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scene-01
唐突に、それは訪れた。
いや、違う。そうじゃない。『訪れた』のは僕だ。
僕が唐突に訪れさせられた……んだと思う。思った瞬間、僕はバランスを崩して尻餅を着く。
「痛っ」
小さな声が漏れ、それが思いのほか大きく響き、僕は慌てて両手で口を押さえる。が、手に持った「物」が顔に当たり派手に仰け反る。
「いててって、何だよ、もう」
白々しい独り言を呟き、手に持っていた「物」を見る。
見る、と同時に言葉を失った。
何だ?何で、こんな物を持っているんだ???
手の中のそれを見て、慌てて周囲を見渡す。
だが、そこには何の答えもない。
ただのありふれた片道四斜線の交差点があるだけだった。
夜の闇と言うには明る過ぎる風景がそこには広がっていた。
交差点から少し外れた場所で、僕は一人、尻餅を着いている。
信号は……電気が来てないのだろう、どれも消えていた。いや、信号だけじゃない。周囲の建物からも光は消えていた。人口の光はどこにも見えない。
ゆっくりと腰を上げ、もう一度周囲を見る。
目に見える範囲のビル達は真っ暗で、人の気配もない。まるで、誰も居ないかのような静けさだった。
物音一つしない。世界が死んだかのように静まり返っていた。
不安から手に持ったそれ……拳銃を、両手で握り締める。
本物だろうか?……分からない。だけど、手の中のずっしりとした重みは不思議と安心出来た。
誰かいないのかと声を掛けるべきなんだろうか?しかし、この状況で声を掛けられるまで隠れている相手を信用出来るのか?
それに、僕なら……絶対に出て行かない。
少なくとも、もう数分間は一人で考え続けている。交差点の真ん中で拳銃を手に考え続けている相手に、自分から話し掛けるなんて、殺してくれって言ってるようなもんじゃないか。絶対に、僕なら声を掛けたりしない。
そして、そんな僕に話し掛けるなんてヤツは……間違いなく信用は出来ないだろう。
こっちの反応を盗み見ているようなヤツは信用出来ないに決まっている。
もう一度周囲を見渡して、ゆっくりと足を踏み出す。
微かに、風の中に潮の香りを感じるから、ここは海に近い街なんだろうと考える。方角は分からないけど、山を背に歩けば海に出れるだろう。
影の深いビル郡を左右に僕は一人、静かに歩く。
薄い霧が出ているのか、空には星も月も無い。なのに、どことなく明るい印象があった。
街灯の明かりもなく、信号も消えている。目に映るビル達も電灯は消えている。
だから、逆に周囲が明るく見えるんだろうか?
いや、それも月や星が出ていれば、の話だろう。
光源が無いのに、この明るさは不自然だ。
それに、この明るさだけじゃない。
僕は周囲をさり気無く見廻す。
四斜線の道路には何もない、いや、時折思い出したように違法駐車の車が止まっている。しかし、それも丁寧に路肩に寄せられている。見たところ異常は無く、ドアも窓も閉じられている。
少なくとも、この状況が急に襲って来たというような印象はなかった。
むしろ、普段通りの平常運転の生活の一幕を切り取ったような感想を僕に抱かせた。
ココニハ誰モ居ナイ。切リ取ラレタ世界ダ。ココハ僕ダケノ世界ナンダ。
小さな溜息を吐くと同時に首を振り、その馬鹿な考えを頭から追い出す。
頭は大丈夫なのか、僕は?そのうち大声で叫びながら走り出すんじゃないのか?
小さな含み笑いが漏れる。
ほんの一時間弱だぞ?誰とも出会わずに歩いているだけで、正気を失い掛けているのかよ。
「冗談じゃな……い、ぞ」
声を出して言うと同時にそれは唐突に僕の視界に入って来た。
いや、もっと早くに視界に入っていたんだろうけど、そのときになるまで僕はその……真っ黒い海に気付く事は出来なかった。
大きく首を振り、僕は冷静さを取り戻そうとする。
違う。黒い海じゃない。海は黒くなんかない。
夜の海なんだから、黒くて当たり前なんだ。黒く見えているだけだ。
だけど、何で……こんなに真っ黒に見えるんだ?
もっとよく見てみよう。と、足を踏み出した瞬間……僕は驚いたように左を見る。
そこに、一人の女子の姿を見て、僕の思考は停止する。
「え?」
あまりに唐突過ぎた。
夜の闇の所為か、髪の色は黒にしか見えない。
ショートカットの髪に、黒のセーラー服を着ている。白いソックスにバッシュっぽい靴を履いている。そして……右手には、僕と同じように拳銃を握っていた。
誰だ?知っている?いや、知らない子だ。
その子が拳銃を持っている手を真っ直ぐに向けて来ても、僕は何の反応もしなかった。
腹を思いっきり殴られたような衝撃の後、肩を強引に引き倒された。と、同時に頭の中で何かが響き渡った。
何だ?何で倒れてるんだよ???
反射的に身体を起こそうとして、僕は吐きそうな腹痛に襲われる。
「うぐっ、ぐ……げほっげはっ、ぐえええ」
我慢で出来ずに吐き出した口元を左手で拭う。
そして、その手を見て……自分の目を疑う。
「何だ、これ?これって、血?」
黒く見えるが、間違いなく血液だった。何でだ?何で……倒れたときに、どこか切ったのか?
違う!
撃たれたんだ。あの子は拳銃を構えていた。あの拳銃で、僕は撃たれたんだ!!
「ぁぁ、う……ぅぁあああぁぁぁああああ!!!!」
撃たれた事を自覚し、僕は初めて右手が動かない事に気付く。そして、その手に握っていた拳銃が自分の足元に転がっている事に。
け、拳銃を。
芋虫のように身体の位置を返し、拳銃に左を伸ばし……銃声と共に仰向けに倒される。
「っ!……が、なが」
頭を上げ、何とか拳銃の方を向こうとすると、バッシュを履いた足が拳銃を遠くに蹴り飛ばしていた。
涙が目に浮かんで来た。何で、僕はこの子に撃たれたんだ?
「何、で……」
疑問をそのまま声にしようとして、僕はその言葉を飲み込む。
その子の拳銃が真っ直ぐに僕の眉間に向けられていたからだ。
「やめ、」
逃れようと背後を見ると同時に、銃声が響き……世界は閉じた。
【××× of the Dead】
べろん。ふんふん。ふんふんふんふんんん。べろべろ、べろん。べろんべろん。ふん。べろろん。
「ちょ、やめ、ぶべっ!!!」
話し掛けた口の中を派手に舐め回され、その犬の顔を押し退ける。
何なんだよ、もう朝かよ。
「……くそっ、いま何時だよ?」
まだ舐めようとしている犬の顔を抑えながら、僕は左手で目覚ましを手探りで探す。……探す。……探、す?
ぐしゃりと誰かの髪の中に手を突っ込み、その死体のような違和感に怖気を覚える。
「うわっ!」
手を戻しながら、身を起こし……周囲を見る。
え?
無数の死体が、そこにはあった。
「な、何だ???」
強引な覚醒に頭が悲鳴を上げている。天井が近い。手の届きそうな距離に等間隔で並んだ蛍光灯がある。ところどころ切れているのがあって、それが中途半端な暗さを生み出していた。
そして、天井が近くなるほど積み上げられた死体の山の上に僕は寝ている。
折り重なる死体の山?
どの死体にも外傷は無い。無いように見える、その死体が無数に重なり合っている。
この部屋は、かなり広い。部屋の四隅は広すぎて、暗くて見えないほどだ。ところごころ支柱のコンクリートの柱があるだけで他は何も無い。
何で、こんなに死体が?いや、そうじゃない。何で、こんな場所に僕は???
混乱しそうになる思考を抑え、必死に冷静さを保とうとする。
小さな犬が横で吠えている。背を向けて、必死に誰を呼んでいるみたいだ。さっき顔を舐め回していたのは、お前かよ。
小型犬のコーギーだろうか?
「ちっ、どこまで行ってんだよ。どっちだ?コーギー!」
呼び声に反応して、コーギーが一段と激しく吠える。
誰か居るのか?この犬の飼い主か?でも、何でこんなとこに来ているんだ、この飼い主は?
そして、死体の山の向こうに顔を出したのは、高校生ぐらいの男子だった。
意味も無く中年のおっさんをイメージしていたから、僕はその登場に言葉を失った。
「お、いたいた。あんたで最後かな?」
人懐っこい笑顔で、にこやかに手を伸ばしてくる。
主人の顔を見た犬がその足元に駆け寄り、拳銃を握った右手で犬の頭を撫でる。
そして、伸ばした左手を「ほれ」と誘うように手招く。
彼も拳銃を持っている。と、僕も当たり前のように右手に拳銃を握っていた。
僕はゆっくりと近付き、左手を握り締める。と同時に、強く引き上げられた。
「よっと。あ、俺は朽木隆弘ってんだ。よろしく」
「あ、僕は……」
と、死体の山の向こうには、何人かの男女の姿が見えた。
「ん?あぁ、あいつらはあんたと同じだよ」
「同じ?」
ふふん、と朽木は鼻で笑う。不思議と嫌な感じはしなかった。
「あんたと同じで、まだ目覚めたばっかで、何もわかってない……って、感じかな?」
目覚め?
「ま、自己紹介は後にしようぜ。どっちにしろ、生き残れるかは分かんないんだし。って、死んでて、生き残るも何も無いけどな」
くくく、と喉の奥で朽木は笑う。
「ちょ、ちょっと待て。何を言ってるんだ?」
「詳しくは、すぐに説明をする。だから、あんたに言えるのは」
朽木は下の男女に目を向けたまま、呟くように言う。
「地獄の最下層に、ようこそ」
そして、朽木は言うと同時に死体の山を滑るように駆け下りて行く。
僕は一人、その言葉を反芻していた。
「地獄の……最下層?」
ここは……地下駐車場のようだった。
コンクリートの床に施されたペイントから駐車場なのは間違いなかった。ただ、ここが地下なのかどうかだ。
朽木は、唯一確認出来る出入り口である両開きのドアの前に立つ。
僕は一番後ろで、朽木の演説にも似た説明を聞く。
「あー…・・・最初に言っておくが、質問は一切受け付けない。受け付けない理由は、『これ』が終わったら理解しているから安心してくれ」
説明を聞きながら、そこに集まった人間の様子を見る。
皆、若い。制服は二種類だった。男女のそれではなく、学生服とセーラー服。それにブレザーという意味でだ。
学生服の連中の方がやや若く、中学生くらいだろうか。ブレザーは、それよりやや年上で高校生だろう。
男子が九人。女子が十三人。それぞれの仕草で不安を隠している。
僕はブレザーを着ていた。自分の顔……不思議と思い出せないが、多分ここの連中と同じで酷い顔をしているんだろうな。
襟元に指を入れ、ネクタイを緩める。死体の臭いで息が詰まりそうだった。
「……で、細かい説明は無いが、ここだけは忘れないでくれ。ここは地下の一階で、ここからの出口は全て封鎖されている。だから、この建物からの脱出は、個々人の判断に任せる」
「え?一階が封鎖されているんじゃ出口は」
「そして、後数分で午前零時になる。零時と同時に、この俺の背後のドアは開かれる。と同時に後ろのヤツが動き出す」
後ろの?って、後ろには死体しか無いじゃないか。
「もう一度だけ言うぞ。後ろの死体が、一匹残らず、動き出す」
死体、が動き出す?
「そう、ゾンビだ」
「ば、馬っ鹿じゃねえの?ゾンビなんているわけねえじゃん」
最前列の茶髪の男が焦りながら早口に言う。
「まだ零時には数分あるだろう。後ろの死体の脳を破壊すればゾンビ化はしない。残り時間ギリギリまで数を減らすのもいいだろう」
「手前ェ、無視するんじゃ――っ」
一瞬だった。朽木は一瞬で茶髪の頭を撃ち抜いていた。
そして、男女の悲鳴と共に後ろに逃げ出そうとする。
「それぞれが持つ拳銃は弾倉の種類が違う。収められている弾倉は必ず最後まで使い切るんだ」
後ろに向かって来る男女を避けながら、悲鳴の中で僕は朽木の言葉を聞こうとする。
「弾丸を全て使い切り、スライドが戻っているのを確認し」
言いながら朽木は倒れている茶髪に弾を全て使い切る。
「弾倉を捨てる。そして、新しい弾倉を、男子ならベルトの左側にあるボックス、女子はスカートの左脇にあるはずだ。そこの中から新しい弾倉を出し、普通にセットすればいい」
そして、朽木は弾倉を拳銃にセットする。と同時にスライドが戻り、一発目の銃弾がチェンバーに送り込まれる。
「弾倉は拾わなくてもいい。弾丸を最後まで使い切れば、自然と元に戻される。……って、誰も聞いてないか」
誰も彼も死体を踏み付けて、奥へと逃げ出していた。
呆れたように、誰も居なくなったドアの前で、朽木は拳銃で肩を叩いている。
「あんたは逃げなかったんだな」
「え?あ、あぁ……あんたの説明の途中だったからな」
僕は背後に消えた男女の姿を振り返る。が、覗いて様子を見るどころか、どこにも姿が見えず。少なくとも目に見える範囲にはいないようだった。
「ところで……一つ、質問いいかい?」
「ん?」
座り込んで犬の相手をしている朽木に僕は尋ねる。
「弾倉は拾わなくってもいいって?」
「あぁ、ここに自然と戻るんだよ」
朽木は脇のボックスの中を僕に見せてくる。
「だが、忘れるなよ。ボックスに戻るのは『全ての銃弾を使った』ときだけだからな。一発でも残っていたらボックスの中は補充されない」
ボックスの中は一つだけ弾倉があり、さっき朽木が撃ち終えた弾倉はいつの間にか消えていた。
カキッ
と、小さな音が響き、両開きのドアが微かに開く。
「……時間だな。行くぞっ!」
「え?でも、皆は?」
僕はまだ誰の姿も見えない死体の山を見る。
いや、誰か居る。誰かが戻って、来、た?
「あいつらはもう駄目だ。諦めろ。もう遅い。走れ」
もう駄目?何を言ってるんだ?だって、まだ誰も来てないじゃないか。ほら、あそこの……あそこの?
それは奇妙な出来事だった。死体の山の中腹が不意に膨れ上がったのだ。
ぷっ、何であんなとこに隠れてるんだよ。馬鹿だな。死体の中に隠れ、
「何やってんだっ!!早くするんだ。奥に逃げたヤツは助からない。あいつらの事は諦めろ。急げ!!走れ!走るんだ!!!」
戻って来た朽木に引き摺られるように追い立てられる。
そして、広い部屋のそこかしこから叫び声のような悲鳴が聞こえて来た。
「やめてやめて食べないで」「ちょっと待て。何だよこりゃげばばばばば」「助けて!やだよお母さん」「くそッ何だよ。何で」「来るな!来るな!来るな」「撃つぞ。止まれ、止まらないと撃つぞ」「いやぁぁあああああっ!!!!」
無数の銃声が悲鳴と共に飛び交う。それは阿鼻叫喚の地獄のような有様だった。
誰かが肩を押している。倒れそうになりながら、必死に足を動かす。
「だから、言ったろう。地獄の最下層にようこそってな」
本当に、ここは……地獄なのか?
「とにかく急げよ。ヤツらゾンビは速くはないが、疲れる事も無いからな。ちゃんと考えて動かないと、必ず追い付かれる」
僕は死んだのか?死んで、地獄に落ちたのか?
何で、こんな場所に居るんだ?
目に涙が浮かび、視界がぼやける。そのぼやけた視界の向こうで……犬のコーギーが「こっちだ」と言うように吠えていた。
「とにかく……生き延びるぞ」
朽木が僕の肩を引っ張りながら叫ぶ。
「ま、死んでるけどな」
どっちだよ。
彼の笑顔を見ながら僕はそれでも生き残る為に、力の抜けた足を踏み出す。
「どっちだっ!どっちに行けばいい!?」
「こっちだ。コーギーが案内してくれる。あの犬の後を追えっ!!!」
細い通路を抜け、犬のコーギーの姿を追い、階段を駆け上る。踊り場で案内板を走りながら見ると、やはり最初の部屋は地下駐車場だった。
一階に出る。階上への道は無数の机や機材で塞がれていた。
「何だ、これ?……バリケー、ド?」
呆然とする僕の耳に階下の音が微かに聞こえて来た。
無数の衣擦れの音。無言の行進。いや、違う。微かな呻き声が聞こえる。それが徐々に近付いている。
ゆっくりと下の階段を振り返る。
呻き声だけ?
悲鳴も銃声も、もう聞こえなかった。
喰われたのか?あそこにいた二十人以上の人間がゾンビに喰わ――不意に襲った嘔吐に僕は耐えれずに胃の中の物を全て吐き出す。
その場で膝を着き、何度も何度も吐き続ける。
「あーもう何やってんだよ。こっちだ。早くしろよ」
強引に肩を掴まれ、無理やり歩かされる。コーギーが急かすように二度吠えた。
もう嫌だった。走りたくなかった。それでもゾンビに喰われるのだけは嫌だった。
あんな風に彷徨い、人を喰らう化け物にはなりたくなかった。
吐瀉物で汚れた口元を左手で拭い、必死に足に力を込める。
何度も縺れながら、必死に足を動かす。
不意に狭い通路を抜け、ただ広い部屋に出る。椅子は撤去されているが、それは……病院の受付のようだった。