序章
 
 目を覚まして最初にするのは、自分の体温で暖められた干し草の匂いを楽しむことで……シーツを引き寄せ、その中に顔を埋めて、耳を澄ませます。
 屋根の上の小鳥たちが鳴く声が聞こえるから、今日はきっと良い天気なんだろう。
 ひょこっとシーツから顔を出すと、自分の吐く息が白くなって消えていくのが見えた。その向こうの散らかったままのガラス器具も。
 ゆっくりとシーツの中に頭を戻し、小さく丸まり私は目を閉じる。
 後片付けの面倒臭さが、私を怠惰な眠りに誘っていた。けれど、ここでは誰もそれをしてくれません。自分で片付けないと、それは永遠に放置され、何れは異臭と共に奇怪な生命を生み出すことになるでしょう。……そんなことは絶対に無いと思うけど。
 いつまでも寝ていると、おばあさんに怒られるので……私は覚悟を決めて、シーツの中で「ん〜〜〜」と伸びをする。
 身体を起こし、目を閉じたまま手で顔をごしごしと擦る。
 ……眠いです。
 寝癖で膨れ上がった頭を手で撫で付けながら、私はふらふらと木窓に近付き、思いっ切りそれを開きます。
 小鳥が屋根から飛び立ち、山間から顔を出した太陽が、散らかったままの部屋を隅々まで照らし出しました。でも、それは私の背後の出来事なので、いまだけは後片付けのことを忘れて、もう一度堅くなった身体を解すのに、大きく伸びをします。
「あふぅ」
 自然と漏れる声を手で隠し、私は目を細めて窓からの景色に目を向けます。
 背の低い山々に囲まれた広大な麦畑。でも、いまは何も植えられてなくて、朝露に濡れた土だけが広がる景色があります。
 年に二度麦が収穫できるカシィ村でも、真冬だけは農作はされていません。あ、野菜を作っている畑は別ですけどね。
 そう、私がいま居るのは、王都から遠く離れた辺境に近いカシィ村だったりします。
 カシィ村のティサ。
 それが、現在の私です。
 王宮錬金術師のセルカは……たぶん、あの日、チビでデブでハゲのメルダシアン大臣が謀反を起こした日に死んだことになっていると思います。
 あの日のことを、悪夢の出来事と言えば多く人が同情の眼差しで頷いてくれるはずです。……が、あんまりちゃんと憶えてなかったりします。
 実際、寝ているところを近衛隊の若い騎士さんに叩き起こされて、状況を理解できないまま王城の外に連れ出され、そのまま王都の城壁まで運ばれてしまったのですから。
『大臣が謀反を起こしました。私は王にセルカ様のことを頼まれて来ました。どうか安心してください』
 と言われたのは、城壁の外だったっけ?
 逃げる途中の馬の上だったのかもしれません。でも、よく憶えてないんですよね。
 後、私が憶えているのは……追っ手を巻くために、騎士さんが私を乗せた馬のお尻を思いっ切り叩いて、自分は反対側に馬を駆って行ったのと、私自身は生まれて初めて乗った馬の首に必死にしがみ付いていたことだけです。
 そして、馬が走るのをやめたのが、暗い森の中だったこと、とですね。
 捨て子だった私は王様に拾われてから、ずっと王城の中で暮らしていて、外の世界の暗さと森から聞こえる獣の声にずっと怯えていました。
 朝になっても誰も迎えに来てくれませんでした。昼になっても誰も来てくれません。
 いま自分がいる場所もわからず、私は馬と一緒にぼんやりと座り込んでいました。
 お腹が空いても食べる物も無く、私は不安と寂しさで小さな子供のように泣き出しました。
 このまま……ここで死んじゃうのかな?
 夕暮れの森の前で、そんなことを考えているとき、私の前に止まったのが……ホロイおじいさんとナリアおばあさんの馬車でした。
 王城で謀反があったことを知っていた二人は、すぐに事情を察して、私を馬車の中に隠してくれました。
 近くの町で、腰まであった長い髪を少年のように短く切り、ローブをみすぼらしく見えない程度の服に着替えさせられました。
 その町の宿で、おじいさんは私のことを、
『孫娘のティサ』
 と、宿屋の主人に話していました。
 その日から、私はホロイおじいさんの孫娘のティサとして生きることが決まったのです。
 村に帰ってくると、おじいさんはみんなに、
「商人をしている息子の子供だが、生れ付き体が弱くて、街で暮らしていけないので自分が引き取ってきた」
 と、紹介してくれました。
 確かに、カシィ村に来たばかりの私は色白で線の細い華奢な女の子だったので、病弱と言う嘘も偽りに聞こえなかったはずです。……だって、生まれてからほとんど王城を出たことなかったですから。
 でも、いまの私は……生来の丸顔に相応しい体型になってしまいました。どこら見ても元気いっぱいの女の子だったりします。
 おかしいです。絶対に変です。以前より食べ物が粗末になっているのに、健康的な身体になるなんて、絶対になにか間違っています。
 まぁ別に太ってるわけじゃないから、問題は無いんですけどね。
 でも、この辺で止まってくれないと、ちょっと危ない気がするので、注意が必要だと思います。
 あ、そうそう。
 私を拾って育ててくれた王様は、謀反を起こした兵士を殺すのに調子に乗り過ぎて城壁の外まで出ちゃったそうで、そのまま締め出しを食らったらしいです。
 竜の鱗から打ち出されたと伝わる大剣『ドラゴ・ハウンド』の使い手で、若い頃は戦に明け暮れていたそうだから、きっと昔を思い出しちゃったんでしょうね。
 王様の仕事を、いつも退屈で面白みが無いと言ってたので、今頃は元気に野盗でもやっているんでないでしょうか?
 王妃様も一緒に落ち延びたとの噂なので、あの二人が一緒なら心配はいらないはずです。
 野盗に飽きたら城を取り返しに行くんじゃないかな?
 ま、とにかく……いまの私はカシィ村のティサで、街で習った錬金術を使うホロイおじいさんの孫娘なのです。
 王立アカデミーを卒業した記念に貰った『賢者の指輪』は大事に左手の親指にしてあります。
 終生学徒の証でもあるこれさえあれば、どんな街でも出入り自由なので、この先の人生でも困ることはないでしょう。
 私は着替えると、後片付けのことは忘れて、住み込ませてもらっている屋根裏部屋を後にしました。
 カシィ村での一日が、また始まろうとしています。