進藤コースケ君の受難の日々:16
 
 瞼を直撃する陽射しに僕はタオルケットを抱き寄せ……顔を埋める。けど、陽射しとは全く関係なく狂ったように鳴き続けるセミの声までは遮断できなかった。
 まるで網戸に無数のセミがとまり、大合唱をしているみたいなうるささだった。
 漢字でうるさいは、五月蝿いと書くらしいけど、ほんとマジで殺虫剤で殺したくなる。
 でも、何でこんなにセミが鳴いているんだろ?
 っていうか……ここ、どこだろ?
 寝心地の悪いベッドの上で、僕はのっそりと顔を上げる。
 場所はっていうか、どういう部屋かは一瞬で理解できた。
 無機質なほど白い壁と安っぽく白のペンキで塗り潰されたドア。白いカーテンにステンレスの窓枠。ちょっと堅めのマットレスに清潔感のあるシーツと丸いパイプで構成されたベッドの枠。ベージュのキャビネットに水差しが置かれていた。
 それだけは黒い簡易ベッドにもなるソファの上に見覚えのある小さなバッグが残されている。
 部屋の全てを見渡す前に解かった。
 ここは病院だった。
 病棟の個室って言った方が正解に近い。
 でも、何で?
 窓の外が空しか見えないことから、かなり高い階数にいるっぽいけど?
 そこで、ようやく僕は自分が堕天使症候群で死ぬはずだったことを思い出した。
 ……けど、身体はどこも怪我をしていなかった。
 ベッドの上に座り込んだまま、僕は小さく首を傾げる。
 何で死んでないんだろ?
 ぼんやりと霞が掛かったような記憶を探るが、そこに答えは無いようだった。
 もう一度病室を見回し、僕は視線を自分の身体の上に落とす。
 半袖に膝丈のパジャマを着ていた。柄はオレンジのチェックで、真新しい綿の堅さが、ちょっと肌に痛かった。
 軽く身体を動かし、僕は口をへの字に曲げる。
 何か脇が苦しいと思ったら、勝手に誰かがスポーツブラを着けさせていた。
 見ると、左手首に包帯が巻かれている。けど、これはきっと掻き傷を治療したものだろう。
 僕はベッドを下りようとして……自分のスリッパが無いことに気付く。
 う〜〜〜……と、小さく唸り、そのまま裸足で下りることにした。
 リノリウムの床の冷たさが、ちょっと気持ち良かった。
 僕は裸足のまま窓際に寄ってみる。
 窓を閉めたまま覗き込むと、大きな木が窓の真下にあった。
 あれが、セミの大合唱の温床か。
 頭を振ると、やたら鼻の奥が薬臭かった。
 腕に注射針の痕があったから、たぶん点滴でもされたんだろう。
 
 ぼんやりと待っていたけど、誰も戻って来ないので、僕はこっそりと病室を出でみることにした。
 と、ドアを開けた瞬間――狂ったようなパステルカラーとサイケデリックな柄の絨毯が目に飛び込んできた。
 うぁ……眩暈しそう。
 白を基調にした病室とのギャップは、そのまま悪夢の世界に迷い込んだみたいだった。
 ここって、もしかして……小児病棟?
 高校生にもなって小児科に入れられたことに、僕のコンプレックスが激しく揺さぶられる。
 ちょっと背が低いだけなのに……胸とか無いけど、ちゃんと高校生なのに……急患で運ばれたにしたって、この扱いは酷いと思う。
 ブツブツと呪いの言葉を呟きながら、僕は人影の無い廊下を歩き続ける。
 病室のほとんどは扉が開かれ、中から静かな話し声や小さな子の笑い声が聞こえてくる。けど、当然そこに僕の知っている声は一つも無かった。
 長い廊下を曲がり、僕はストレッチャーや車椅子が放置されたやや広い廊下に出る。
 と、後ろから女性の声が追い駆けてきた。
「ちょっと、待って!!待ちなさいっ!」
 その声の非常識な大きさに僕は顔をしかめる。病院の中は静かにしてないとダメなのに……って、え?
「ふぎゃっ!!?」
 いきなり後ろから肩を抱かれ、僕はびっくりして、その場で悲鳴を上げた。
「勝手に病室出たら駄目じゃない」
「???」
 驚く僕の目の前……超至近距離で、長い髪をひっつめにした化粧っけの無い顔が、僕を覗き込んでいた。
「大丈夫?頭が痛いとか、吐き気がするとか、眩暈がするとかは無い?」
 びっくりしたまま僕はその白衣を着た女性を見て、小さく頷いてみせる。
 と、見て解かるほど彼女は全身の緊張を解いた。
「もう、びっくりさせないでよ。あ、たぶん休憩所にお母さん居るはずだから、見て来てもらえますか?」
 後から追い付いて来た女性の看護士さんにそう言うと、女医さんは僕の肩を抱いて歩き出した。
 自己主張の激しい胸が、身長差のせいで僕の肩にめり込んでいる。
「ほんとに、どこも何とも無いの?」
「ん……たぶん、大丈夫です」
 僕の曖昧な返事を聞き、彼女は笑みを浮かべる。
 女医さんが僕を病室に連れ戻すのと、お母さんが戻ってくるのと、ほぼ同時だった。
「あ……お母さん」
 疲れきった顔のお母さんが駆け寄り、女医さんから奪い返すように僕を抱き締め……声を出して泣き出した。
 女医さんは何も言わず、お母さんの背中に手を回し、病室へと招き入れる。
 ぱたん、と優しい音を残し、病室のドアは閉じられた。

 結局、僕が無事に生き残ったのは、坂本のお陰らしい。
 堕天使症候群で自傷行為を始めた僕を押さえ付け、周りの生徒に助けを求め、救急車が来るまで、ずっと僕が舌を噛まないように自分の指を僕の口の中に入れていたそうだ。
 あいつの指が口の中に入れられていたと聞いて、「うげっ」と思ったけど……ま、命の恩人には違いないので、その件に関しては、特別に許してやることにした。
 簡単な問診が終わり、細かい検査は明日からと言われたので、家に帰る気満々だった僕はベッドで不貞寝をしていた。
 タオルケットを蹴り出し、ベッドの上で退屈を隠さずゴロゴロと転がり続ける。
 そんな僕の横でお母さんがあれこれと喋っているけど……やたら、坂本の話題が多いのは、どう受け取ればいいんだろう?
 今回は大活躍だったみたいだけど、僕とあいつは単なる顔見知りなので、お母さんが期待するみたいな展開はあり得ないと言っておく。っていうか、あいつ相手にフラグなんか立ってたまるかっての。
 僕がお母さんに、僕と坂本の無関係を事細かく説明してると、やたら馴れ馴れしいノックの音が響いた。
 ベッドに転がったまま僕をドアを振り返り、「は〜い」とお母さんが返事をして……
「きっと、お兄ちゃんね」
 と繋いだ。
 けど、お兄ちゃんって、誰だ?
 お母さんが開いたドアの向こうに、両手に荷物を持ち、退屈そうな顔をした……コースケが立っていた!!?
 ぞわり、と髪が逆立つような悪寒に僕は襲われる。
「な……んで」
 唇が震え、上手く言葉にならない。
 しかし、そんな僕を見て、コースケは短く「よぉ」と挨拶をする。
「あ、これ花と花瓶。花瓶は百均のだけど別にいいよね?それと……」
 お母さんに小さな花束とビニールの袋を渡し、コースケは四角い紙袋を僕のベッドの上にどさっと投げた。
「古都葉が退屈するだろうから……本、ラノベとか買ってきたから」
 愕然とする僕の前で、お母さんが当たり前のように「あら、ありがと。さすがお兄ちゃんね」と言って、病室を出て行く。
 花瓶に花を挿すのに水場に行ったんだと思うけど、そんなことは問題じゃなかった。
 なんで、こいつが現世にいるんだ!!?
 コースケは後ろ手にドアを閉めると、平然とした顔で病室を歩き、お母さんがさっきまで座っていた安物のパイプ椅子に腰を下ろした。
「さて、どこから説明してほしい?」
 さも面倒臭そうにコースケが言ったが、僕は何も聞いていなかった。それどころじゃなかった。
「なんで、お前がこっちにいるんだ!?」
「でかい声を出すな。けど、そうだな……そこから説明するか」
 椅子に座ったまま前屈みになり、コースケは真っ直ぐに僕を見て説明を始めた。
「猫を使った量子力学の有名な実験の話は知っているよな……シュレーディンガーだっけ?あれと同じだよ。フィールドの中にはジョーカーとターゲットが存在しなければいけない。ジョーカーはお前、ターゲットは俺だったわけだが……フィールドの中で、存在が確立された俺は、当然現世に影響を与えることになる。フィールドの中で、お前と切り離されたとき、すでに俺はこの世界で受肉していた。進藤古都葉が存在する世界では、進藤コースケの場所が空白になっていたから、世界はそのパラドックスを修正したわけだ。詭弁のようだが、これは事実だ。実際、この世界でイレギュラーな存在は、俺『進藤コースケ』ではなく、お前『進藤古都葉』なんだからな。本来なら、お前がこの世界から消えるはずだったんだ」
 ベラベラと軽い調子でコースケが話し続けていた。けど、なんだって?
 僕が……消えるはずだったって言ったのか、こいつは?
「堕天使症候群で死んだ後、お前の全てのデータは自然消滅するはずだった。お前の存在を知るのは、ほんの一握りのプレイヤーだけになるはずだったんだ。だけど、な……」
 コースケは身体を起こすと、背凭れに背中を預け、ゴン!と白い壁に後頭部を当てる。
「あの馬鹿が、全てを引っ繰り返しやがった」
 僕はいま生きているのは、あいつが僕を守ったからだと、お母さんは言っていた。
「……坂本、が?」
「あぁ、あいつがお前を無傷で守り通した結果、俺とお前は同時に存在することになっちまった。ちなみに、今現在、俺とお前は二卵性の双生児ってことになってる。この世界の持つ強制力が働いた結果だとクトゥルフが言ってたけど……ま、それは大した問題じゃ無いかもな。俺たちが二重存在だったという事実を知るのは、俺とお前の周囲にいたプレイヤーだけだし……他に居ても問題は無いと思うけど、な。ちなみに、プレイヤー以外の人間は、普通に記憶を改ざんされているみたいだな」
 僕はベッドに座ったまま、なにか釈然としないものを感じていた。このコースケの言葉をそのまま信じて大丈夫なのか?
「ま、クトゥルフもルルイエに帰っちまったし、俺も詳しいことは解からないから……召還されたときでも、あいつに聞いてくれ」
 コースケは椅子から立ち上がると、病室のドアに向かって歩き出す。
「おい、待てよ。まだ話は――」
「時間切れだ」
 僕の言葉を遮り、コースケは嫌な感じに口元を歪め、ドアを開ける。と、ちょうどお母さんが戻ってきたところだった。
「昼から果歩が見舞いに来ると言ってたから、そのときにまた顔を出すよ」
 そう言って、コースケはお母さんと入れ替わりに病室を出て行った。
 
 その日の夕方、コースケは見舞いに来た果歩を送り届けた後、もう一度病院に顔を出した。
 コースケは病室のドアに背中を預け、
「言い忘れてたけど、殺人ゲームはまだ続いているぞ」
 と、薄い笑みを浮かべながら言った。
「え?」
 果歩が無事だったから、当然僕は殺人ゲームは強制終了されたものと考えていた。だから、誰にもそのことを聞いていなかった。けど、まだ……続いている?
「もっとも、大幅な軌道修正とルール変更が行われている、がな。詳しくはフェルドリッチを参照してくれ」
「いや、入院してたら、そんなの無理だろ。なに他人事みたいに言ってんだよ。お前はどこぞのゲームマスターか!?」
 僕の言葉に、コースケは喉の奥で笑う。
ゲームマスターではなくクリエイターなんだが……な。まぁ、いい。簡単に説明だけしてやろう」
 コースケは、僕が浮かべたことがないような邪悪な笑みを浮かべていた。
 病室のドアを塞ぐように凭れ、コースケは静かに語り出した。
「そもそも……古き神の如き者の饗宴には、フィールドも死までの猶予期間も存在しなかった。現在ある……既に過去の物だが、あのルールも後付けされた物だったんだよ。もちろん、ルールの変更にも特定の条件が必要なんだが……な」
 小さく息を吸い、コースケは続ける。
「ルール変更の条件は、プレイヤーの強い想いと、俺の承諾だ」
 窓から入る傾いた陽が、コースケの足元を赤く染めていた。……が、それは足元だけで、天井から下りる薄闇が、その表情を隠していた。
「まだ死にたくない。素手じゃ戦えない。殺し合う姿を隣人に見られたくない。……そんな想いを汲み取り、いまの宴の姿が長い月日の間に作り上げられていた。そして、果歩は俺に言った……『死にたくない』と」
 コースケは自分の足元を見たまま、ふっと小さな笑みを零す。
「だから、誰も死なないルールを、俺は組み上げた。後は……フェルドリッチを参照してくれ」
「いや、それ全然いまの説明になってないし。っていうか、何でそんなにフェルドリッチを推奨するんだよ。あんなハッカーだらけのサイトを人にお薦めするなよ。ってか、さっきからお前、過去の出来事を言ってるだけじゃないか。ちゃんと新しいルールの説明をしろよっ!!」
 視線を横に投げ、コースケが小さく呟く。
「面倒臭っ?いま、面倒臭って言ったのか?」
 ベッドの上で詰め寄り、僕はコースケを睨み付ける。
「ちょっと待て、なにこっそりドアノブに手を回してんだよ。こんな中途半端な説明をして、お前、途中で帰る気か?」
「病院の中で騒ぐなよ」
「誰のせいだよっ!?どうして僕が叫んでいるのかわからないほど、お前の脳みそはおめでたいのか!!?」
 コースケは露骨に溜息を吐き、しょんぼりと肩を落とす。
「お前の声って、やたらキャンキャン響いて耳に痛いんだよ」
 ブチブチと脳の血管が切れる音が聞こえてきそうだった。完全にブチ切れる……次に、こいつがフザケタことを口にしたら、僕は間違いなくキレると確信した。
 苛立ちを隠さず、口を三角にして睨む僕の手の中で――淡く小さな光が零れていた。
「あれ?」
「それが今回の変更点の一つだ」
 コースケが、僕の手から零れる光を見ながら呟いた。
「もうフィールドは存在しない。通常空間でアームズを出すことで、プレイヤーは現世の摂理から外れ、戦闘待機状態になる。世の摂理から外れた者を見ることが出来るのはプレイヤーだけで……戦う意思があるならアームズを出せば良い。そうすれば、好きなだけ殺し合いが出来る」
 淡い光が収束し……僕の手の中に、禍々しい死神の鎌が握られていた。
「死によって勝敗が決まるは今までと同じだが、それは現実世界には当て嵌められない。変わりに、敗者はペナルティとして三日間……能力の使用が封じられる」
「ちょっと待て、じゃぁ……ジョーカーは?」
「既存の認識でのジョーカーは存在しなくなるな」
「既存の?」
「死ぬことのない殺人ゲーム……しかし、その中でもジョーカーは存在する」
 静かに、嘘みたいにコースケは静かに言った。
「この世界に干渉する数多の神々が、新たなジョーカーだ」
「な、んだって?」
 くくく、とコースケは喉の奥で笑う。
「アームズを使い、神々を狩るのが、新しいゲームの目的なんだよ」
 ゆっくりと後ろ手にコースケが病室のドアを開く。
「新しいルールの詳細とゲームの目的は、俺がフェルドリッチに書き込んでおいた。だから、興味があるなら調べてみろ」
 ドアの向こうに消えるコースケを、僕は呆然と見送っていた。
 神々を狩るだって?
 そんなことが人間に出来るとは思えなかった。
 思えなかったけど……僕の手の中には、間違いなくアームズが握られていた。
 薄く開かれたままのドアの向こうから、小さな笑い声や人が動く気配が絶えず届いていた。