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魔性の夜
荒い息が落ち着くのを待たず、彼が私の上で身体を起こした。
「んっ」
腰が引かれると同時に身体の中心から抜け出る感触に自然と声が漏れる。その声も聞こえなかったように彼はベッドに腰を掛け、脱ぎ散らかした服からジーンズを取り出し、それに足を通す。
下着も着けずに、だ。
アメリカンな生活様式を意識しているつもりなんだろうか?
以前なら、そんな彼の生態の一つ一つに感動したり純粋に驚いたりもしたが、今は覚めた眼で観察するだけになっている。
彼は冷蔵庫の前に行き、中からカートン入りの牛乳を出し、グラスを一つ手に戻ってくる。
私はシーツで腰を隠し、身を起こした。
彼が無言でグラスを差し出す。私も無言で首を振る。
グラスをサイドテーブルに置き、彼は直接カートンに口を当て、牛乳を飲み出した。
セックスの後の気だるさを装い、私はベッドの横に隠しておいた革の袋へと手を伸ばす。中に詰め込んだ砂が凶悪な重さを私の細い手に伝えてくる。
それ専用の武器ではないが、効果は同じはずだった。
「ねぇ、ティッシュを取ってくれる?」
「ん?」
生返事をしながら、彼が左手をベッドサイドに伸ばすのを待ち、タイミングを計る。私は彼が腕を伸ばし、ベッドの上に身体が乗るのを待って、両手に持った革の袋を力任せに振った。
ドスッ。
重い音が彼の首の付け根で鳴り、声も出さず彼が昏倒する。側頭部を狙ったのだが、袋の重さに腕が負けた結果だった。……が、どちらでも同じことだし、それを気に掛けている時間は無い。
私は革の袋と一緒に置いていた手錠を取り出し、ベッドの足と彼の手を繋いだ。
彼はまだ何が起こっているのか解らないようで、眉間に皺を寄せ苦しそうに頭を振っている。
私は急いで彼の足元に立ち、彼の右足を強引に引っ張る。シーツが滑り、彼の身体が限界まで引き摺られ、手錠の鎖が伸びる硬い音が響く。ギシギシと鳴り続けるベッドが彼の代わりに抗議の声を上げているように聞こえ、私は声を出して笑った。
この一週間で初めての笑いだった。
陰鬱な行き場の無い怒りが、今は爽快な喜びに変わっている。
彼の両足を縛り付け、私はベッドの下に隠しておいた鞄を引き摺り出し、その中身をサイドテーブルの上に乱暴に広げる。
この日の為に買い集めた色々な道具がテーブルの上には収まりきれず、ガチャガチャと音を立てて床に落ちた。私はその中の一つを手に取ると、彼の腹の上に飛び乗った。
セックスの後始末をしていない股間が彼の腹筋に密着し、濡れた感触を伝えてくる。
虚ろな表情で天井を眺める彼の頬を力任せに平手で殴り付ける。
ぞくぞくする快感が私の背を走り抜けた。
彼の目に光が戻り、無防備な驚きの表情を浮かべ、怒りがその顔を歪めさせた。
「何しやがる。この……」
最後まで言い終わるのを待たず、私は手の甲で彼の頬を打ち、一拍置いて返す手で反対の頬を叩いた。
「あなたは喋らなくていいのよ」
私は左手に持っていたプラスチックのボールと革紐の付いた拘束具を彼の口に押し付ける。
「逆らってると前歯をへし折って押し込むわよ」
ここで初めて私を見る彼の目に本当の恐怖の色が浮かんだ。身に覚えがあるというのは悲しいことだ。
「違う。誤解……もがっ」
彼が口を開いた瞬間ボールを押し込み、革紐を頭の後ろで無理やり締め付ける。髪の毛が何本か絡んだようだが、私の知ったことではない。
これでようやく準備が整ったわけだ。
私は無様に両手を上げ、拘束具を口に咥えた彼をじっくりと見下ろした。
「何が誤解なのかしら?」
「むーむー」
「あなたの浮気?あの馬鹿みたいな小娘と遊んでいること?」
「むー」
「それとも……私の貯金から黙ってお金を下ろしたことかしら?」
「むむー、むー」
「むーむー言ってるだけじゃ、わからないわ」
私は後ろ手に彼の半分だけ上がっているジッパーを下ろし、ふにゃふにゃになってしまっている男根を取り出した。
「情けないわね。裸の女を前にして、これは何?」
彼の顔が恥辱で赤く染まるのを見て、私は高らかに笑った。
「残念だけど、私はあなたの言い訳には興味が無いわけ。代わりに私を怒らせたらどうなるか身体に教えて上げるわ。……たっぷりとね」
柔らかく小さいそれを手で弄びながら、私はサイドテーブルからコンバットナイフを手に取った。
彼の身体が私の股間の下で、びくりと跳ね上がった。
「大丈夫よ、これは刃引きがしてあるから切れないわ」
そう言いながら、刃を寝かせ彼の身体の上を何度も滑らせていく。
刃の冷たい感触に彼の皮膚が粟立ち、乳首が硬くなっていくのを眺める。
「ふふ……気持ちいいの?」
「むー」
その抗議の声を聞き、私は刃先を彼の肌に立て、刃をゆっくりと返した。
「むーはやめなさい」
立てた刃先で肌を薄く切り裂くように走らせていく。肌に赤い筋が残り、彼の目が大きく見開かれる。
血は出ていない。
細い爪で引っ掻いたような後が残るだけだ。
私はその細い傷跡に舌を這わせながら、彼の表情の変化を眺めた。手の中の男根がほんの少し硬さを増している。
「気持ちいいの?いけない子ね」
私は彼の身体から降りると、興味を無くしたようにナイフを床に捨てた。
私を追う彼の視線がテーブルの上に置かれた道具類の上に止まり、泣きそうな表情に変わった。
私は道具と彼の顔を交互に見て、「これが怖いの?」と聞いた。
彼は救いを求めるように何度も首を縦に振る。
「じゃぁ……怖い物は見えないようにしましょうか?」
そう言って、私は道具の中から一本の厚手の布を取り出した。
私の意図を悟った彼が再び抗議の声を上げ出したが、それを無視して手にした布で彼の目を覆い隠した。ちらりと見ると、彼の男根はまた幼い子供の物のように小さく萎えていた。
私はゆっくりとそれに手を伸ばし、面白半分に舌先で愛撫する。以前はこの行為が嫌いだったが、圧倒的に有利な立場の今なら楽しめそうだった。
彼の身体が思い出しように痙攣し、逃げるように身を捩るのを感じながら、次に使う道具を物色する。
十分に硬く勃起するのを待って、私は無数の革紐を繋いだ変わった形の鞭を手に持った。
何かの本で読んだ知識によると、百叩きの刑は実際に百回叩くことはないそうだ。百を数える前に受刑者が死んでしまうのがその理由だが、彼は何度まで耐えられるだろう?多分、本気で叩けば一回で悶絶するはずだ。
もっともそれは普通の鞭で叩けばの話だ。この手の鞭は音は派手だが、実際にはそれほど痛みはない。
私はベッドの足元に腰掛け、左手で彼の男根を弄びながら、無造作に鞭を下ろした。
弾けるような音と共に彼の身体が跳ね上がった。
弓形に身体を反らしたまま痙攣を続ける。手の中の男根もびくびくと痙攣し、その先端から透明な液体を滲ませた。
それを指先で亀頭全体に広げながら、私は彼の反応が落ち着くのを待った。
随分と大袈裟な反応を示す。
これを購入したときに自分の足を軽く叩いてみたが、ほんの少し赤くなるだけで痛みはほとんど無かった。
今度はもう少し優しく胸元を叩く。身体を横に捻り、彼が呻き声を上げる。
繰り返し鞭を下ろす度に、弾けるような音と彼の呻き声が室内を満たす。
数回叩くと、赤い鞭の痕が彼の胸元全体に広がっていた。男根も彼の出す液で濡れ光り、ぬるぬるになっていた。
私は濡れた手を男根から離し、ゆっくりとその手で睾丸を包み込んだ。
硬くしこった睾丸を優しく揉み扱きながら、猫撫で声で彼に囁く。
「ねぇ……イキたいの?」
彼は顔を横に背け、何も答えない。
自分の立場が分かっていないのだろうか?
私は男根を下に向けて抑えると、彼の毛深い下腹を鞭で打った。彼は内股になって腰を何度も左右に打ち振るい、「むー」と鳴いた。
そのあまりの滑稽さに私は声を出して笑い、おまけにもう一回彼の下腹を叩いてやった。
「私の質問にはちゃんと答えなさいね」
彼はぶるぶると震えながら小さく顎を引いただけだった。いまいち彼の誠意が伝わってこない。
鞭の先で下腹を擦りながら「ちゃんと答えなさい」と言うと、今度は激しく頭を上下に振り続けた。
よろしい。
私は鞭をテーブルに戻すと、赤くて太い蝋燭を手に持った。
「熱いのは好き?」
この質問に彼は頭を左右に振り、「むー」と答えた。
「むーは、やめなさい。……熱いのは好き?」
今度は黙って頭を左右に振る。
「ふ〜ん。……嫌いなの」
彼は嬉しそうに頭を上下に何度も振り続ける。
「ほんとうに嫌いなの?」
この質問に彼の頭の動きが、ぴたりと止まる。良い傾向だと言える。
「ねぇ、もう一度聞くわよ。……私を怒らせても構わないほど、熱いのは嫌いなの?」
彼はじっくりと考えている様子で、目隠しをされ拘束具を咥えたままの顔を私の方に向けている。
その口元から透明な涎がゆっくりと滑り出し、頬を伝いシーツに落ちた。
彼は、ゆっくりと顔を左右に動かした。
「じゃぁ……熱いの好き?」
彼はおずおずと、それでいて分かりやすく頭を上下に動かした。
私はたっぷりと時間を置いて、蝋燭に火を点した。
沈黙の降りた室内に100円ライターの石を擦る音が鳴り響いた。
薄暗い室内の中で彼の身体が蝋燭の火に照らされて浮かび上がる様は、奇妙なほどに幻想的だった。
ゆっくりと蝋燭を傾け、熱くなった蝋を彼の身体の上に落とす。びくりと反応し身を捩るが、彼は派手に逃げようとはしなかった。
「……良い子ね」
二つ、三つと蝋を落としながら、彼の耐える姿を眺める。その従順な姿勢は、私の征服欲を満足させるに十分なものだった。
蝋燭の半分が彼の身体に落ちる頃、私はそれをテーブルの上に立て、彼の目隠しを取ってやることした。
彼の目が眩しさに歪められながら、私の姿を追い求め、微かな驚きに満ちるのを確認する。
彼の後頭部に手を回し口の拘束具を外すと、彼は静かに語り出した。
「あ、あれは……その、間違いだったんだ。だから……その、もう許し……」
私は彼の唇に指先を押し当て、続く言葉を遮った。
「許す、許さない、じゃないの。あなたは間違いを犯したわ」
「あぁ」
「だから、罰を受けなければダメだったのよ。分かる?」
「あ、あぁ……わ、分かる」
「そして、罰はまだ最後まで終わってないの」
彼の目に微かな光りが浮かぶのを確認して、私は次の道具へと手を伸ばした。
翌日、昼前に私は目を覚ました。
彼は……明け方まで続いた調教に疲れ果てたのか、ぴくりとも動かず眠っていた。
ベッドから足を下ろし、私は改めて部屋の惨状を見返した。
あちこちに怪しげな道具が散乱している。
ブラインドの隙間から落ちる昼の光の中でそれらを見ていると、昨夜の凶行がただのSMプレイのような気がしてきた。
……ちょっと、やり過ぎたかも知れない。
自分にあの手の趣味は無いと思ってたんだけど、やっぱりストレスが溜まってたのかしら。
私は視線を眠り続ける彼の顔に移した。その無邪気な寝顔を見ている内に、彼の悪行の数々が記憶の奥から溢れてきた。
どう考えても許せそうにない。
自分自身で納得が行くまで攻め抜いてやろうかしら?寝顔を見ているだけで、そんな気にさせられるのだから、このまま以前の生活に戻れるとは思えない。
「やっぱ、別れるしかないか」
声に出して呟くと、ようやく肩の荷が下りたように気分が軽くなった。私は大きく伸びをし、シャワーを浴びるために部屋を出て行った。