■
第一話 カシィ村のティサ
温められたミルクの匂いに目を細めながら、私は元気に下の部屋の扉を開きます。
「おはようございます」
「んむ。おはよう」
おじいさんはもう朝食を食べていました。
昨日の夜、今日は村の人とウサギ狩りに行くと言っていたので、いつもより早く出掛けられるのかもしれません。
「おはよう」
テーブルに着いた私の前にミルクを置きながら、おばあさんが優しい声で言ってくれました。寝坊に関しては、ギリギリセーフっぽいです。
「いただきまーす」
元気に言うと、私はテーブルの真ん中に積まれたパンを一つ手に取ります。
千切ったパンを口に放り込み、もぐもぐと噛みながら、切り分けられたチーズを取り一口に放り込みます。
「ちゃんと噛んで食べなさい」
「んっ」
飲み込むのと返事を同時にする私に、おじいさんは口の端で苦い笑み見せます。でも、ちゃんと噛んでますよ?
食卓の上にあるのは、ミルクとパンとチーズで……シンプルだけど、いつもの美味しい朝食です。
王宮に住んでいた頃は、朝から贅を凝らした物を用意されていましたが、ほとんど手を付けた記憶が無かったりします。長いテーブルの向こう側に座る王様は、狂ったように食い散らかしてましたが……。あの食欲を見ているだけで、気分が悪くなったのだけは憶えています。
けれど、いまの私は王様のことは言えなかったりします。朝からパンを三個も食べてますからね。
「お前は、今日はどうするんだい?」
おじいさんに聞かれ、私は回想から現実に戻されます。
「ん……と、今日はホカタゴの港町まで行くつもりです」
「ほぅ、珍しいな」
「はい。ちょっと買いたい物があるんですよ」
「ふぅむ。お前のことかだから心配はいらないと思うが……」
言い掛けたまま、おじいさんは席を立ち、奥の部屋に行ってしまいました。
「?」
不思議そうに見送る私を、おばあさんはにこやかに見ています。
「あった。あった」
奥の部屋でごそごそしていたおじいさんが帰ってくると、テーブル越しに持って来た物を差し出しました。
それは革の鞘に収められたちょっと長めの短剣でした。
「息子が若い頃に護身用に持っていた物じゃがの……これならお前にも扱えるだろう」
扱えるだろう、と渡されても、私はガラスナイフ以外の刃物は使ったことがないんですけど?
でも、せっかくおじいさんが出して来てくれた物なので、ありがたく受け取ります。
あ、けっこう重い。
鞘から抜いてみると、それは短剣ではなく片刃の剣で……刃の長さは、私の肘くらいの物でした。
「噂されるほどホカタゴの治安は悪くはないが、お前も一応は女の子じゃからの。性質の悪いのにからまれたら、多少の脅しには使えるじゃろ」
一応は余計だと思うんですけど?っていうか、武器として使えないの前提ですか?
私は歩くのに邪魔にならないよう、おじいさんに渡された剣を腰の後ろに止めました。
ほんとは、こういう物は使わないのが一番だと思うんですけどね。
「……ほぅ」
関心したような声をおじいさんが漏らしました。
「どうかしたんですか?」
「ん?いや、お前でも、武器を纏うと、ちょっとだけ強そうに見えるもんだな、と思っただけじゃよ」
馬鹿にしたようなその言葉に、私はぷいっと横を向き、おじいさんは声を出して笑いました。
おばあさんまで、くすくすと笑ってるし。
私は席に戻り、残ったミルクを一気に飲み干すと、
「いってきます!」
半分怒ったように言い捨てて家を出ました。
「いってらっしゃい」
「気を付けてな」
穏やかなおばあさんの声とまだ笑っているおじいさんの声が、閉じられる扉の隙間から聞こえました。
外に出ると、朝の寒さがまだ少し残っていて、私は小さく身震いをしました。
でも、真っ青な空が見える良い天気です!
おじいさんの家の裏に繋いでいるエア・ボートの紐を解き、私はそれにちょこんと腰を乗せます。
櫂を手にゆっくりと漕ぎ出すと、エア・ボートは滑るように走り出しました。
このエア・ボートは浮遊石を組み込んだ乗り物で……見た目は、木を刳り貫いた小さめのボートです。特徴は、空中に浮いていることかな?
カシィ村は、山の斜面に家が建てられているので、家を出ると必ず帰りが上り坂になってしまいます。だから、王城暮らしだった私には過酷過ぎる環境だったんですよね。
ですから、エア・ボートは、ここに来てすぐに作ったアイテムだったりします。
おじいさんの家は斜面の上の方にあるので、このエア・ボートが無ければ、私は一生あの家から出ることはできなかったかもしれません。
エア・ボートの速さは、櫂に埋め込まれた浮遊石の純度で決まります。ちなみに、このエア・ボートの速度は、荷馬車程度に抑えてあります。あんまり速過ぎると怖いですしね。
それと、浮かぶ高さはボートに埋め込んだ浮遊石の純度で決まります。だから、エア・ボート一台に、浮遊石は最低でも二つが必要になります。
すぃ〜っとのんびり坂を下る私に気付いた村のおばさ……じゃなくて、お姉さんが手を振って挨拶をしてきました。この人、まだ未婚で、おばさんっていうとすごく怒るんですよね。
「おはようございます」
「おはよう。今日は早いのね」
「はい。ホカタゴまで行きますので」
「あら?ホカタゴって港町の?」
「はい」
「港町は治安が悪いって聞くけど……」
お姉さんが心配そうに顔を曇らすので、私は腰の剣を見せました。
「ですから……おじいさんに、これを渡されました」
笑いながら言う私を、まだ心配そうに見ながら、
「ほんとうに、気を付けないといけないわよ」
と、お姉さんは言いました。
「だいじょうぶですよ」
「でも……」
「ほぇ?」
「あなたも、こっちに来てから元気になったわよね。以前は出来の悪いニンジンみたいにガリガリだったのに」
その言葉に、ピクッと頬が引き攣りました。
「やっぱり女の子は、ちょっと丸いくらいが可愛いわよね」
悪意無く言っている言葉なのは分かってます。ちゃんと分かってます、が……そんなに丸くなりましたか?私は。
お姉さんとにこやかに別れた後、私はエア・ボートの上で足を真直ぐに伸ばしてみました。
半ズボンから出た足が、やたら血色がよく見えます。
確かに、足は太くなりました。
太股とかむちむちですよ、どうせ。
でも、これくらいなら、まだ元気な女の子の範囲内なはず。まだ大丈夫なはずです。
誰もいないのを確認して、私はこっそりとシャツの下に手を入れて、お腹のお肉を摘んでみます。
「……ぅ」
いや、不覚にも声が漏れましたが、これはきっとあれです。座っているからお肉が寄っているんです。きっと、そうに違いありません。
嫌な想像を頭の外に追い出して、私は頬に掛かる風に目を細めます。
山の斜面から麦畑に出た私は、櫂を左に倒してゆっくりと曲がると、ヒルハ平原ではなく、トーラ山の方にエア・ボートを向けました。
おじいさんには言いませんでしたが、ホカタゴの港町に行く前に、一箇所だけ寄りたい場所があったからです。
トートーラ山脈の一部であるトーラ山の麓に、その森はありました。
村では狼が出ると噂されている森です。
でも、私は狼以上に珍しい物が、ここにあるのに気付いてました。
それは……『フェルッツェの木』です。
フェルッツェの木その物は、さして珍しくはありません。王都でも多く植えられているし、王国全体を見回しても、どこにでも見られる木です。
ですが、それは一本だけの話。
広げた手の形に似た葉を持つフェルッツェの木は、滅多に群生することがなかったりします。そして、その滅多に無い群生したフェルッツェの木の根元に生えるのが……はい、これです。
『フェルッツェ・マッシュルーム』
真っ黒な傘に白い斑点が浮かんでいる、見るからに毒っぽいキノコです。
フェルッツェ・マッシュルームは、そのまま食べると笑いが止まらなくなって死んでしまう、とても怖いキノコだったりします。
冬の終わりに、フェルッツェの木の根元に生えるんですが、発生条件が厳しいので滅多に手に入らない貴重品でもあります。
私は手袋をした指先で、フェルッツェ・マッシュルームの頭をぽんぽんと叩くと、慎重にその根元から抜き……そのままゆっくりと左手に持った革袋の中に入れます。
最初に頭をぽんぽんと叩いたのは、胞子を落としておくことで、ここに来年もフェルッツェ・マッシュルームを根付かせるためです。
恐ろしく慎重なのは、その胞子が危険な猛毒だからです。いや、ほんと……笑い死にとかしたくないですから。
フェルッツェ・マッシュルームの採集をしていると、不意にガサッとものが動く音が聞こえました。
狼?
反射的に音のした方に顔を向けながら、革袋の口を閉め、腰を落とします。
ゆっくりと、おじいさんに渡された剣に手をやります。
静かな森の中で、自分の息の音だけが聞こえます。……が、私はそこで首を傾げました。
狼なら、私が気付いた段階で遠吠えで仲間を呼ぶはずだし、他の獣なら逃げ出すはずでした。なのに、物音一つしないのは変です。
さっきの音は絶対に聞き間違いじゃないし……。
と、思ったところで、ひょこっと小さな耳が木の裏から顔を出しました。
真直ぐに立った耳と赤く燃えた目。長い鼻面と左右に広がる硬いヒゲ。見間違いようのない狼……の皮を被った小さな男の子が、不思議そうにこっちを見ていました。
「あれ?」
狼の皮の口の部分を頭に被っているので、まるで食べられている途中のようにも見えますが、妙に可愛い顔をしているので、逆に愛嬌があるように見えました。
その男の子は出て来たときと同じく唐突に木の後ろに隠れ……ガサガサと下草を鳴らして移動すると、違う木の後ろからひょこっと顔を出しました。
近くに住んでる子かな?
その男の子は、私が見ている前で、隠れる→下草を移動→顔を出す→また隠れる。を繰り返しています。
「なにやってるの?」
声を掛けても無反応で、また同じことを繰り返してます。
なにか警戒している……っぽい?
見てて可愛いから嫌な感じはしないけど、近付こうとも離れようともしないのは気になりました。っていうか、採集の邪魔だし。
「私はティサ。そこのカシィ村に住んでるの」
私が自分の名前を告げると、男の子はピタッと動きを止め、じっと私の顔を見ました。
「?」
私が不思議そうに首を傾げると、その子も同じように首を傾げ……また下草の中に隠れて、ガサガサと動きます。が、今度はそのまま離れて行くようでした。
その音が聞こえなくなっても、私はしばらく様子を見て……小さく呟きました。
「変なの」
近くの森を出た私は、ヒルハ平原に出るとホカタゴの港町に向けて、エア・ボートを走らせます。
山に囲まれたカシィ村と違い、ヒルハ平原は一目で遠くまで見渡せる平らな土地です。ま、平原ですからね。
ヒルハ平原は一年を通して暖かいから草が枯れることはなく、多くの羊飼いが集まるところでもあります。
そんな羊飼いやのんびりと草を食む羊を眺めながら、私は街道に沿って平原を抜けていきます。
エア・ボートに乗っているので、最初は魔女だとか騒がれましたが、いまではみんな見慣れた物のようでした。
賢者の指輪を見せ、錬金術と魔術は違うとちゃんと説明しただけのことはあります。
ちなみに、王立アカデミーには、魔法学科もあったんですけどね。
個人の資質に左右されることが多い魔術と違い、錬金術はちゃんと知識を得れば、誰にも出来る技術なので、錬金術師は魔女とは程遠い存在だったりします。
字を覚えることの早かった私は、王様の暇潰しに王立アカデミーの錬金術学科に五歳で放り込まれて、十一歳で卒業することになりました。それが三年前の出来事です。
当時は自分のことを天才みたいに思ってたんですけど……実際に野に出てみると、これが案外使えないんですよね。
王城に居た頃は、永久機関への探究心に燃えて、いろいろと実験を繰り返してましたが、いま思うと時間の無駄ですね。パンの焼き方の一つでも覚えていた方が役に立ったんじゃないでしょうか?
ま、その錬金術の知識を生かして、珍しい物を採集して商会に売る。なんてことも出来てるから、そうそう卑下するものでもないかもしれませんが。
貴重品を収集して、それを商会に売って生活費を得る。
余った時間を生かして、趣味で錬金術をする。
そんな感じの生活が、妙に馴染んでいる今日この頃だったりします。
ホカタゴの港町は、ハナカ海とトルテア河の角にある大きな港町です。
海の幸と川の幸、木材や輸入品、辺境の港町ならではの御禁制の品など、何でも揃うと言われている港町です。
朝から夜まで活気がある明るい町で、私はけっこう好きだったりします。
町全体を覆う石壁も立派な物で……これは、やはり御禁制の品々が王国に密輸入されないように厳しい検問があるからです。が、私は賢者の指輪を衛兵さんに見せ、楽々と検問の横を通り抜けさせてもらいます。
基本的に、どこの扉も永久学徒を前に閉めることはできません。持ち物検査もありません。
密輸とか自由自在です。
普通ならフェルッツェ・マッシュルームとかは没収されるか、とんでもない税金を取られるかしちゃいます。
だから、けっこう重宝してるんですよね、賢者の指輪。
これがあれば商会とかに舐められることもありませんしね。
中央公園の露店でお昼ご飯を食べ、私は行き付けの雑貨商に足を向けました。
雑貨商の前でエア・ボートを降り、石畳に足を下ろします。
ふよふよと浮かんでいるエア・ボートを店先に残し、私はラスク商会と書かれた安っぽい木の看板を眺めながらお店の中に入りました。
「いらっしゃいませ」
ドアの上に付けられたチャイムが鳴り、店主である青年が錆のある声で言いました。
カウンターの上に両手を置いて、にこやかな笑顔を私に向けています。
「ご注文の品は届いておりますよ、ティサ様」
「様付けはやめてって言ったけど?」
私は薄暗い商店の中を眺めながら、カウンターに近付き、腰にぶら下げていた革袋を慎重に取り外します。
ラスクの目がわずかに細められます。
私は革袋の口が緩んでないのを確認して、それをカウンターの上に置きます。
「これは?」
不用意に手で触れないのは、さすが小さくても雑貨商の店主です。
「フェルッツェ・マッシュルーム」
ピクッとラスクの頬が引き攣るのを見て、私は内心にやりと笑います。
私は指先で大きさを示し、
「これくらいのが十本入ってるよ」
と明るい声で言いました。
「ふむ」
ラスクは丁寧な仕草で革袋を持ち上げ、重さを量るように軽く手を上下させてます。
「その大きさなら……一本で銀貨十枚が相場ですね」
相場を知らないので、私はその値段が妥当かは判断できません。が、たぶんかなり安い値段を言っているはずです。
私はじとっとした目でラスクを見ます。
「相場って、そんなに安かったっけ?」
「ええ。この路地の相場は、その程度の値段ですね」
ようするに、密輸された品はその程度の値段に叩かれますよ。と、彼は言っているのだ。
「足元を見るような商売ばかりしてると、そのうちどこかで後ろから刺されますよ?」
私が嫌味たっぷりに言うと、彼は、
「その腰の剣で、ですか?」
と笑いながら返してきた。
口では絶対に商人に勝てない。だから……
「それでいい」
私は露骨に溜息を吐きながら、そう答えました。
「まいどあり」
彼は革袋を丁寧な手付きで奥の棚に置き、その下に隠した金庫から銀貨の入った大きな袋を出して来ました。
「さて、どうします?」
にこやかな笑顔でラスクは私を見ています。
それは百枚の銀貨が入った革袋を、私の力では持ち上がらないのを知ってての笑顔でした。
「両替されますか?」
「うん」
両替は、相場が安定している王国発行の通貨ではなく、他国の銀貨や金貨と交換することを言います。普通は両替商を使いますが、彼が言っているのは、この場での両替のことでした。
恭しい仕草で、彼が革袋の横に一枚の金貨を置き……たっぷりと間を開けてから、その指を離しました。
そこに残されていたのは、王国発行の金貨で、銀貨千枚分の価値がある物でした。
私は胡散臭いものを見る目で、ラスクの顔を眺めました。
「どういうつもり?」
「と、言いますと?」
「なんで、銀貨百枚が金貨一枚になるの?」
私の言葉に、ラスクは最高の笑顔を見せて答えました。
「千人分の人命が金貨一枚なら安いものですよ」
笑みを絶やさず、ラスクは続ける。
「フェルッツェ・マッシュルームは猛毒で知られますが、正しく精製すれば貴重な麻酔薬になる。……違いますか?」
違わない……その通りだった。ただし、精製には、最高の技術を持った医術師か錬金術師、それに最新の技術で作られた施設が必要になる。
「教会区の医療施設ではなく、医術師協会の方に売れば、もっと良い値で引き取ってもらえるはずですので……これでも安いくらいですよ」
「あっそ」
私は無造作にカウンターから金貨を拾い上げると、そのままズボンのポケットに入れました。
最初から金貨一枚で買い取るつもりだったのに、相場以上で買い取った振りをしているのは、商人じゃない私でも解ることだった。
そんな私を、ラスクはにこにこと見ている。
「さて、頼まれていた品ですが……」
「うん」
「こんな物を何に使うんですか?」
「あなたには関係無いと思うけど?」
私の言葉に、ラスクは軽く肩を竦める。
「失礼。ただ私が発注した香水商の方で、そう聞かれたもので……」
言いながら、ラスクは小さな木の箱をカウンターの上に載せる。
「ご注文の品……臭いを完全に取り切った獣脂です」
私は私はカウンターに置かれた箱の蓋を取り、中をあらためる。
「ポマードの原料に使われる一般的な品ですので、かなり安く仕入れることができました」
それは私の予想よりも、やや粘りが多く硬いようだったが、材料として使うには申し分のない物だった。
「うん。これでいい」
私は約束の代金をラスクに渡し店を出る。
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」
お約束の言葉を背中に、私は軽く手を振って答える。
ヒルハ平原の真ん中で、私はエア・ボートを降りた。
風はほとんど感じられなかった。
私は緊張を解すために、顔を空に向けて大きく深呼吸をする。
失敗はあり得ないような簡単な調合でも、多少の緊張はあり、それは身体を堅くする。
調合に絶対は存在しない。
それが野外ともなると、どんなことが起こるかわかったものじゃない。
ほんとうなら、一度家に帰り、自分の部屋で調合をするべきなんだろうけど……それだと、出来上がった物をアリエに渡すのが明日になってしまう。
私は一日でも早く出来上がったアイテムをアリエに渡したかった。
ラスク商会で買って来た獣脂の箱をエア・ボートの上に置き、その隣に昨日の夜に調合した液体を詰めたガラス瓶を並べる。
傾きだした太陽の光が、ガラス瓶に反射して、緑色の光を周囲に投げかける。
私は右手にガラスの細い棒を持つと、獣脂の蓋を開き、次に瓶の蓋を取り、中の液体をスポイドで吸い上げる。
その液体を獣脂の上に一滴だけ垂らし、ガラス棒で丁寧に馴染ませる。
乳白色だった獣脂の表面を、緑色の液体が滑り逃げていく様子に、私は泣きそうになる。
お願い……混ざり合って。ひとつになって。
滑る液体をガラス棒で追いながら、少しずつでも溶け合うように優しく擦り続ける。
長い時間を掛け、最初の一滴の粘度が少しだけ増した。
それを見て、私は安堵の息を吐き……気を持ち直して作業を再開する。
液体と獣脂が混ざり合うことを確認できれば、後は時間が掛かってもこの調合は成功するはずだった。
私は二滴目を獣脂に垂らし、ガラス棒で丁寧にそれを馴染ませていく。
大丈夫。絶対に上手く行くんだから。
私がカシィ村の近くにあるセノの町に着いたのは、夕方近くなってからでした。
慣れない野外での調合でふらふらになりながら、アリエの家の前でエア・ボートを降りる。
もう家の人が帰っている時間なので、遠慮気味に扉を叩き……声を掛ける。
「こんな時間にすいません。カシィ村のティサです」
待たされることもなく扉を開いてくれたのはアリエのお母さんでした。
「こんばんは」
私はにっこりと笑いながら挨拶をする。
「こんばんは」
優しい笑みを浮かべながら、おばさんが言い……その後ろから苦しそうなアリエの咳の音が聞こえきた。
「ごめんなさい。あの子、いま調子が悪くて……」
私は手に持っていた箱を、おばさんの前に差し出しました。
「これ、前に言ってたアイテムです」
おばさんは、きょとんとして、私の手の中の箱を見ます。
「前に言ってたって……咳が楽になるかもしれないって言ってたお薬?」
私はこくんと顎を引いて頷き、
「効果がほんとうにあるかは分かりません。でも、アリエに試してほしいんです」
と言った。
「あなたが作ったの?」
私が錬金術師なのはアリエから聞いているはずですが、まだ子供の私が作った物を信じて使ってくれるのか……それが問題でした。
おばさんは、じっと私の顔を見て、
「中に入ってもらえるかしら。……外は寒いから」
優しい笑みで、私を家の中に招いてくれました。
私は内心ほっと息を吐き、小さく頭を下げます。後は……アイテムの効果が、ちゃんと出てくることを祈るばかりです。
一回に塗布する量を説明すると、すぐにおばさんはアリエの部屋に入って行きました。
待つ内にアリエの咳は小さなものに……そして、すぐにその咳も聞こえなくなりました。
ゆっくりと扉を閉じて、おばさんが戻ってくると、
「久しぶりに見たわ。あの子の、あんな楽そうな寝顔」
と言いました。その言葉に、私もほっと胸を撫で下ろします。
「ありがとう。……でも、ほんとうにいいの?」
おばさんはすまなそうに聞いてきます。
「え?なにがですか?」
「あのお薬。高価な物なんでしょう?」
私はそれ聞いて、ぶんぶんと顔を横に振ります。
「そんなことないですよ。材料の採集に時間が掛かったけど、お金はほとんど使ってないんです」
おばさんは私が嘘を言ってないか、確かめるようにじっと見てきたけど、これはほんとうの事だった。
ただ……同じ効果の薬を買い求めると、信じられないような金額が必要になるのも事実だった。たぶん、おばさんはその薬の値段を知っているんだろう。
「あ、そうだ。直接胸に塗るとカブれるときがあるかもしれないんですよ。そんなときは、布にあの薬を塗って、それを胸の上に置いてください」
私がそう言うと、おばさんはようやく笑顔を見せて、
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
と言ってくれました。
何度もお礼を言うおばさんから逃げるようにアリエの家を出ると……外は、もう真っ暗でした。
「あ、あれ?」
青みがかった夜空に無数の星が輝いています。……が、その美しさに感動することもできす、私は恐怖に震えます。
『何があっても、明るい内に帰って来なさい』
これは、おじいさんと私との間で交わされた約束でした。
お、怒られる?
いえ、間違いなく怒られるでしょう。
私は夜空以上に暗い気分で、エア・ボートをふよふよと走らせます。
急げば少しでも早く家に着くことができます。でも、それはおじいさんに怒られる時間が早くなることで、自分で自分の処刑時間を早めるようなものでした。
ホカタゴの港町で遊んでいて遅くなったのでなく、アリエに薬を渡していて遅くなったことを、おじいさんの拳骨よりも先に説明する!
それが、私が生き残る最後の手段でした。
そう、逃げながらでもそれを説明できれば、おじいさんの拳骨は無いはずなんです。だって、私……良いことしてたんですよ?
カシィ村に入ると、家々が立ち並ぶ斜面の下、麦畑の真ん中を通る道の、その真ん中におじいさんは立っていました。
両腕を組んで、口をへの字に曲げています。
うわぁ、めっさ怒ってるっぽい。
私はおじいさんの手前でエア・ボートを降り、ゆっくりと前に行きます。薄ら笑いを浮かべながら。
「あ、あの……違うんです。遅くなったのは遊んでたからじゃな……く…………」
腕を組んだまま、じっと私の顔を見るおじいさんの顔がさらに険しくなり、私は言い訳をすることを諦め、
「……遅くなって、ごめんなさい」
小さくなって謝りました。
その頭に、
ゴツン!
おじいさんの拳骨が落ち、私は目から火花を散らしながら、へなへなとその場に座り込みます。
「いったぁい」
くらくらする頭を支えるように両手で抱えますが、痛みはじんじんと続き、涙が出てきます。
「ば、馬鹿になったらどうするんですか!」
「ふんっ。約束の時間も守れんヤツは、もう十分に馬鹿じゃ」
「違うんです。アリエに薬を渡すのに、遅くなったんですよ。決して、ホカタゴで遊んでたわけじゃないんです」
私の言い訳に、おじいさんはじろっと振り返り言いました。
「昨日の夜に遅くまで何かやっておったのは知っておるわい。しかし、じゃ……帰りが遅くなったら、おばあさんが心配するじゃろうが。バカタレが」
座ったまま拗ねたように頬を膨らませている私に手を貸して立たせると、おじいさんが聞いてきました。
「アリエの……咳は治るのか?」
その言葉に私は小さく頭を横に振ることしか出来ませんでした。咳は抑えることは、あの薬できでます。でも、病気そのものを治すことはできません。
おじいさんの手が、優しく私の頭に乗せられ、くしゃくしゃと髪を撫ぜてくれました。
「あの子も……お前みたいに元気になってくれるといいんじゃがの」
私は何度も頷きながら、目に溜まっていた涙を手でふきました。
その日の夕飯は、ウサギの肉のシチューで、すっごく美味しかったです。っていうか、美味しいです。まだ食べてる途中でした。
おじいさんのウサギ狩りの話しで、私はお腹を抱えるほど笑わされて……苦しー。
「いや、カッツェのヤツがウサギの罠に掛かって逆さ吊りになったから、みんなで身包み剥いでやったんじゃよ。そこまではあいつも笑ってたんじゃがの」
「う、うん」
ぷぷっと笑いを殺して、私は続きを聞きます。
「あやつの下で火を焚き出したら、必死になって暴れ出しての……枝が折れて、そのまままっ逆さまじゃ」
いや、おじいさん……それ、笑えません。
「尻から落ちたもんじゃから、あやつは今頃立ったまま飯を食っとるはずじゃ」
上機嫌におじいさんは笑ってるけど、カッツェさん、火傷とか大丈夫なのかな?
「あ、そう言えば……ちょっと聞きたいことがあるんですが」
私は昼間に近くの森で見た不思議な男の子のことを、おじいさんとおばあさんに話してみることにしました。……が、二人は私の話を聞いて、不思議そうに顔を見合わせています。
「やっぱり、近くに住む子供なんでしょうか?」
うぅむ。とおじいさんは唸り、おばあさんはいつもの笑顔で微笑んでいるだけです。
「お前の話からすると、その子は多分……フェルルじゃないかと思うんだが……」
「フェルル?」
「うむ。狼神の子供で、道に迷った旅人に正しい道を教えてくれる神様の一人じゃよ」
神様の……子供?
「子供だけあって、悪戯好きらしいが……お前は何もされなかったのか?」
「いえ、別に……じっとこちらを見ているだけでしたけど?」
「ふむ。なら、まぁいいんじゃが……」
何か歯切れが悪いです。
「フェルルって、どんな悪戯をするんですか?」
「む?フェルルの悪戯か?ん……馬の尻尾の毛を抜いたり、靴の中に小さな石を入れたり、こっそり水筒の水を飲んだり、かの?」
「なんですか、それ。丸っきり子供の悪戯じゃないですか」
「ふむ。まぁ、子供の神様じゃからの」
「それと……」
そこで、おばあさんがおじいさんの顔を見ながら言いました。
「若い娘の旅人を誘惑するらしいですよ」
途端に、おじいさんがごほげほと咽返ります。
「ねぇ、おじいさん」
にっこりとおばあさんが言います。
「ま、まぁそんな話もあるわな」
咳払いをして、おじいさんはヤギのミルクを飲んでいます。
おばあさんは、私を見て、にっこりと笑ってます……けど、何なんでしょう?
その日の夜。
私はガラス器具を綺麗に洗って、布を敷き詰めた台の上に並べ、眠りに就きました。
明日の予定は無いので、午前中はおばあさんのお手伝いをして、午後は……アリエに会いに行ってみようと思います。