scene-10
 
 
 そして、深夜のファミレスの前で僕は呆然としていた。
「さ、ここが24時間営業のファミリーレストラン『Valentino』です」
 誇らしげに藤堂は振り返る。振り返り、両手を広げる。と、自動ドアが藤堂に反応し、静かに開いた。
「いや、ちょっと待てよ」
 店に入る藤堂を追い、僕も店内に入る。入店を知らせるチャイム音が軽やかに鳴る。
「いらっしゃいませ〜。お二人様ですか?」
 ウェイトレスさんがにこやかに微笑み、迎えてくれる……のを頬を引き攣らせて僕は見る。何を考えてやがるんだ、藤堂は。
「ええ、お二人様ですよ」
「お煙草はお吸いになられますか?」
「いえ、吸いません。ですよね?」
 と僕に顔を向け、藤堂は聞いてくる。
「あ、あぁ」
 僕が曖昧に頷くのを見て、藤堂はウェイトレスさんに向き直る。
「お吸いになられないそうですよ」
「はい。では、こちらにどうぞ〜」
 ウェイトレスさんに案内され、楽しげに歩を進めていく藤堂を僕は信じられないようなものを見る目で見ていた。
 そして、僕は気付く。気付いてしまう。現在を生きてきた僕らにしてみれば当たり前だが、ここではそうじゃない事に。
 これは……あり得ない現象だった。いや、事象か?
 案内された窓際の席に藤堂は腰を落ち着け、優雅にメニューを開いている。
 店内の客の数はそんなに多くはない。多くはないが、間違いなく居る。深夜という時間に出島の中で人が活動している。
 僕は慌てて、藤堂の座るテーブルに両手を着く。叩き付けそうになるのを必死に抑え、両手をテーブルに置き、藤堂に喰い付く。
「どうなってる?」
「何がです?」
 キョトンとした顔で僕を見上げてくる。が、そんな腹芸に付き合っている余裕は僕には無かった。
「ふざけんなっ!深夜に人が活動しているなんて今まで無かったはずだ。いったい、何が、どうなってやがるんだっ!?」
「落ち着いて下さい。それより……座ったらどうですか?ウェイトレスさんの邪魔になってますよ?」
 藤堂に後ろを指差され、振り返ると、ウェイトレスさんがお水とおしぼりを持っておろおろしていた。
「……あ、ごめん」
 変に思われても困るので、僕はにこやかに微笑む。いや、ほんと、この時間に風紀委員とか呼ばれたら言い訳出来ないからな。
 と、思ってたのに……僕の笑顔にウェイトレスさんはビクッと怯える。いや、そんなに怖がらなくてもいいじゃん。
「ご、ご注文はお決ま……お決まりで、しょうか?」
 マニュアル通りに接客しようと必死なのだろう。出来れば速くこのテーブルから離れたいのが伝わってくる。お水を置く手がめっちゃ震えてるしな。
「まだ決まっていないのですよ。後で注文をしてもいいですか?」
 泣き出しそうなウェイトレスさんに藤堂は優しく話し掛ける。
「では、お決まりになったら、そちらのボタンでお呼び下さい」
 了解のつもりなのだろう。藤堂は軽く頭を下げ、早足で逃げ去るウェイトレスさんを見送り……楽しげに僕を向き直る。
「駄目ですよ、あんな無垢なお嬢さんを怯えさせては。……変態ですか?」
「手前ェにだけは言われたくない言葉だよな、それって」
 そうですか?と藤堂は置かれた水を手に取る。
「で、どうですか?」
「あぁ、こりゃマジでビビッたぜ。こいつぁ……ファミレスじゃねえか。しかも、初期型のファミレスだ。懐かしいってか、珍しいって感じだけどな」
 僕は店内を見返し、素直に感想を言う。
「そう。これが先週の日曜に開店した24時間営業のファミリーレストラン『Valentino』なのです。24時間、24時間ですよ?真夜中の零時に客は来るのか?それも気になるところですが、それよりも驚きなのが……これです」
 藤堂は僕の方に向け、メニューを開く。
「これは……イタリア料理でいいのでしょうか?そんな高級料理をこんな値段で出して、採算は取れるのですか?しかも、ここ……」
 メニューをパラパラと捲り、最後のページを開き、ある一点を指差す。
「ドリンクバーが120円で飲み放題となっています。それにここも……このティラミスなるケーキは230円と御買い得な値段が表示されています。それに……」
 と、藤堂は店内に隙のない目を向ける。
「あのサラダバーは220円で取り放題なのですよ。こんな事が……あり得ますか?」
「いや、そんなに大袈裟に考えるなよ。例えば……ティラミスでも何でもケーキ類を頼むだろ?」
 僕は藤堂にメニューを向け、説明を始める。
「頼んだら、飲み物も頼むよな?」
「まぁ、そうでしょうね」
「僕やお前ならドリンクバーで十分だけど、若い女の客だと考えたらどうだ?何か別の物を頼むんじゃないか?」
 例えば、と僕はメニューの上で指を滑らせる。
「これ、アプリコットとリンゴの紅茶ってのを頼んだら……どうなる?」
 僕は380円のソフトドリンクを指差す。
「いえ、紅茶ならドリンクバーのティーバッグの物があるじゃないですか?そちらの方が遥かに安い――」
「だから、若い女の子が財布の中身を考えて注文ですると思うのかよ」
 それに、と僕は続ける。
「初期のファミレスって言うほど安くないんだよね。ま、自炊ほどって意味だけど」
 単品での値段とセットの値段、それにライスやサラダをセットで頼んだ場合の値段を説明してやる。スープやドリンクのセットだった場合もだ。
 お買い得に見えるのは……単品の値段で考えるからだ。結局、帰り際に安くない金額を請求される事になる。
「し、しかし……深夜にも営業しているのですよ。どこかで利益を求めないと営業が成り立たないでしょう?」
「安くないとは言ったけど、高いとは言ってないだろう。実際にこの雰囲気が好きなヤツもいるだろうし、学生の間でも人気出るんじゃないか?」
 必死でファミレスを弁護する藤堂が面白く僕はそう言ってやる。いや、本当にこの雰囲気は懐かしいような気がする。
「で、何を注文するんだ?」
「私はこのティラミスという物を頼んでみようと思います。何かこう、食べずにはいられないオーラのような物を感じます。それに……このカフェ・ラッテとは何ですか?」
カフェラッテならドリンクバーにある……あれ?無いのか???」
 後で知ったことだが、ドリンクバーでのコーヒーの種類が豊富になるのはもう少し時代が進む必要があるそうだ。
「あー、カフェラッテってのは泡立てたミルクが入ったコーヒーだ……ったと思う」
 何かまだ特徴があったはずだけど、思い出せなかった。
「あなたは何を?」
「ん〜と……このポテトいっぱいのハンバーガーにするかな?それとドリンクバーで」
「また濃い物を……。自分で払って下さいよ」
 その一言で僕は大事な事を思い出す。僕は財布を持っていなかった。
「セコイ事言うなよ。それにお前が先に入ったんだぞ。普通は財布の都合も聞かず店に入るか?っていうか、僕は一円も持ってないしな」
「自慢げに無一文を宣言されても困るのですが?」
 僕はソファタイプの椅子の背に凭れ、店内を見回す。あぁ、あったな、この宗教画みたいな内装。なんでイタリアンが宗教画なのか?それは永遠に解かれない謎なのかも知れなかった。
「ってか、ちょっと待て。そうだ。何でファミレスに入ってるんだよ」
「は?」
「は、じゃねえよ。例の無刀取りの古武術とやらの修行に行くんじゃないのか?」
 何を言ってるんですか?と藤堂はウェイトレスさんを呼び出すボタンを押す。
「こんな時間に行く訳がないでしょう。それより、あなたは目立ち過ぎですよ、さっきから。ちょっと落ち着いて下さい。と言うより、注文を頼むので、その間は無言でお願いします」
 むっとしたが、言われてみれば、ちょっと騒がしかったかも知れない。マジで風紀委員は勘弁して欲しいので、ここは静かにしていよう。
「御注文は御決まりですか?」
 と、心に誓ったのに……屈強な筋肉達磨が注文を聞きに来やがった。一挙手一投足が筋肉を誇示しているようなタイプだ。
 藤堂はにこやかに注文を終え、ウェイターは立ち去る。それを首を後ろに回して見送り……
「勿論、筋肉達磨であろうと美少女に脳内変換が可能なのです。しかし、北欧系の美少女とは珍しいです」
 と、堂々と藤堂は宣言をした。って、知らんし。
 やっぱどっかで隔離した方がいいんじゃねえか?こいつ。
「しかし、古武術のとこに行くんじゃなかったら、何で夜中に僕を呼びに来たんだよ?」
 勿論、とグラスを手に藤堂はキメ顔で僕を見る。
ファミリーレストラン『Valentino』の開店を自慢する為ですよ」
 本気で頭痛がしそうだった。
「しかし……この時間に開いてるのに、純喫茶とは意外ですね」
「注文が終わったんだからメニューを置けよ。マナー違反だぞってか、行儀が悪いぞ。……ん?純喫茶???」
 純喫茶って単語は聞き覚えがあるが、よく考えたら、その意味を僕は知らなかった。
「メニューを開けて見れるのは注文するまでなのですか?ふむ、そんなマナーがあったと」
「おい、待て。純喫茶って何だ?」
 はい?と藤堂は顔を上げる。
「純喫茶は……純喫茶ですよ。何を言ってるんですか?」
「いや、じゃなくて……僕が居た時代は『喫茶店』ってのはあったけど、純喫茶ってのは見た憶えがないんだよ」
 藤堂はテーブルに肘を置いた手で口元を隠しながら考える。
「そんな筈は無いでしょう。純喫茶ならどこにでも余裕であるでしょう。いや、待って下さい。あなたが来た時代、平成でしたか?」
「あぁ、生まれは昭和の終わりだけどな」
「つまり……平成時代には、純喫茶と言う単語は死語だったと?」
 死語と言われて僕は物怖じをする。死語って言うのは大袈裟なんじゃないのか?と思ったのだ。
「死語とはっきり定義されてたか知らないけど……ほとんど聞いた事が無いぞ」
「純喫茶とは、アルコール類を扱わず、ホステスなどの個別接客も無い店を言うのです」
 それって、と僕はほんの少し首を傾げる。
「普通の喫茶店じゃないのか?」
「そうなりますね。純喫茶が喫茶店と認識されたんでしょうね。それじゃ、アルコール類を置く店は?」
 藤堂が訊いてくる。
「スナックやクラブ、バーになるのかな?」
「また倶楽部とはハイカラな言葉が出て来ましたね」
 僕の言ってるクラブとこいつの言ってる倶楽部は別物だろうと思ったけど、面倒臭いので曖昧に笑って誤魔化した。
 と、言ってる間に注文の品が揃う。
「さ、頂きましょうか。おぉ、これは美味しそうですね」
「じゃ、僕はドリンクバーに行って来るよ」
 僕は眠気覚ましにコーヒーを入れる。ってか、ドリップ式のサーバーがそのまんまで置いてあるぞ。
 これが機械式に変わるんだよな、時代の流れって凄いと思う。ほんとに関心す、あれ?
 コーヒーを入れて振り返ったら、僕らの席に風紀委員がしっかり立っていた。僕は反射的にドリンクバーのコーナーに向き直る。
「チクショウ。どうしてバレたんだ?」
「我々を出し抜こうなんて考えが甘いのだよ?」
 いつの間にか横に来ていたドSっぽい風紀委員が僕に囁く。くそっ、マジでどうしてバレたんだよ?
 まだ騒ぎにはなっていないが、それも時間の問題のようだった。深夜の捕り物が騒ぎにならないはずがない。
 大人しく投降してもパトカー代わりの装甲車を呼ばれたら嫌でも目立つからな。
「……いつ気付きやがった?」
 ふふん、と鼻で笑い風紀委員は言う。
「何、大袈裟に言うほどの事ではないよ。まぁ、偶然みたいなものさ。詰所からの帰りに、ちょっと見知った顔が窓際の席に座っていてね」
 風紀委員は得意げに言うが、それはみたいじゃなくて全くの偶然じゃないかっ!
 思いっ切りツッコミを入れたかったが、しかし、ここで騒ぎになるのは成るだけ避けたかった。
 僕はこの一ヶ月で、出島の中での出来事はすぐに噂になる事を知っていた。いや、噂になると実感していた。我が身で体感していた。
 入院先から深夜に抜け出し、夜遊びをしていて風紀委員に捕まる……なんて事は絶対に避けたかった。
 ってか、この噂が明日の朝には町中に広まっている自信があった。
 明日の朝には、夏実さんが見舞いに来るんだぞ。ってか、泣くぞ。夏実さんは絶対に泣くぞ。チクショウ、至近距離で泣かれたらどうすればいんだよ。
「いい加減、席に戻ったらどうだね?コーヒーが冷めてしまうよ?」
 愛用の乗馬用の鞭を撓らせ、楽しげにドSっぽい風紀委員は言う。
 そういや……こいつらの制服も変わったんだよな。
 ショートカットの髪は以前のままだけど、濃いベージュのジャケットとワイシャツにネクタイ、チェックのミニスカ、それに袖の腕章が風紀委員の制服一式である。
 ちなみに、靴は茶色のローファーで靴下は各自の自由になっているようだった。
 ドSっぽいこいつは白のオーバーにーソックスを履いている。くそっ、絶対領域が目の毒だぜ。
 僕は他の風紀委員の靴下も確認する。白の普通のソックスが一人と黒のハイソックスが一人だった。
 言っておくが、僕は彼女達の足に興味がある訳ではない。勿論、靴下にも興味がある訳じゃない。僕はあくまで、風紀委員を区別する為に、差異のある靴下で判別しただけである。……嘘じゃないぞ。
 二人の風紀委員が藤堂の向かいの席に座るのを見て、僕もテーブルに戻る。すぐに連行されるのではないと判断したからだ。
 僕は無言で藤堂の横に自分のコーヒーを置き、席に着く。自分のハンバーガーを向かいに席から引き寄せる。
 そのハンバーガーの皿からポテトを一本引き抜き、ドSっぽい風紀委員が藤堂に向かって言う。
「さて、この時間に出歩いているのだ。勿論、それなりに理由があっての事なのだろう。さて……どんな言い訳をしてくれるのかな?」
 言い訳って決め付けてるのかよっ!ちゃんとした理由があるとは考え――
「ずるっ!」
「ずるいずるいずるい」
 へ?
 見ると、風紀委員たちはどうやらドSがポテトを取った事を言ってるらしく、
「欲しければ、貴様達も取るといい」
 と言われ、大喜びで僕の皿に手を伸ばして来た。
「いやいやいやいや、これは僕のだか……こらっ!お前、さっき取ったじゃんか。それで二本目だぞ」
「もし、よろしければ……」
 と、にこやかに藤堂がテーブルに両肘を着き、口を開く。ってか、口元を隠しながら喋るなよ。
「貴女方も御好きな物を注文されてはどうですか?勿論、御代は私持ちにさせて貰いますよ」
 風紀委員達はドSの方を向き、ドSは藤堂と向き合う。
「これは……収賄かね?」
「まさか。収賄ならそれなりの手段を用い、証拠を残さずに金額もそれ相応の物を用意しますよ」
 と藤堂は嘯く。
「私はただ……」
「ただ?」
 ドSの周りで無言の圧力が高まる。騒いでいた風紀委員たちも凍り付いたように動かない。
「美しいお嬢さん達と一緒にお茶を楽しみたいだけですよ?」
 限界まで引き絞られた弓のような緊張感の中、不意に「ふんっ」とドSっぽい風紀委員は鼻で笑う。
「では、美しい私達はお前に奢られてやろうではないか。お前達、好きな物を注文してやれ。……出来るだけ高い物を注文してやるがいい」
「そこは御手柔らかに……」
 知るか、とドSは薄い笑みを浮かべる。楽しそうに、嬉しそうに、笑顔を見せる。
 そして、その笑顔を見た僕は思う。
 こいつらも徐々に変わっているのか?と考える。
 獄卒と聞いたときに感じた強いモノは以前ほど感じなくなっていた。いや、怖いのは怖いが……何て言うか、以前とは何かが違っていた。
「何も変わっていませんよ」
 不意に藤堂が口を開き、僕は飲み掛けのコーヒーを噴出しそうになる。
「ぼ、僕は何も言ってないぞ」
「勿論、仰ってはいません。が、言葉にしなくてもあなたが考えている事など御見通しですよ。彼女達は何も変わっていません。変わったと感じるのなら、それは時代が変わったのでしょう」
「いや、それを言うなら「変わったのは貴方でしょう」だろ?」
 普通はそうだよな?
「あなたは変わっていると自覚しているのですか?」
 藤堂の嫌らしい物言いに僕は視線を外す。外し、目の前のハンバーガーを見る。
「知らねえよ」
 答えながら、僕はハンバーガーを手に持ち……齧り付く。
 あ、美味しいじゃん。
 
 
 風紀委員達は三人は、アフターヌーン・ティーのセットを頼んでいた。ちなみにアフターヌーン・ティーのセットは最低三人での注文ってシバリがあった。
 また逆に言うと、最低人数の三人で頼むと一人当たりの値段がお高くなってしまうという特徴があった。
 しかし、深夜のアフターヌーン・ティーってのは何か間違っていると思う。
 ってか、Afternoon teaってのはイギリスの習慣じゃなかったっけ?
 ファミレスとはいえ、一応はイタリアンの店で出す物じゃないだろう。しかも、ケーキ・スコーン・サンドイッチ・アイスクリーム・フルーツ、などなど……それを三人前以上である。
 藤堂の財布の方も相当な痛手のはずだ。
「ごちそうさまでした〜」
「ありがとうございました」
 口々に礼を言う風紀委員に、にこやかに微笑む藤堂だった。ぶっちゃけ、一人辺り2300円以上も食べやがったぞ、あいつら。藤堂の顔が引き攣っていないのが不思議くらいだった。
「今日は馳走になったな。が、風紀に関しては手心を加えるつもりはないぞ」
 ぽっこりしたお腹を擦りつつ、ドSっぽい風紀委員が言う。が、説得力ねえな、おい。
「腹、壊すなよ。ってか、最後のフルーツはほんとに無茶だったんじゃねえの?」
「う、うるさいっ!!あそこまで来たら普通は食べるだろっ!そ、それに食べ物を粗末にしたらいけないんだぞ。残すなんて罰当たりな真似が出来るかっ!!」
「いや、普通に僕や藤堂が手伝うし」
「それこそいらぬお世話だ。我々は出された物は残さずに食べる主義なのだ」
 そうかい、と僕は呆れる。呆れ、ぽっこりしたお腹を見る。……妊娠五ヶ月くらいかな?
「な、なんだ、その生暖かい目はっ!見るなっ!!そんな目で私を見るなぁぁぁああ!!!」
 騒ぎながらドSっぽい風紀委員は僕らに背を向けて走り去る。
 残り二人も僕らにお辞儀をし、ドSを追い掛けて行った。
 何なんだよ、あいつらは。
「行きましたか」
「あぁ、無事に行ったな」
 と、僕らは心底安心する。
「実はこの間から風紀委員に御世話になってて……春日君に睨まれているのですよ」
「聞いてないぞ、それって……まさか、非公式にか?」
 そう、と爺のように藤堂は腰を叩く。
「仕事仕事と……彼女の要求は御爺ちゃんには厳しいのじゃよ」
 ま、確かにあの生徒会副会長は、ある意味……獄卒である風紀委員以上に鬼っぽいからな。
「で、何をやらかしたんだ、お爺ちゃんよ」
 藤堂は意味も無く夜空を眺めてる。並んで僕も夜空に目を向ける。
「学園に官能小説を持ち込んでいたのを風紀委員に見咎められなすて、ちょっと……ややこしい事になって。ま、正直に言うと、生徒会室を家宅捜索されましてね」
「ちょっとじゃねえだろっ!!!」
 どんな生徒会長だよ。
「そう言えば、今工事中の看板が出ているのですが……」
 夜空を見上げながら、藤堂が思い出したように訊く。ってか、露骨に話を逸らしてきた。
「オージス24とは何ですか?」
 また随分と懐かしい名前を聞いたな。逸らされた話に食いつくのは癪だけど、その話題になら乗ってやってもいい。
 雲の隙間に見える星座を見ながら、僕はぽつぽつと話をする。
「オージスってのはコンビニだよ」
「コンビニ?」
 不思議そうに藤堂は首を傾げ、僕の方を見る。
「そう、コンビニ。コンビニエンスストア。24時間営業の小売店だよ。フランチャイズの店が多いんだっけ」
「深夜スーパーみたいな物ですか?」
 これもまた懐かしい言葉だな。でも、ちょっと微妙に違うんだよな。
「スーパーより規模は小さいかな。っても、雑誌とか菓子とか文具とか……下着もあったか。ま、何でも売ってるはずだからあると便利だぜ」
「規模はスーパーよりも小さいと言いながら、その品揃えはスーパーよりも豊富な気がするのですが?」
「どうだろうな。品揃えはあるけど選択肢は無い、かな?商品のバリエーションが少ないから選ぶってのがほとんど出来ないんだよ」
 ふむ、と藤堂は何かを考えるように顎を擦る。
「しかし、ワンコか。……懐かしいな」
「ワンコ?」
「ワン・コイン・ホット・フードだっけ?串になってる唐揚げとかアメリカンドッグが一つ100円なんだよ。ワン・コインでお好きな物をってな。だから、略してワンコ」
 しかし、昭和の終わりに時代が設定されてるって聞いたけど、ファミレスにコンビニが出てくるとはね。
 ここも一つの時代に固定されてる訳じゃないのか。って、そういや藤堂は300年近くここにいるって言ってたよな。
「なぁ、藤堂」
「はい。何か?」
 振り返った藤堂の静かな目を見て、僕は言葉を詰まらせる。300年を生きる気分はどうだ?と聞きたかったのだが、それを聞くのはあまりに無神経な気がした。
 僕は藤堂から目を離し、さっきまで見ていた夜空を見上げる。
「いい……月だな」
「そうですか?下限の月で雲も多いし……あまり、良い月とは言えないと思うのですが?」
 あぁ、僕も自分で言ってから気付いたよ。けど、そこは気を利かせて話を合わせてもいいんじゃないのか?ってか、こいつに一瞬でも遠慮した自分が嫌になるわ。
「ってか、300年も生きるってのは……どんな気分なんだよ」
「変わりませんよ、何も」
 藤堂は躊躇わずに答えていた。
「何も……変わってはいないですよ。人よりは多少、出会いや別れがあったにせよ……それで私の本質が変わる訳ではありませんし」
 藤堂は月を眺めて静かに言う。
「何も変わらない、がその問いに対する返事ですね。でも、」
 ん?と僕は藤堂を見る。
「この曇り空を良い月とは……。本当に理解し難い趣味を御持ちだ。正直、マニアック過ぎます」
「悪かったな。ってか、適当に言っただけだよ。もう月の話はいいじゃねえか!」
 仕方が無い人ですね、と藤堂は溜息混じりに言い、歩き出す。
「私が風紀委員に保護されたのも、こんな月の夜でしたよ」
 別れの挨拶のように手を振り、藤堂は続ける。
「何日も彷徨った挙句、私はこの出島に辿り着いた。そこがどういった場所なのかも知らず、そこがどこなのかも知らずに、ね。無事に……辿り着いたのです。それは単なる偶然なのか、主の御導きなのか」
 もっとも、と藤堂は振り返る。
「ここに堕とされた日から、私の神は死んでいますがね」
「いや、ちょっと待て」
 僕はその言葉に対して異を唱える。
「お前は300年前にここに堕ちて来たって言ってたよな。江戸時代の終わりに」
「そうですよ」
 薄い笑みを浮かべ、藤堂は僕の言葉を待つ。
「江戸時代の終わりなら、まだキリスト教は禁止されてはずだろ。宗派はどこにせよ、お前は仏教徒のはずだ。それとも何か……お前の言う神は八百万の神々か?」
「まさか、私の言う神は……主、イエス・キリストですよ」
「だったら、時代が合わないじゃないか。何で江戸時代の終わ――」
 まさか、と思い僕は言葉を詰まらせる。
隠れキリシタン、ですよ」
 御想像通りにね、と藤堂は呟く。
「十二代目天草四郎と生前は呼ばれていました」
 は?と僕は目を点にする。隠れキリシタンは想像したけど、十二代目……天草四郎???
「生まれた時から救世主として育てられたのですよ。救世主として、幕藩を転覆し、日ノ本をキリスト教国家に導くよう教育されて来たのです」
 御笑い種ですよ、と藤堂は言う。
「何がキリスト教国家ですか。知っていますか?私が育てられた所にあった国旗ですが、」
 くくく……と本当に藤堂は笑う。
「白地に赤の十字ですよ。本当にどこの医療機関かと言いたくなりますよ」
 宗教国家だと?藤堂の徐々に話は大きくなって行く。ってか、胡散臭くなって行く。
「……それ、嘘だよな?」
 静かに目を閉じ……藤堂は笑みを深くする。
「どこで気付きました?」
「十二代目天草四郎辺りだな。ってか、十二代目ってあれだろ、最初に出会った……あの自己紹介のときのヤツだろ。いつから用意してるんだよ、このギャグ」
 呆れながら僕は言う。
「ふむ。ちょっと時間を置き過ぎましたか」
「ちょっとじゃねえだろっ!」
 ほんとに、何を考えて生きてるんだか。ってか、もう死んでるけど。
「まぁ、こんな冗談もたまには良いじゃないですか。そう、こんな良い月の夜には、ね」
「いい月って、しつけえよ」
 高らかに笑う藤堂の後ろを歩きながら僕は思っていた。
 そういや、こいつのこんな笑い声を聞いたのは初めてだよな?
 
 
 呆然と、僕はその建物を見上げた。見上げるしか出来なかった。
「これはこれは」
 藤堂が楽しげな声を上げて微笑んでいる。が、僕には暢気に笑っている余裕なんかなかった。
「どういう事だよ?」
「と、言いますと?」
 薄い笑みを浮かべ、藤堂は振り返るが……僕はその襟首を掴んで叫んでいた。小声で叫び、その建物を指差していた。
「何で古式豊かなサナトリウム風の療養所が、鉄筋五階建ての総合病院になっているんだよ!?」
「改竄、と推進ですね。歴史が推し進められたのです」
 歴史が……推し、進められる?
ファミリーレストランコンビニエンスストアの存在で気付くべきでしたね」
 藤堂は僕の手を逃れ、乱れた服装を直す。
「町が時代を切り替えたのですよ。通常は工事等で改変は進められるのですが、極稀にこのように強引な変換が行われる場合もあります」
「いや、強引過ぎるだろ?普通に騒ぎにな」
「騒ぎにはなりませんよ。ヒトガタは改竄に気付かず、我々は変換をそうと受け入れますから」
 気付かないっても、いくら何でも不自然過ぎるだろ?
「さて、それよりも問題があります」
 鉄筋五階建ての病院を見上げ、藤堂が言う。
「どうやって忍び込むのか、です」
「忍び込む?」
 ええ、と藤堂は呟く。
「行きは窓から出る事が出来ましたが……どうやって戻ります?」
「いや、出て来た窓が……ってどこだ?」
 僕が忍び出た病室は南側だったけど、今は南側のどの窓なのか分からなかった。単純に窓の数だけで、10倍近く増えている。
「出て来た窓は鍵はされていない筈なのです。改変でもそこまでは変えられない。だが、しかし……その窓がどこなのか?」
「この南側の窓なのは間違いないのか?」
「それ……も微妙な所ですね。窓側に部屋があるのなら、変わらずに開いている筈ですが」
 普通の病院は病室とかは窓側だったはずだよな。でも、目印も無しに部屋を探すなんて無理だろう。  
「夜間通用口は?」
 窓が無理なら他の出入り口を探すしかない。
「風紀委員に見付からずに抜けれますか?」
 僕は首を振り、もう一度考える。
「やっぱ適当な窓から侵入するか?」
「そこが御婦人の病室だったら?妙齢の女性の一人部屋だったら?あなた、問答無用で警察行きですよ。と言うより、風紀委員に通報されます。あ、いや……」
 藤堂が何かに気付いたように顔を伏せる。
「何か方法が?」
「病室に戻る必要があるのは、貴方だけなのですよ。だったら、私は……貴方を見捨てて帰っても問題は無い筈です」
「……ぶっ殺すぞ、手前」
 いやマジで、じんわりと殺意が芽生えたぞ。
「冗談です」
 しかし、と藤堂はまた病室の窓を見上げる。
「こう言うのはどうでしょう。明日の朝に何食わぬ顔で戻るという寸法は?」
「夜間の見回りがあるだろう。それで居ないのがバレたらどうするんだよ。夜間の一回くらいなら夜の散歩とか言って誤魔化せるだろうけど、明け方まで居なかったらさすがにヤバイだろ」
「開き直って……宿直室から入れて貰うというのは?」
「夜這いと間違われたら終わりだな」
「ですが、間違われなければ……問題は無いでしょう?」
 僕は顎を指で擦り、考えを巡らす。
「看護婦さんが風紀委員に通報する可能性は?」
「その可能性は十分にあります。ですが、通報せずに中に入れて貰える可能性もあります」
「夜と明け方の二回とも姿が見えないと、やっぱ騒ぎになるのかな?」
「夜間の十二時の見回りは終わってから出たので……次は見回りは三時でしょうか。今ならまだ誰にも気付かれずに戻れるはずです」
 その誰にもを、一人ないし二人にして騒ぎを回避する……か。
「やっぱ、後で差し入れとかした方がいいんだろうなぁ」
「まぁ、何もしないよりは良いんじゃないでしょうか」
「金……半分でもいいから出せよ」
「善処しましょう」
 というわけで、僕は宿直室を探して病院の周りを一周する事にした。
 そして、あっさりと……多分、宿直室だろうという部屋は見つける事が出来た。
 夜間通用口の右側の部屋が夜間外来の宿直室になっていた。
 各階にはナースステーションがあるだろうけど、それとは別に救急の患者が来た場合の人員が用意されていたのだ。
 簡易的な休憩室で机と椅子が二つ、部屋の奥には診察用と同じベッドが二つ置いてあった。
 二つの椅子には看護婦さんが座っていた。暇そうに雑誌を見ている。ってか、二人で無言で雑誌を見ているのって、ちょっと怖いな。
 仲が良くないとかじゃないよな?ま、二人とも起きててくれて助かった。これで夜這いと間違われる心配は無くなったわけだ。
 宿直室(でいいのか?)の窓の下に行くと僕は壁を背に、ゆっくりと手を上げ……コンコン、と小さくノックする。
 ふと横を見ると、藤堂がしゃがんだ姿勢のままダッシュで逃げていた。
「っ!!」
 あの野郎、裏切りやがったっ!僕だけで、この状況をどうしろってんだよ!??
「あれ?」
「何だろ?」
 変な音したよね?と看護婦さんは窓に寄る。
 チクショウ、もう逃げれないじゃないか。
「彼氏じゃないないんですか?さっきも電話で会いたいとか言われたんでしょ?」
「そんなわけないでしょ。だって、あの人……明日も仕事あるし」
 と言いつつ、その弾んだ声で看護婦さんは彼氏を期待しているのが分かった。分かったが、僕にはどうしようもなかった。
「ん〜……誰だろ?」
「もう何であんたが楽しそうなの」
 どうやら彼氏を待っている看護婦さんではなく、もう一人の方が窓に近付いているようだった。
「だ、れ、だ、ろ、ね?」
 楽しげな看護婦さんの声と共に窓が開かれる。
 柔らかい石鹸の匂いが流れる。いや、それは気のせいかも知れない。若い女の子の会話の所為で僕の気分が高揚しているだけかも知れなかった。
「あれ?誰も居ないよ?」
「え?そんなはずないでしょ。だって、音したし」
 僕は諦めて、病院の壁に背中を付けたまま静かに手を上げる。
「ごめん。入れてくれると助かるんだ、け……ど」
 窓の中を見上げ、看護婦さんに微笑もうとして……その偶然に頬を引き攣らせる。
「誰?」
 僕の知らない看護婦さんは不思議そうに首を傾げる。
 彼女はいい。彼女は何の問題もない。問題は、もう一人の看護婦さんで、彼女は絶対零度の瞳で僕を見ていた。
「そんな所で何をしているのですか?」
 さっきまでと口調が違うんですけど?
「何故、こんな時間に普段着で外にいるのですか?……あなたは、長い昏睡状態から、昨日、目覚めたばっかり、だったはず、ですよね?」
 一言ずつ区切るように話す、その看護婦さんは……今日の昼間に僕の痴態を注意したあの看護婦さんだった。
 いや、彼氏を待っているとかキャラのイメージが違うしってか、さっきまでのきゃぴきゃぴした看護婦さんのがいいな。
「あ、あの……出来たら中に入れて欲しいんだけど。その、夜間通用口ってさ、監視カメラとかで風紀委員に見張られてるらしいし、その……」
 窓際で両腕を組み、看護婦さんは僕を見下ろす。無慈悲なその瞳が言っている。さっさと……風紀委員に引き渡そうか、と。
 ちなみに、もう一人の看護婦さんは楽しそうに事の成り行きを見ている。その楽しそうな雰囲気と大魔神の如く怒っている看護婦さんとのギャップが怖かった。
 看護婦さんの周りで緊張感が高まって行く。いや、眉毛のとことかピクピク痙攣しているし、苦笑いっぽく歪めた口元も何か怖いんですけど?
 チクショウ!藤堂の野郎、僕を見捨てやがって。絶対に、絶対に看護婦さんへの差し入れが必要になったら全額払わせてやる。全額だぞ。
「……あなたはっ!」
「ごめんなさいっ!」
 看護婦さんが口を開いたその瞬間――僕は土下座で謝っていた。情けない姿だが、他に方法は思い付かなかった。
「と、友達が夜間に遊びに来て、その……誘われて、付いて行ってしまったんです」
 いや、普通に普段着に着替えているし、明らかに計画的犯行だろ、と僕も思うが……他に誤魔化しようがなかった。
「友達って……あの生徒会長?」
「……は、い」
 躊躇いがちな看護婦さんの声を聞き、地面を見ながら僕は微かに笑う。食い付いた、と。
「生徒会長って、あの学園の生徒会長さん?」
 もう一人の看護婦さんも僕に聞いてくる。
「え、あの……そうですけど、」
「あの人ってめっちゃカッコいいよね?」
「うるさい。黙りなさい」
 ペシッと看護婦さんの頭を叩く。ってか、見るともう一人の看護婦さんはやたら若かった。僕と年変わんないんじゃないか?いや、僕よりも若い?
「藤森若菜です。ぴっちぴちの15歳だよ?宇都宮さんと違って、まだまだ若いよ?」
「黙れ」
 ペシッペシッと藤森さんは叩かれる。ってか、優しい平手はチョップに変わっていた。
「まだ若いとか言うなよ。すぐに追い付くんだよ。あんたもあっという間に25歳になるのよ」
「あたしが25歳になると、宇都宮さん3、きゅっ?」
 両腕で首を絞められ、一瞬だけ藤森さんの喉から変な声が漏れる。ってか、白目剥いているし!?
 倒れる藤森さんを器用に部屋の奥のベッドに投げ捨て、宇都宮さんは僕に手を差し出す。
「入りなよ。いつまでもそこに居たら守衛さんに見付かるよ」
「まさ、か……」
 ベッドで動かない藤森さんを怯えた目で見る。
「僕は共犯ですか?」
「閉めるよ、窓」
「すいません。調子に乗ってました。入らせてもらいます」
 僕は宇都宮さんの手を借りて、窓を乗り越える。
「いらっしゃ〜い」
「おわっ、復活した?」
「ふざけてないで、入ったらさっさと部屋に帰る」
 僕は押し出されるままに宿直室を出る。と、ドアを押さえ、振り返る。
「そういや、僕の病室って……何号室でしたっけ?」
 宇都宮さんに本気で馬鹿な子を見るような目で見られる。ちょっと悲しかったけど、仕方ないじゃん。マジで知らないんだし。
「502号室だよ?」
 藤森さんが教えてくれた。が、あっさり訂正が入る。
「503号室でしょ。502は入新しく集中治療室を出た患者さん」
「あ、そうだった」
 てへっと藤森さんは舌を出す。
「とにかく早く部屋に戻りなさい。あ、それと……五階のナースステーションに見付かっても宿直に入れてもらったとか言わないでよ」
「了解」
 あ、と宇都宮さんが思い出したように言う。
「一応言っとくけど、エレベーターはナースステーションの正面だから使わないでね」
「へ?」
 マジですか、と僕は振り返る。昨日まで昏睡状態だったんですけど?との思いを念で送ってみる。
「使わないでね」
 爽やかな笑みと共に念押しをされてしまった。
 しかし、階段はエレベーターの横なんだよね。つまり、見付からずに部屋に戻ろうと思ったら、もう一度難易度の高いミッションがあるって事かよ。
 そして僕は考える。
 三時の見回りのときが一番手薄になるはずだ、と。
 一人が見回りに行き、もう一人がナースステーションで詰めるはずだ。
 ちなみに、看護婦さんの人数は二階のナースステーションでチェック済みだった。
 
 そして、その時は来る。
 五階の階段の隅で僕はナースステーションの様子を窺う。
 予想通り五階も看護婦さんは三名だった。
 他の階との違いはナースステーションと続き部屋になっている集中治療室がある事だった。異常があればすぐに対処できるようにだろう。
 三時四分三十二秒。看護婦の一人が立ち、手に懐中電灯を持つ。……彼女が見回りか。
 問題は彼女がどちら側から見回りをするか、だ。501号室から見るのか、反対の病室から見回るのか。
 彼女は……反対側の病室から見回り始めた。
 ほっと息を吐き、僕は再び呼吸を整える。
 さあ、ここからだ。彼女が戻ってくる前に、残り二名の看護婦さんの目を盗み、病室に戻らないといけない。
 困ったもんだぜ。しかし、これを終わらせないと僕は眠る事は出来ない。
 僕は自分が枕を高くして眠る為に、静かに足を滑らせる。