお姉さんは店の奥に行き……すぐに戻ってきた。
坂本の父親である店主と一緒に。
慌ててお辞儀をする僕に坂本の父は、
「もう身体は良いのかい?」
と、優しく声を掛けてくれた。
「あ、はい……今日、退院出来たので、一言挨拶に……」
「いやぁ、あの馬鹿タレ、今日は休みで家にいるはずなんだけどねぇ」
明るく笑いながら、坂本の父はサービスコーナーに目を向ける。
「家に電話してみようか?」
お姉さんが気さくに僕に聞いてきた。
「え、あ……でも」
「あぁ、そうだな。あいつも家でゴロゴロしてるより、進藤さんの顔を見た方が元気になるってもんだ」
がははは、と坂本の父が豪快に笑ったが、まだあの事件からそんな日が経っていないことを僕は思い出した。
「あの……まだ、怪我……わ、悪いんですか?」
「抜糸、来週だっけ?」
「あんなもん怪我の内に入らんだろうが……いつまでも仕事を休みおってからに」
ぶつぶつと坂本の父親は文句を言っていた。家でずっと休んでいると聞いて、僕はその場で潰れそうになる。けど、そんな僕に坂本の父もサービスコーナーのお姉さんも気を使ってくれていた。
嫌な顔をされるかも、と思っていた。
錯乱していたとはいえ、僕は息子の指を食い千切ろうとした女だった。
でも、この二人は……ごく自然に僕に微笑み掛けてくれていた。
それがなぜか辛かった。
その優しさが、辛くて……心が痛かった。
きっと、坂本も僕を見たら笑うんだろう。
俺の指のことなんか気にするなと言うんだろう。
「でも……」
下を向いて、髪で顔を隠すように僕は呟いていた。
「ん?」
ちゃんと言うんだ。
自分がしてしまったことを。
そして、何も出来ないけど……ちゃんと謝るんだ。
「で、でも……もう指、動か……な…………」
最後まで言えず、僕はジーンズの太腿に爪を立てる。
店の中を流れる有線の音楽が遠くに聞こえていた。
顔を上げて、ちゃんと前を向こうと思ったけど……無理だった。顔を上げるのに失敗するたびに、僕は唇を噛んで何度も頭を振る。
「何も……憶えて、ないけど、そんなこと……言い訳……なら、ならないこと……ちゃん、と……わ、わかってま……す」
声が詰まり、僕は何度も息を吸いながら、言葉を紡ぐ。……けど、それもすぐに限界がきた。
絶対に泣くまいと決めていたのに、見苦しいところは見せないと決めてたのに……ボロボロと涙は零れていった。
「でも、何も……出来な、んです。あいつの、指……もう動かないって……ダメだって聞いて、も……僕は……何に……できない、です。でも、僕のせいで、あいつの、ゆ……指……指が……」
下を向いたまま泣き続ける僕の前で、坂本の父が呆然としていた。
サービスコーナーのお姉さんが、僕の前に走って来て、顔を覗き込みながら聞いてきた。
「あなた……古都葉さん、だっけ?ね、落ち着いて聞いて欲しいの」
僕はしゃくり上げながら、何度も頷く。
「あの子の指がダメになったって、誰に聞いたの?」
「コ、コースケが……」
と言い掛けたところで、坂本の父が、
「なんちゅーけしからんっ!」
声を荒げ、憮然とした顔で言った。
「え?」
けしからんって?
顔を上げた僕の前で、坂本の父は顔を真っ赤にして怒っていた。
「あのね、あの子の指の怪我は酷かったけど……その、もう動かないとかじゃないのよ」
お姉さんが困ったような顔をして、僕にそう言った。けど、え?だって、コースケは……???
「そのコースケって人が、誰だか知らないけど……」
「どこの馬鹿タレだ。そんな酷い嘘を吐いたヤツは!?」
「え?あ、あの……僕の、兄です。双子の」
坂本の父に詰め寄られ、咄嗟に僕は本当のことを言ってしまった。でも、嘘って???
くわーっと叫びながら、坂本の父は自分の頭をガリガリと掻き、お姉さんは諦めたような溜息を吐いていた。
「あ、あの……」
僕は恐々と二人を見て、もう一度聞いてみる。
「ほんとに、彼の指は大丈夫だったんですか?」
困惑を隠さず、二人は視線を交わし、
「んと、怪我は酷かったけど、それだけ……かな?」
とお姉さんが言い、坂本の父親はうんうんと何度も頷いた。
それを見て、僕は……また泣き出してしまった。
安心したのもあるけど、コースケに騙されたのが悔しかったのもあるけど、それよりも……何よりも僕は坂本の指が無事だったことが嬉しかった。
似合わないと自分でも思うけど、僕は生まれて始めて……神様に感謝していた。
サービスコーナーのお姉さんは、坂本の従姉弟で、坂本と僕の関係を必死に聞き出そうとしていた。
でも、無い袖は振れないのと同じで、どれだけ聞かれようと僕と坂本の関係の説明なんか出来なかった。
一言、『同じ高校に通っています』で終わっちゃうからだ。
それでも七月の終わりにあった『ビンタ事件』や『ペットコーナーで人待ち顔の坂本』など、手持ちの駒でお姉さんは僕を追い詰めていた。
実際、坂本は冗談半分で僕に好きだとか言ってたけど、あれは絶対に告白じゃなかったはずだ。
でも、と僕は心の中で呟く。
コースケが坂本に僕を助けた理由を問い質したとき、あいつは……
「ごめんっ!遅くなりましたぁあああ!!!」
叫びながら、坂本がサービスコーナーに突撃してきた。
馬鹿なことを考えてた僕は、坂本の声を聞き、耳まで真っ赤になって……お姉さんの邪悪なにやにや笑いを見せられた。
「おっそ〜い。女の子、待たせちゃダメじゃん」
お姉さんが言う間に、僕は呼吸を整え、じろっと後ろに立つ坂本を睨む。……けど、その左手の指に巻かれた包帯を見て、慌てて視線を逸らした。
「あ、えと……」
優柔不断全開で坂本が、僕の後ろで言葉を濁す。
サービスコーナーの中から、お姉さんが必死に目配せを送っていたが、坂本には全然伝わってないみたいだった。
僕はゆっくりと振り返り、坂本の顔を見て……
「馬鹿」
と、一言だけ言った。
後ろで爆笑しているお姉さんの声が、やたら恥ずかしかった。
お店の中にいたら晒し者になるので、僕は早々に坂本を連れ出すことにした。
親父さんがやたら名残惜しそうにしてたけど、それは愛想笑いでスルーしておいた。
行き先も考えず僕は歩き出し、坂本は手持ちぶたさな感じに着いてくる。
途中、指の怪我のことを聞いたが、痛み止めが切れると、まだかなり痛いらしい。
でも、「ちゃんと動くぞ」と、包帯の巻かれた指をピコピコと動かして見せてくれた。
行く当ても無いままに真っ直ぐに歩き続けたので、僕らは市を分断する川まで出てしまった。
橋を渡らず、川沿いに曲がって堤防を歩き、すぐ川原に下りれる階段を見つける。
川面を走る風はひんやりとして気持ち良かったけど、それ以上に水の照り返しが暑くて……すごく眩しかった。
坂本は川原の石を広い、下手くそなアンダースローで流れの穏やかな川に投げる。
一つ……二つ……三つ……四つ目で、小さな飛沫を上げながら、川の中に石は落ちた。
結果が気に入らなかったのか、坂本は新しい石を広い、またアンダースローで投げる。
そんな坂本の横に立ち、僕はずっと聞きたかったことを口にする。
「あのさ……コースケに聞いたんだけど」
一つ、二つ、今度は三つ目で川に落ちた。
「ん?」
次の石を拾いながら坂本が、優しい声で聞いてくる。
「僕を助けた理由……」
ビクッと丸めた背中が見てて解かるほど震えた。
「え?あ、あれは、その……」
露骨に怯えを隠さず、坂本は僕を見る。
「あれって、本気で言ったのか?」
真っ直ぐに坂本を見ながら、僕は聞く。
「う……あ、あぁ、そうだとも。俺はいつでも本気だぜっ」
無駄に逞しい胸を張り、坂本はそう言った。けど、顔を引き攣らせながら言われても、誠意は伝わらないと思うぞ。でも……本当に本気なの、かな?
引き攣った笑みを浮かべたままの坂本に、冷たい視線を送りながら僕は感情を殺した声で呟く。
「じゃ、いまここで……僕にそれを言えるの?」
ゆっくりと……ほんとうにゆっくりと時間を掛けて、坂本は視線を外した。
その優柔不断さに、僕は舌打ちをする。と、慌てて坂本が「言います。言わせて頂きます」、と、両手を合わせて拝むように何度も頭を前後させた。
姿勢を正す坂本を、僕はじとっとした目で睨み続ける。
粛清させられる新米兵士みたいに立ったまま、坂本は棒読みで喋り出した。
「あー……惚れた女を二人も堕天使症候群で殺されたくなくて、不肖、この坂本、命懸けで進藤古都葉さんを守らせてもらいました」
そのあからさまに演技っぽい態度を見て、僕はふぅと肩の力を抜いた。
「なんだよ、それ」
坂本は後頭部を掻きながら、だははは……と照れ隠しのように笑っていた。
「でも、ほんとに……」
表情を和らげ、坂本が僕を見ていた。
「お前が無事で良かったよ」
川面を流れる風が、僕と坂本の間を走り、遠くに聞こえていたセミの鳴き声が途切れる。
僕は坂本から視線を外して、爪先で小石を蹴り分ける。
「言っとくけど、僕は男に興味が無いんだから……」
大き過ぎるバッグを背中に回し、僕は座り込んで小さな石を選ぶ。平たくて、指を掛ける角がある石を拾って立ち上がる。
「だから……」
サイドスローで、手首が下を向き過ぎないように意識して、石の角っこを引っ掛けた人差し指に力を込め……ピッ!と音がしそうなほど回転を付けて投げる。
スピードと回転が落ちる前に、僕の投げた石が穏やかな水面を跳ねる。
一つ……二つ……三つ……四つ……五つ……六つ……七つ……八つ……九つ……最後に転がるように跳ねて、僕の投げた石は川の中に消えた。
川面から目を離し、僕は自分の足元を見ながら、言葉を紡ぐ……恥ずかしさに負けないように。
「だから、お前だけなん――」
「すっげぇ!!!」
僕の言葉を無視して、坂本は目を思いっ切り開いて、石が消えた川面を見ていた。と、ズバッと音がしそうな勢いで僕を振り返る。
「十段飛ばしなんか始めて見たぞ、おい。いや、マジでギネス級じゃないのか?」
呆然のする僕の前で、「なぁ、おい、マジですげぇぞ」と坂本は騒ぎ続ける。
小石の消えた川面を見て、はしゃぎ続ける坂本に視線を戻して……僕はギリッと歯を鳴らした。
「え?」
僕の様子に気付いた坂本が動きを止める。慌てて何か言い訳をしようとしていたけど……もう遅かった。
僕はどんな言い訳も聞く気は無かった。
バッグの位置を直し、僕は坂本の前に立つと、ゆっくりと腰を落とし……さっき小石を投げたとき以上に指先に力を込め、
スパーーーン!
間抜けな笑顔のまま固まった坂本の顔を引っ叩いた。
「ぶはぁ!!?」
口から汚い唾液を撒き散らしながら、坂本がくるくると回転して、無様に川に落ちる。派手な水音と共に大量の飛沫が空に舞い上がった。
「死ねっ!馬鹿っ!くそガキっ!」
ポカーンと川の中で座り込んでいる坂本に吐き捨てて、僕は背中を向けて走り出した。
堤防を駆け上がり、後ろも振り返らずに走り続ける。
くそっ、なんで僕がこんな目に合わないとダメなんだ。
僕のことが好きだから、守ってくれたんじゃなかったのか!!?
何で、あそこで他のことに気を取られるんだよっ!
いっつも、いっつも、中途半端に優しくしやがって……あんなヤツ、死んでしまえばいいんだ。
僕は走りながら、何度も心の中で呪いの言葉を吐く。
恥ずかしさで死にそうだった。
これも、それも……全部、コースケが悪いんだ。
あいつの指がダメになったとか、僕のことが好きだから堕天使症候群に死なせたくなかったって言ったとか……つまんないことばっかり言いやがって。
僕の部屋を乗っ取って、好き勝手して……もう許さない。
殺す!
今日、コースケを殺して自分の立ち位置を取り返してやるっ!!
そうだ……僕は、自分を取り戻すんだ。
全力疾走で来たので、図書館に着いたときには、僕は汗だくになっていた。
ロビーでちょっと休憩して、息を整える。
汗が引くのを待って、ロビーから閲覧室に入り……僕はその手の中にアームズを召還する。
淡い光が収束し、禍々しい死神の鎌が顕現する。
しかし、図書館の中の人は、凶器を手に持つ僕に気付かないまま、普段通りの動きを続けていた。
ソファに座って読んでいる人は静かにページを捲り、本を探している人は書架に指先で触れながらゆっくりと横に歩き、小さな囁き声があり、貸し出される本が機械を通されるPi!という小さな電子音が鳴り……。
普段通りの図書館の風景が、そこにあった。
胸に数冊の文庫本を抱えた女子中学生だけが、怯えた目で僕を見て、書架の奥へ逃げていった。
今の僕の姿を認知できるということは、彼女はプレイヤーってことか。
僕は図書館の中をゆっくりと進み……いつもの席に座って課題をしているコースケの姿を見つけた。
コースケは芯を戻したシャープペンで、開いたノートの上をトントンと叩いてた。
ペン回しのコツでシャープペンを持ち替え、面倒臭そうに僕を振り返る。
「なぁ、知ってたか?俺の分の夏休みの宿題が、全て手付かずな――」
「黙れ」
僕はコースケの言葉を無視して、刃を畳んだままの死神の鎌をその顔に突き付ける。
「アームズを出せ」
コースケは嫌そうな顔で、
「マジで?」
と聞いてきた。
「お前のせいで、僕の生活は滅茶苦茶なんだよ」
コースケは観察するように目を細め、僕を上から下まで見て、露骨に溜息を吐く。
「それって、俺のせいじゃないだろ?告白にミスったからって、八つ当たりするなよ」
「なっ!!?」
「なんだ、図星かよ?」
耳まで真っ赤になったんじゃないかと思うほど、一瞬で顔が火照っていた。
「ま、坂本は鈍いからな。お前みたいな遠回しなヤツは気付いてもらえないだろうな。抱き付いて、『好き、好き、大好き♪』くらいは言わないとダメだぜ、あいつは」
羞恥と怒りに震える僕を見ながら、コースケは嘲るように笑うと、静かに席を立った。
「八つ当たりの相手をしてほしいってのなら、優しいお兄ちゃんが遊んでやるが……言っとくけど、アームズは一人一個だからな」
前に戦ったときは、翼と炎弾を使ったけど、そんなの無くても、こいつに負ける気はしなかった。
絶対にぶっ殺す!
図書館の広くない通路の出たコースケの手の中に淡い光が零れ……音も無く収束する。
「え、えすか……り……」
書架の影から僕らの様子を覗いていた女子中学生が、小さな呟きを漏らした。
コースケの口元がひくっと自嘲気味に歪む。
それは、コースケが不機嫌モードに突入した証だった。けど、僕はそれを無視して、自身のアームズを構える。
ジャゴンッ!と凶悪な音を立てて死神の鎌の刃が開かれ……
「死ねぇぇえええっ!!!」
撲殺バットを正眼に構えたコースケに斬り掛かった。
0分52秒32
一分を待たずに敗北した僕は、ぺったりと図書館の真ん中に座り込んでいた。
僕の様子に気付いた太ったおばさんが「大丈夫?貧血なの?」と聞いてきたが、僕はそれに「あ、いえ……だいじょうぶです」と、お礼を言って立ち上がる。
コースケは、何事も無かったように課題の続きをしていた。
負けたから僕は今日から三日の間、アームズが使えなくなる。
でも、それは逆に三日間はプレイヤーから襲われなくなることを意味していた。
互いに現世の摂理から外れなければ、触れ合うことも出来ないからだ。
けど、そんなことは関係なかった。
コースケが座っている場所は、僕の居るはずの場所だった。
いつもの僕の席だった。
平均的な男子の体格を持つコースケと、中学生でも怪しい小柄な僕とでは素手での戦いは無謀としか言えなかった。
でも、そんなことも関係なかった。
どうしようもない悔しさで気が狂いそうだった。
一瞬、机の上に並べられたコースケの勉強道具を床にぶちまけてやろうかと思ったが、他の人の迷惑になるから我慢することにした。
僕はコースケに何も言わず……図書館を出た。
あいつより先に帰って、あいつが隠しているエロ系同人誌をお母さんに見せてやる。
Dドライブの中の恥ずかしい秘密もぜんぶ暴露してやる。
絶対に、僕を敵に回したことを後悔させてやる。
どういう魔法を使ったのか、コースケは僕より先に家に帰っていた。
そして、あいつは僕が携帯マッサージ器でしているいけない遊びを言い触らされたくなかったら、不埒な考えを捨てろと言って来た。
「内容的に、どちらの方がダメージが大きいか、は……お前でも解かるだろ?」
僕は半泣きになって、家を飛び出した。
玄関の横に見慣れないスポーツタイプの自転車があった。たぶん、コースケの自転車だ。
高校に入ったとき、両親に通学用に欲しいと言ったことがあるけど、そのときは却下されたはずなのに。
行く当ても無く飛び出した僕は……結局、コンビニで立ち読みをして、大手の古本屋チェーンで立ち読みをして……お腹が空いたので、家に帰った。
コースケを交えた四人家族での晩御飯は変な感じだった。
頑固なところがある父親と、子供たちに理解のある母親、マイペースな長男と気の短い長女……そんな感じの家族構成になっていた。
僕自身、気が短いのは認めるけど、家族にそれを前提として扱われるのはちょっとムカついた。っていうか、コースケの立ち回りの巧さが腹立たしかった。
こんな嫌なヤツが兄貴のまま暮らしていかなければいけないという現実に、僕は世を儚みたくなった。
ルルイエに僕を召還したクトゥルフは、これ以上はもう無理ってほど上機嫌だった。
暗緑色の飾り気の無い玉座で、優雅に足を組み、触手で自分の頬を愛撫している。
「して、どうじゃ?」
クトゥルフは歌うように聞き、
「何がだよ」
僕はダウナーに聞き返す。
「んむ、そうじゃな……小娘との感動の再会、などはどうじゃ?」
聖母のような笑みを浮かべて聞いてきたが、僕はそれに溜息で答える。
「あぁ、それは僕じゃなくてコースケの方だよ」
「?」
不思議そうにクトゥルフは首を傾げる。
「だから、僕が病院で寝ている間に、果歩とコースケが感動の再会をしてたんだよ。僕と会ったときは、もう全部話を聞いた後だったし、普通にお見舞いに来てたって感じだったよ」
「なんと!?」
大袈裟にクトゥルフは驚き、
「トンビに油揚げをさらわれたと申すか?」
心底嬉しそうな顔をした。
「別に、どうでもいいんだけどね」
「いや、しかし……うぅむ、あやつも中々やりおるな」
「っていうか、さ」
変な風に感心しているクトゥルフを睨み、僕はずっと心に引っ掛かっていたことを口にした。
「何で、コースケはあんな嫌なヤツになってるんだよ?」
「ぉ?」
「ぉ、じゃないよ。絶対にあいつの人格とか歪んでるよ。基本的に『僕』じゃないのか?言っとくけど、僕はあんな人格破綻者じゃないぞ」
僕の言葉を聞き、クトゥルフは優雅に足を組み変え、笑みを深くする。
「まぁ、あやつのことは仕方あるまい。古き神の如き者と融合することで、神々の力を手に入れたのじゃ。まだ人としての理性を持ち合わせているだけ上出来じゃろう」
クトゥルフは上出来と言ったけど、あいつが嘘吐き狼少年なのは神々の力とは関係無いと思うけど?
「しかし、な……」
クトゥルフが身を乗り出し、僕の顔を覗き込むように見ながら話を続ける。
「あやつとて、お主の存在に戸惑っておるのよ。己のペルソナの一つと思っておったお主が、一つの人格として存在しておるのじゃ……扱いに窮しても不思議ではあるまい」
滅茶苦茶おもちゃにされてますけど!!?
僕はクトゥルフから視線を外し、口元を歪めたまま、心の中でぶちぶちと文句を言う。
「まぁ、あやつのことは、ここまでで良かろう。それよりも……」
クトゥルフの口調が怜悧な物に変わり、僕は視線を蛸女に戻す。
「次の獲物をどれにするか、じゃな」
「獲物って?」
僕の疑問に、クトゥルフは艶然と微笑む。
「勿論、神狩りじゃ」
え?
「ちょ、ちょっと待て。古き神の如き者を休眠に追い込めば、それで終わりじゃなかったのか?」
「何を言うておる?あやつを獲物に選んだのは、後々の狩りをしやすくするためじゃ。何のために、新しい流儀を決めさせたと思っておるのじゃ?」
「流儀って……じゃぁ、殺人ゲームの新しいルールはお前が決めたのか!!?」
「勿論じゃ。あやつめ、妾が突き付けた条件を全て呑みおったぞ。中々殊勝な心掛けじゃ」
いや、ちょっと待て。じゃ、果歩の願いを聞いて、殺人ゲームのルールを変えたってのも嘘だったのか?
「そうじゃな、面白いところでは……我が眷属になるのじゃが、インスマウスという半人半魚を使い、妖しの儀式を執り行っておる神がおってな、こやつは……」
クトゥルフが説明を始めたが、僕はそれどころじゃなかった。コースケの言葉のどこが真実でどこが嘘なのか、僕は記憶を頼りに必死で検証していた。
「……む。お主、妾の話をちゃんと聞いておるのか?」
「いや、ちょっと考え事をしているから静かにしてくれ」
僕の言葉を聞き、クトゥルフはむぅと顔を膨らせて、
「何じゃ、その態度はっ!!お主は妾の足に接吻したのでは無いのか!!?あれは、そのときだけのことか!?妾を謀ったのか!!?」
吼えるように喚き、ギリギリと牙を打ち鳴らした。
「いや、そういうわけじゃないけど……ていうか、遊びたかったらコースケと遊べよ。あいつのが神々と戦うなら使いやすいだろ?」
「あんな可愛げのない男の話なぞするでないわっ!!!何じゃ、あの態度は、これでも妾は神ぞ。畏れ敬われる存在ぞ。その妾に向かって、我侭蛸女などど言いおってからに……」
そんな正直なことを言ったのか、コースケのヤツ。
むぅ……と、クトゥルフが全身に力を込め、
「つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!つまらぬ!……」
触手を振り乱し、両足をバタつかせて暴れ出した。
法衣の合わせが乱れ、豊満な乳房が際どいところまで見え、陶器の美しさを見せる足が淫らに跳ね上がる。
地震が起こったようにルルイエ全体が震え上がり、どこか遠くで重い物が落ちて砕ける音が聞こえてきた。
「……つまらぬわっ!!!」
最後に一声吼えると、クトゥルフはどかっと玉座に座り直し、深呼吸をして、触手の先で折り重なる法衣の合わせを直す。
「落ち着いたか?」
僕が聞くと、
「うむ」
と、素の表情でクトゥルフが頷いた。
「まぁ、次の獲物が決まれば、すぐに召還してやるから大人しく待つがよい」
けらけらと明るく笑いながら、クトゥルフは嫌なことを言ったが、僕はそれに返事をしないことにした。
「しかし、の……さっきのインスマウスなのじゃが、あやつらは面白いことに……」
饒舌に話し始めたクトゥルフに隠れて、僕は憂鬱な溜息を吐いた。
いや、ほんと……出来れば、こいつの相手はコースケにして欲しかった。
不幸なのは、コースケの専売特許じゃなかったのか?
僕の思いとは無関係に……ルルイエに響くクトゥルフの楽しげなお喋りは、いつまでも終わることはなかった。