月光
 
 
 ごとん。
 硬くあり軟らかくもある独特な音を残し、妻の頭は冷たいフローリングの床に落ちた。
 薄く開けられたままの目は、まるで死体のような印象を私に与える。
 いや……ある意味、死体であるのかも知れない。
 細くしなやかなブロンドの髪。象牙のような白い肌。端正ではあるが、冷たさを感じさせない美貌。
 陳腐な表現ではあるが、妻の美しさを表現するには最適だと私は思っている。
 その美しさを際立たせているのは、微かに開いた赤い唇から流れ出た血の一筋だった。彼女の首筋に残した、私の小さな牙の痕からは血液は流れていない。
 私は椅子に腰を下し、指先を組み、彼女の変化を待った。
 目に映る彼女の美しい姿とは裏腹に、私の意識は過去の成功と過ちへと流されていく。
 
 
 私の過去。……私は過去に何度か結婚を繰り返していた。
 この奇妙な体質の為、一人の女性を長く愛する事が出来ないのである。いや、決して心変わりをした訳では無い。今でも、過去の妻や恋人を愛している。
 皆、健康的で魅力に溢れた女性達だった。しかし、彼女達を愛すれば愛するほどに、私はある選択を迫られるのだ。
 そう、彼女達を同属にするか否かの選択に。
 私は、いわゆるヴァンパイアである。
 不死者にして、吸血の悪魔である。
 しかし、人間でもあるのだ。
 何故、私がこのような体質に生まれたかは不明である。いや、もしかしたら先天性の物ではないのかも知れない。しかし、遥か遠く消え去りそうな記憶の彼方に、その原因と思える体験は残っていない。
 もっとも、残っていたとして、今のこの現実を変える事は出来ないだろう。そもそも、吸血と言う行為は、決して飢えを満たす為の物ではない。
 私は、普通の人と同じく肉や野菜を食べ、ワインや珈琲で喉を潤す。当然、排泄も日常的な行為である。
 一般に、ヴァンパイアは日光に浴びると灰になって死ぬと言われるが、私刑執行の為に私を照りつける太陽の下や、カリフォルニアのビーチに引きずり出しても無駄である。
 確かに、直射日光は苦手であるが、それはサングラスで事足りる程度の物である。
 単に眩しいだけだ。
 心臓に杭を打てば……死ぬだろう。
 人間なら当然の事だ。不死者と言っても、私の場合は老いる事が無いだけなのだから。
 そう、私は老いる事が無い。
 見た目は、20代の後半から、30歳程度だろう。
 そう言う訳で、私が自分の異常な体質に気付いたのは40代を終わろうかと言う頃だった。精々、人よりも若く見えるくらいにしか考えていなかったのだ。
 当時、私は結婚をしていた。
 ティーンエイジャーの燃えるような、しかし、薄っぺらな愛の一つの結末と言えるような無味乾燥な結婚生活だった。
 若い頃の彼女は魅力的だったが、それは20代までの話だった。
 彼女は、年齢と共にずうずうしく怠惰になっていった。そして、その性質が体型に如実に現われてくれば、愛も醒めると言う物だ。
 そんな地獄のような生活の中(地獄の中では、その自覚は存在しない)、私は運命の日に出会う。
 運命は、女神の姿で私を訪れた。
 当時の私には、サラは完璧な女性に見えた。いや、今でも彼女は完璧な女性だと思える。
 私達は、決して淫らな関係ではなかった。
 知り合いに聞かれれば、私達はお互いを友人と言っただろう。そう、真の意味の友人である。その魂の繋がりは、崇高な物であったと私は信じている。
 だが、それも過去の話だ。
 その悲惨な結末に、私は自分自身を未だに呪っている。
 あの日、私はサラの担当している作家の批評を聞いていた。作品の批評ではない。その作家の人間性に対する批評だ。
 彼のセクシャル・ハラスメントは辛辣を極めていた。
 当時は、今ほど女性が保護されていず、サラは愛する仕事の光と影に苦しんでいたのだ。
 彼女の告白は、私を苦しめた。無力な私は、彼女の肩に手を置きながら、慰めの言葉もなかった。
 そう……後ろから彼女の肩に手を置いていたのだ。
 彼女の襟足の後れ毛が目に入った。白く艶やかな首筋。なだらかな曲線を描く細い鎖骨。
 私は立眩みにも似た興奮を覚えた。
 そう彼女の悲痛な告白を聞きながら、私は彼女に欲情してしまったのだ。
「首筋に優しいキスを……」
 私がそう考えていたかは、憶えていない。しかし、そのとき私の唇は彼女の首筋に触れようしていた。
 愛の成せる業だったと信じている。だが、彼女の肌に触れたのは、忌まわしい牙だった。
 驚いたように震えるサラの身体。しかし、彼女は私を抗おうとしなかった。
 彼女の手は、愛する者を掻き抱くように私の頭を愛撫していた。
 甘美な一時は、静かな幕切れを予感させた。
 そう、何かが終わるようにサラの手から力が消え、彼女は椅子に座ったまま眠るように目を閉じた。
 私は自分の行為に驚きながら、今までに無い快感を味わっていた。文字通り、味わっていたのだ。
 サラの甘い薫りに混ざり血の錆びた匂いが鼻腔を満たし、舌先に感じるその味は……血液のそれではなかった。
 味覚として感じる血液の味は、吸血の際には感じない。感じるのは、対象者の香りにも似た存在感とエネルギーの奔流だけだ。
 私は恐怖した。
 サラを失った事にではない。恍惚としている自分にだ。
 ぐったりと動かなくなったサラを残し、私は外に飛び出した。
 何か、訳の判らない事を叫んでいたような気もする。涙を流していたかも知れない。
 私は自己の存在が根底から覆される恐怖に、今にも狂いそうになった。
 ヴァンパイアなど空想の産物だと思っていた。コミックや小説の世界の絵空事だと信じていた。
 況してや、自分がその呪われた怪物だなどと微塵も考えた事が無かった。
 私は夜通し走り、転げ、のた打ち回った。激情が立ち去るころ、どことも知らぬ街角で私は空を見ていた。
 美しい満月だった。
 青く変わる空に星は消え、薄く……月だけが薄く残っていた。
 夜が明ける。
 地平線を飾る雲に、金色の帯が生まれていた。私は、奇妙な安堵を感じていた。
 そう、死と言う安息が、私を呪われた運命から解放してくれる。
 光り輝く太陽に、この身を晒せば灰になれるはずと信じていたのだ。
 しかし、結果は違っていた。
 朝日を全身に浴びながら、私の身体には何の変化も無かった。
「何故だ!!」
 無駄と判っていても、叫ばずにいられなかった。
 激しいまでの悲しみと、やり場の無い怒りを感じながら……結局、何も出来なかった。
 ただ、美しい、滑稽なまでに美しい朝日を見ていた。私が一人残したサラの下に帰ったのは、その日の夕方だった。
 無駄に時間を過ごしながら、私は誰かがサラの死体を見付けてくれる事を祈っていた。
 動かない冷たくなったサラ。
 今もあの部屋で、あのままの姿勢でいるのだろうか。
 明るく笑っているサラの顔を思い出そうとしたが、私の脳裏に浮かんだのは、あの悲しい告白をする彼女の姿だけだった。
 帰りたくなかった。このまま逃げてしまいたかった。
 それでも、私はあの部屋のドアの前に立っていた。
 薄暗い廊下。
 湿った空気が、私の気分を暗くした。
 冷たい鉄のノブを握り、私は躊躇いがちにドアを開ける。
 窓から入る西日が、細く部屋の中央に伸びていた。
 シンプルだが決して安物ではない家具に独特な影が生まれ、柔らかい印象を与える部屋が私の目に入る。
 この部屋の夕刻に、仕事を終えた私と彼女は静かなお茶を楽しみ、それぞれの趣味や夢、そして未来を語り合ったのだ。
 そう、サラが死んだあのテーブルに着き。だが、そこにサラの姿は無かった。
 当然、あのままの姿でいるはずの彼女の姿が無かったのだ。
「ドアを閉めて……」
 しゃがれた、ごろごろと何かが絡んだような声が聞こえた。
 あまりにも擦れていたので、私にはその声がどこから聞こえたのか解からなかった。いや、誰の声かも理解していなかった。
 部屋の中に誰もいないと思っていた私は、驚いたように開いたままのドアの外を見た。だが、そこには誰もいない。
「……お願い。ドアを閉めて」
 先程より、やや聞き取りやすい声が私の耳に届いた。それは、間違いなくサラの声だった。
 私は奇妙な違和感を感じながら、ゆっくりと振り返る。誰もいないと感じた部屋を……。
 静かな薄暗い部屋の隅に、膝を抱え座ったサラがいる。
 熱にうなされたような濡れた目を私に向け……微かに震える身体を自らの手で抱きしめ……窓から射し込む夕日に怯えるサラがいた。
 私の脳裏に、ヴァンパイアの有名な逸話が浮かんでいた。
 <感染>
 そう、今の彼女の姿は、正に伝説のヴァンパイアの物だった。
 三度目に彼女が口を開く前に、私の手はドアを閉めていた。
 私は、掛けるべき言葉が見付からなかった。彼女も何も言わず、ただ熱っぽい目で私を見ている。
 ただ時間だけが過ぎていった。
 
 
 その後、サラは仕事を辞め、夜の町で働くようになった。
 私とは違い、彼女は昼の陽射しに……いや、太陽の光に耐えられなかったのだ。
 サラの皮膚は、ほんの少しの陽射しでも火脹れが出来た。
 何故か、彼女は私を怨んではいなかった。
「変よね。私の中に誰かがいるみたいなの。でも……悪い気分じゃないわ」
 そう彼女は言っていた。
 私は何度か彼女の働く店に顔を出したが、サラの態度は素っ気無い物だった。他の男達に向けられる笑顔とは裏腹に、冷たい瞳が私を見ていた。
 いつしか私は彼女の店に足を運ばなくなり、また連絡も入れなくなっていた。
 明らかに彼女は私を避けていたのだ。それも仕方の無い事だと私は思った。
 無味乾燥な生活が始まった。
 家と会社を往復し、作り物の笑顔で人と自分を安心させる。無駄な人生。だが、そこには安息があった。
 暫しの安息だが……。
 一月後のある日、私の目にある新聞記事が目に止まった。
『ミドルタウンで惨殺死体!!』『野犬の仕業か?』
 記事の内容は読んでいない。見出しを見た瞬間、私は新聞を握り潰していた。
 舌の奥に苦い物が滲み出て、額に汗が浮き出ているのを自分で感じた。だが、私は性急に答えを求める事は無かった。
 理由は、サラの自宅も仕事場であるバーもミドルタウンから離れていたからだ。
 彼女を疑いたくなかったと言うのも理由の一つである。その後、私は半年で二度、新聞を握り潰した。
 三度目は無かった。
 その日、私は新聞を読んでいないからだ。
 ……確か、明け方の4時頃だったと思う。
 私はサラの自宅を訪ねた。憂鬱な気分で、固く閉ざされたドアを開ける。鍵は掛かっていなかった。
 部屋に入ると微かな酒の匂いと、ベッドの軋む音が聞こえた。荒い男女の息の音……サラのベッドルームには、私は入った事はない。だが、その場所はわかる。
 そこにある光景も想像できた。虚ろな思いが、魂に満ちていた。
 私は、思考する事を拒否していたのだろう。
 部屋の奥のドアを開ける。
 男の上で、髪を乱したサラが私を見た。
 見知らぬ誰かが、呆れたように「おいおいおい……」と言っている。
 ゆっくりと腰を捻りながら、サラが言った。
 「すぐに……終わるわ」
 彼女は男の頬に口付け、その唇を喉へと導く。唇の奥の、やけに目立つ犬歯が白く光ったように見えた。その光景に、私は恐怖ではなく嫉妬を感じていた。
「やめろ!」
 私の声をどう受け止めたのか、見知らぬ男はにやにやと笑った。
 サラの手が男の腕を抑えている。絡められた足が、二人を繋いでいる。
 恍惚としたサラの表情。
 その淫靡な顔から、私は目を離す事が出来ない。その時、私は初めて彼女を愛している事を知ったのだ。
 この胸を焼く嫉妬は……私の知らない彼女を男が独占している事実に猛り狂い、血を吐くような焦燥感を感じさせる物は、男女の愛以外の何物でもなかった。
 サラを男から引き剥がし抱きしめたかった。その唇も、髪も、頬も、乳房も、全てを自分の物としたかった。だが、私の衝動を獣のような咆哮が制止させた。
 サラに牙を突き立てられた男が叫んでいた。
 身を捩り、仰け反り、叫び続ける。
 その激しい愛の営みを受け止めるように、彼女はより深く男の首筋に顔を埋める。
 男の身体が、背骨が砕けそうなほど仰け反り、痙攣した。叫び声の中に、泡の立つような音が混じる。大きく開かれた目がぐるぐると動き、迫り出していく。
 唐突に叫び声は消えた。
 ゆっくりとサラが顔を上げる。
 脱力した男の口から、濃い赤い色をした血液がどろりと流れ出た。サラの手は、自らの乳房に重ねられている。口元を汚した血が一筋、その深い谷間に落ちていった。
「……サラ」
 乾いた声で、私は彼女の名前を呼んでいた。だが、私に何が言えるだろう。
 サラは私の顔を見ながら、ゆっくりと味わうように腰を上げた。
 そのまま、シーツの端を持ちベッドを下りる。
「もっと……早く来てくれると思ってた」
 口元を拭う彼女に、いつもの気丈さは感じなかった。
「君を……」
 私の声を無視して、彼女は男の額へと手を伸ばす。
 男の瞼を閉じさせようと指を重ねる。
「すごく、気持ちいいの。知ってた?」
 背中を向けたまま彼女は言う。
「食欲と性欲を一緒に満たせるの」
 動物の死体を弄ぶ子供のように、彼女の指先は男の顔を滑っていく。
「そうね。征服欲や暴力的衝動も満たされているのかしら」
 白い体液が太腿を流れ落ち、彼女はぶるっと震えた。
「……やめてくれ」
 やっとのことで私はそれだけを言った。
「何を?」
 彼女は振り返り私を見る。サラは、泣いていた。
「サラ。僕は君を……」
「あなたと私は違うのよ!」
 彼女は枕の下に忍ばせてあった拳銃を手に叫んだ。
「太陽の下で平気な癖に!血に飢えた事も無い癖に!あなたは人間で、どうして私は化け物なの!!」
 何も言えず、頭を振る私の姿へと銃身が向けられる。それを避ける権利は私には無かった。
「見たでしょう?私の肌は太陽の光りに当たると焼け爛れるのよ。知ってた?私の姿は鏡に映らないのよ。馬鹿みたいに力が強くなったのに、結び目一つ解けないし。それに……それに……」
 彼女は唇を噛んで激情を抑えようとしている。その犬歯だけが目立つ口元から、私は目を逸らした。
 ガチッ。
 撃鉄が起された音が、やけに大きく響いた。
「ねぇ……お願いがあるの。私を見て」
 静かなサラの声が聞こえた。銃口の向こうにサラの顔が見えた。微笑んだ彼女の顔が。
 知的な、でも感情のよく見えるくりくりとした目が私を見ている。
 そうだ……何時も、私を迎えてくれたあの笑顔だ。口元に出来る小さな笑窪を、いつか皺になっちゃうと悩んでいたサラ。
「ねぇ……」
 彼女は繰り返した。
 懐かしい声で。
「一度だけ、愛してると言って……」
 そう言うと、彼女は銃口を下ろした。
「愛している。君をずっと愛してたんだ」
 彼女は微笑んでいた。微かにその唇が動く。言葉にする事がなかった思いを込めて。
 そして、一発の銃声が鳴り響いた。
 
 
 その日の内に、私は生まれ育った故郷を出た。
 あの薄汚れた町を後にした。だが、私はサラとの過去を過ちとは思っていない。
 何故なら、彼女はその生も死も完璧な存在だったからだ。
 優しすぎた彼女は、誰かを傷付けなくては生きて行けないと言う事実に耐えられなかったのだろう。
 そして、そんな彼女だから私は愛したのだ。
 今も……愛しているのだ。
 
 
 月がその美しい姿を際立たせるために、雲を蒼く染めている。深い群青の夜空には星は無く、風も静かにその時間を待っていた。
 開けられたままの窓から射し込む月明かりが、横たわった妻の顔に独特な陰影を作っている。
 優しく美しい我が妻よ。
 私は、君に教えねばいけない。人として生き続ける意味を。愛すると言う行為の本質を。
 次に、目覚めたとき……君は驚き、悲しみ、恐怖するだろう。だが、心配はいらない。
 私は、ずっと傍にいる。
 君を愛しているのだから……。