第二日 夜 1.
 
 
 堅い……堅い感触が後頭部にあった。後頭部だけじゃなく背中全体に広がっている。腕や足も、ひどく重く感じる。
 虚ろなまま目を開く。
 白い……シーツのような物が顔に掛けられていた。いや、それは全身を覆っていた。
 寝ている身体全体を一枚の布で覆っているんだ。
 ゆっくりと身体を起こす。
 そこで、僕は自分が全裸なのに気付いた。次いで、顔や身体が清められている事にも気付く。
 身体を起こすと、目の前を、流れるように白い布が落ちていく。
 自分の寝かされていたベッド……固い黒のベッドを、後ろに手を着いて見る。
 頭が、ぼうっとして思考が定まらない。
 枕の無い寝床を見る。
 まるで……死体でも寝かせる為のベッドだな。
 暗い部屋の中に視線を戻す。その広さを測るように部屋の中で、目を眇める。
 薄闇に染まる部屋の広さは分からない。しかし、狭くは……無い。部屋の隅は暗く、闇に染まっている。その闇の深さが、僕には掴めない。
 部屋の中には、僕が寝かされていたのと同じベッドが並べられている。
 縦に二列……横には、六つ?六つまでは確認出来るが、それ以上は闇が深くて分からない。
 そして、その中の一つが……何かが寝かされているように、白い布に赤い染みを作って…………歪に、盛り上がっている。
 普通に考えれば……誰かが寝かされているんだろう。僕と同じ様に、白い布が覆うように掛けられているのだから。
 しかし……何かが違う。
 普通は……そうならない。……ならないはずだ。
 布に出来た赤い染みを見ながら、僕は思う。
 あれじゃ、まるで足が一本しか無いみたいじゃないか。それに、頭の形も変だ。変に布が……垂れてしまっている。腕に膨らみも無いし、腹の辺りなんか布が下に着いちゃってるんじゃないか?
 僕は布を腰に巻きつけ、ベッドを降り……その誰かの、下手な人形を寝かせたようなベッドへと歩み寄る。
 傍に寄って見ると、赤いと感じた染みは赤黒い泥のようなものだった。
 黒く滲むような染みを見ながら、なぜ僕はそれを『赤』と感じたのか?
 布の膨らみの……半分だけの頭のような部分に、指先を触れる。
 慈しむように、指先でその線をなぞるように触れていく。
 顔の片側、これは目の窪みで、鼻筋の線で、唇の……その柔らかさを思い出すように、そっと触れる。
 カチャリ。
 と、音がして、弾かれるように僕は指を放し、指先を隠すようにしながら振り返る。
 そこに薄闇を纏い、榛名が薄い笑みを浮かべていた。
「……御目覚めですか?」
 榛名は僕にそう訊き、室内に入って来る。
 扉の向こう……廊下も室内と同じく薄暗い。榛名は、薄闇の中から、また薄闇の中へと歩みを進める。
 ギリッと奥歯を噛む。無意識に拳を握り締める。
 僕は自分でも理解し難い衝動を抑え、榛名を睨み付ける。
 並んだベッドが、僕が衝動のままに行動するのを邪魔していた。
 僕は……榛名を殴りたい、そう思っていた。……いたが、何故かそれをするのは、誰かを……何かを冒涜しているように思えた。榛名はではない、誰かの尊厳の為に、僕は唇を噛む。
 僕は出来損ないの人形のような『それ』を見て、再び榛名を睨み付ける。
「僕に、何の用だ」
 一瞬、榛名は驚いたような顔をして、いつものように薄い笑みを浮かべる。
「あなたは、『ここは、どこだ?』と御聞きになる、と思っていたのですが……」
 面白い、と囁くように付け足す。
 ゆっくりと……榛名はベッドを避けながら、僕に近付く。
 近付いてくる榛名を睨みながら、僕は腰に巻いた布を握り締める。
 逃げ場所は……無い。
 まるで、猛獣と同じ檻に閉じ込められたような気分だった。胸に手を触れていなくても、脈拍が速くなっているのが分かる。
 喉を鳴らすように動かし、僕は震えないように声を抑える。
「だったら……ここは、どこだ?」
 にっこりと微笑み、榛名は足を止める。それは、僕が寝ていたベッドの手前だった。
 僕と榛名は、黒いベッドを挟んで向かい合う。
「ここは……霊安室です」
霊安室?」
 次の瞬間、背後の死体が誰なのかを思い出し……僕は、ぞっとする。
「他に都合の良い部屋が無かったので、ここで安置させて頂きました」
 言いながら、榛名は手に持っていたものを僕に差し出すように掲げて見せる。
「どうぞ……死者の仮面です」
 死者の……仮面?
 疑問に思いつつ、僕は木で出来た仮面を受け取る。
 それは、白い面に墨で奇妙な文様が描かれていた。
「今後は……人と会う際には、それをお付けになってから御願いします」
 無意識に、僕はその仮面を顔に翳す。
 死者……そうだ。僕は吊られたはずだ。
 首に縄が絞まる感触を思い出す。鼻血を垂らし、頭が割れそうに痛み、肺が空気を求め……求め、なのに死に至る事が出来ない。あの終わる事の無い苦痛を思い出す。
 仮面の裏側を見ながら、僕は荒い生地を目の前に思い浮かべる。……そして、眩暈に似た感覚に陥る。
「それと、死者としての能力ですが…………大丈夫ですか?」
 え?と、僕は顔を上げ、榛名に向き直る。
「あぁ、すまない。……続けてくれ」
 そうだ。僕は、吊られたんだ。吊られ……死に損ねた。だから、誰かに会う時は……この仮面で顔を隠せ、と言う訳か。
 剥き出しの……でも、丁寧に削られている木の仮面の裏側を見ながら、僕は榛名の説明を受ける。
「能力ですが……一晩に、一人の夢を見ます。これは前日に生きていた者の、即ち、貴方が見た生者の中から一名が無作為に選ばれます」
「つまり、死んでいた者……今日なんかだと矢島那美は省かれる、と言う事か」
 仮面を手に、僕は呟く。
「そうなります。勿論、御自身を夢で見る事も出来ません」
 榛名は目を閉じて、僕の問いを待つ。
「夢で見た者を判別する事は?」
「出来ません。それが誰であるのか、それが何であるのか……貴方が御自身で答えを見付けなけばなりません」
 一人の夢を見る事は出来るが……それが人なのか人狼なのか解からないと言う事か。
「夢で見た事を誰かに話す事は?」
「それは許されております」
 許されている、か。
 しかし……使い勝手の悪い能力だな。誰を夢見たのか解からないってのがネックだ。最悪、夢で見た相手に話してしまう可能性もある。それが人狼なら……利用されれば、最悪の結末が待っている。
「能力の説明は、これで宜しいでしょうか?」
「え?あ、あぁ……」
 聞きたい事はまだあるように思えたが、何を聞けば良いのかがはっきりとしなかった。
 では、と榛名は続ける。
「彼女の処遇ですが……」
 彼女?と、僕は間抜けな顔をする。
 見ると、部屋の入り口の外……廊下側に、顔色の悪いショートカットのメイドが立っている。……いや、メイドじゃない。彼女は、今は神稜学園の制服を着ていた。
「メイドとしては、もう使えないので……神稜学園の制服に着替えさせましたが、御気に召さないようであれば、他の服を用意させて置きますが」
「いや、ちょっと待ってく――」
「今後は、加納遙様付きのメイド……のようなものとして、御使い下さい」
 言い終えると、榛名は深々と頭を下げてから、踵を返す。
「いや、ちょっと待て!どう言う事だよ!?」
 僕は慌てて、部屋を出て行こうとする榛名を呼び止める。
「どう……と、仰られると?」
 不思議そうに榛名は僕を振り返って見る。
「どうって……」
 僕は意味が解からず、廊下で佇む彼女を見る。
 榛名は背中を向けたまま、立ち止まり……視線を何も無い部屋の隅へと向けている。
「私は彼女を廃棄しようとしました。……それは憶えていますか?」
 そうだ、あの時……榛名は、彼女に何かをしようとした。それが、廃棄だったのか?
 僕は黙ったまま頷く。
「それを貴方は制しました。それこそ、身を挺して庇ったと言って良いでしょう。……つまり、そう言う事です」
 御分かりになりましたか?と、榛名は聞いて来るが、僕には榛名が何を言っているのか解からなかった。
 榛名は、物分りの悪い子供に言い聞かすように言う。
「殺さずに生かすのなら……その生に最後まで責任を持つべきです」
 榛名は白々しい溜息を吐き、続ける。
「兎に角、彼女は貴方のものとなりました。邪魔だと言うのなら、破壊するのも宜しいでしょう。……後の片付けは、私共の仕事ですから」
 では、失礼します。と、榛名は部屋を出る。
 後に残されたのは……腰に布を巻き付けた僕と、稜学園の制服を着たメイドだけだった。
 
 
 僕はメイドだった少女に連れられて、廊下を歩いていた。
 死者の仮面は、手に持ったままで顔には付けていない。
 彼女が言うには、彼女はプレイヤーでは無いので、仮面を付ける必要は無く……今は、夜なので他のプレイヤーと館内で擦れ違う事も無いだろう、と言う事だった。
「夜に出歩かないのは……人狼に会わないようにする為か?」
 制服姿の彼女のやや後ろを歩きながら、僕は訊ねる。
「はい、そうなります。夜間は、与えられている個室で過ごすのが普通でしょう」
 無表情なまま少女は呟くように言う。前を向いたままなので、聞き取り難い……声が小さいのもあるけど、やはり、その喋り方が大きい理由だろう。
 しかし……無表情な女の子の後ろを歩くのに、この格好はどうなんだろう?
 僕は、白い大きな布で全身を隠し、裸足で、死者の仮面を手に、音も無く歩いている。
 音がしないのは毛足の長い絨毯の所為だとしても、これで手に燭台でも持ってたら……本当に、死霊にでもなったような気がするだろうな。
 華奢な彼女の背中から目を外し、僕は窓に映る夜の風景を見る。
 窓の向こうじゃない。窓の向こうは、白い……何故か、白いと印象付けられる夜の景色が広がっている。多分、月明かりの所為だろう。薄い雲を散らばらせた白い月の夜。
 僕が見ているのは、窓に反射して映った、夜のルルイエの館の風景だ。
 広い間隔で置かれた燭台。くすんだような赤い絨毯。下段は古い木材で、上段は無地の壁紙。それも古さを感じる……いや、古さじゃなく歴史を感じさせる造りだった。そして、それに似合う深みのある木製のドアが並んでいる。
 昔、本で読んだオーク材ってヤツだろうか?
 そんな事を考えながら、僕は彼女から受けた館の説明を反芻する。
 ルルイエの館は、ほぼ真四角の建物だ。
 一階には、談話室、喫煙室がある。それと、彼女によれば、図書室付きの書斎、食堂や厨房、後は中庭がある。
 そして、二階はその中庭を廊下から望めるように、内向きに造られている。つまり、僕が窓の外に見ているのは中庭になる。
 三階は、二階とは逆に廊下が外側に造られている。と言っても、別段、景色が素晴らしい訳じゃない。見えても、這うような霧を纏う森の姿だけだそうだ。
 それは二階の廊下から見る、中庭の様子も同じだった。
 どこからか這い込んで来た霧が、中庭の木々を隠している。
 ルルイエの館には、地下室もあるが……地下に何があるのかは、彼女も知らないらしい。霊安室へも、今日初めて下りたそうだ。
「着きました」
 唐突に彼女が言い、立ち止まる。
「ん?あぁ、ありがとう」
 彼女に礼を言い、僕はドアを開ける。……そうだ。この部屋だった。
 見覚えのある簡素な内装を見て、僕は部屋に足を踏み入れる。
 部屋の真ん中まで歩き、じっと床を見下ろす。
 室内を汚していた血痕は、拭い去られている。いや、血痕なんて生やさしいものじゃなかったな、あれは。
 まるで死体だけをどこかに隠した、殺害現場のような惨状……そう、惨状がぴったりな表現だった。
 そこで、僕はまだ彼女がドアの傍にいる事に気付く。
 何をしているんだろうと思い、彼女を振り返る。と、僕は叫ぶと同時に走り出していた。
「危ない!!」
 部屋の入り口に立った彼女は、そのまま崩れるように倒れようとしていた。
 僕の腕に縋り付くように彼女は細い腕を絡めて来る……が、それも叶わず、ゆっくりと仰向けに倒れようとする。
「お、おい!?大丈夫か?……しっかりしろ!!おい!??」
 ガクガクと唇を震わせ、彼女は何かを言おうとするが、それは言葉にならない。
「何だ?どうした???」
 僕は必死に彼女に声を掛ける。
 彼女は僕の腕に手を沿え、振るえる声で、
「……眠、い」
 小さく呟いた。
 僕は腕に彼女を抱いたまま、彼女の発した言葉の意味を考える。
 ねむい。……眠い?
「いや……ちょっと待て。何で急に眠いなんて言うんだ?」
 僕の問いは、彼女の寝息で返された。
 寝てる?いや、待ってくれ。何で、どうして、そうなるんだ。深夜を過ぎていたならともかく、まだそんなに遅い時間じゃないはずだ。いや、それ以前に、男子の部屋で女子が寝るなんてあり得ないだろう。
「おい、起きてくれ!……あ、その…………とにかく、起きろ!!」
 咄嗟に彼女の名前を呼ぼうとして、僕は彼女の名前をまだ知らない事を思い出し……必死に彼女を揺さぶる。
 頼むから、起きてくれ。
 仰向けにひっくり返った彼女の額が、滑らかな形をしていることを、伸ばされた喉が白く、陽の光を知らぬが如く滑らかなのに……僕は我知らずに視線を逸らす。
「あ……」
 僕の願いが通じたのか、彼女は薄く目を開け、その瞳を彷徨わせる。と、僕の方を見る。
「良かった。気付い――」
 僕の言葉を遮り、彼女は囁く。
「おやすみなさい」
「おい!!」
 かくん、と彼女は首の力を抜き、いや、全身の力を抜き、気を失った。……眠ってしまったのを、気を失ったと言えれば、の話だが。
 もう揺すっても反応はしない。彼女は完全に眠りに落ちているようだった。
 このままここでじっとしていられる訳でもないので、仕方なく彼女をベッドに寝かせる。
「制服のままだけど……しょうがないよな」
 ベッドに寝かせた彼女の様子を見る。
 静かな、寝息を立てている。と言うのも憚れるほど、静かな……息をしてないんじゃないか、と思えるほどの寝息だった。
 寝ている彼女から離れ、僕はドアに近付く。
 薄く開けられたままのドアを閉じ……鍵とチェーンロックをする。
 女の子を連れ込んだ変質者のような真似だが、これは諦めてもらうしかないだろう。
 今は……夜で、この館の中を人狼は徘徊している。
 人外の夜なのだから……。
 
 
【幕間】
 
 
 藤島葉子は、窓の下にある中庭の様子に心を奪われる。……いや、心を奪われているように見えて、彼女は何も見ていない。
 窓辺に佇み、自身のその顔も見ていない。ただ、中庭に面した窓には、鉄格子がされていないので、それが救いのような気分にさせる……そう思っていた。
 彼女は眉間を僅かに寄せ、心を迷わせる。
 ここは、どこなんだろう?
 何が起こっているのだろう?
 お父さんとお母さん……ううん、世界はどうしてしまったのだろう?
 …………何も思い出せない。
 兄弟や姉や妹がいたのか、いや、そもそも両親はいたのか?そこから問いは始まっていた。
 同時に、奇妙な疑問があった。
 クトゥルフ……誰も気にしていないようだが、それは邪神の名前だった。異界の神……その名を冠する人形の少女。
 ここに集められた人間の内、何名が気付いただろう。クトゥルフと名付けられた人形は、今日殺されていた矢島那美と似ていた事に。
 いや、違う……殺された彼女だけじゃない、誰か他の女性の面影がある。
 誰か別の女性をベースに、矢島那美の顔を……そう、面影を重ねるように作られている。
 彼、榛名はクトゥルフを完成させようとしているのだろう。
 榛名はゲームをして戦えと言った。
 何故?
 クトゥルフを完成させるのに死体が、人間が必要なら……殺せば良いはず。
 彼なら、きっと顔色も変えずに私達を殺せるだろう。そう……きっと、顔色も変えずに。
 それを何故、こんな回りくどい方法を?
 それとも……ただの死体じゃ意味が無いのかしら?
 そう、死体じゃなく……意志を持った人間、その葛藤――
 
「お邪魔だったかしら?」
 
 不意に声が響き、葉子は振り返る。
 ベッドの上に座り、少女は可愛らしく小首を傾げる。
「おいおい、あんまりびっくりさせるなよ」
 反射的に、声のした方を向く。
「確かに、夜中に悲鳴とか上げられてもね」
 驚愕に目を開き、反対側を見る。
 くすくすと、ベッドに座った少女が笑う。
「そ、んな……」
 呟きながら、足から力が抜ける。抜け落ちる……のを、辛うじて堪え、ドアまでの距離を測るように走る。走り抜ける。
 鍵を開け……ダメ、チェーンロックを外さないと。
 慌ててチェーンに手を伸ばす。古い、縦に鎖を落とす、それを持ち上げる。
 持ち上げようとするのに、それはするっと指を滑り落ちる。
 殺されていた矢島那美の残された半顔を思い出す。喰い飽きたチキンのように捨てられていた太腿を思い出す。そして、部屋に残されていた文字……赤い血で描かれた「罪」の字を思い出した。
「いやぁぁぁぁぁぁあああ!!!!助けて!!助けてぇ!!!」
 泣き叫び、葉子はドアを叩く。
 爪が割れるのも厭わずに、ドアを引っ掻く。
 薄く開いたドアの隙間から、声の限りに叫ぶ。
「助けてっ!!お願いだから!聞こえてるんでしょう?誰か助けてよっ!お願いっ!!お願いだからぁ!!!」
 ドアの隙間を閉ざすように、優しく人狼が手の甲で抑える。
 そして、葉子の叫びは……静かに閉じられたドアと共に消える。
 どうして?なぜ、私なの???
 閉じたドアの傍、壁に背を預けながら、人狼は訊く。
「ところで……一つ聞きたいんだが、役職は…………あるかい?」
 それを聞き、ベッドに座った少女が大袈裟に溜息を吐く。
「はぁ……本っ当に、男ってセッカチよね?物には順序と交換条件が付き物なのよ」
 少女は、嘲るように少年を見る。
 よっ、と勢い良く少女がベッドを跳ね下りる。体操の選手のように手を左右に広げ、着地をする。と、少女は一歩前に歩み寄る。
「      」
 唇の前に、人差し指を立て、少女は、それを囁いた。
 それは、記憶から欠落していた『彼女』の名前だった。忘れていた。そんなはずはない。でも、忘れていた。
 その名を口にしながら、葉子はドアを背に座り込む。
 そうだ、ここに連れて来られた全員が忘れるはずのない、『彼女』の名前を忘れている。
 でも、だったら、なぜ?
 『彼女』の名前を出せば、誰もが死を選ぶはず。その罪悪感から死を選ぶはずなのに。
「あなたが望むなら、あたし達は『あなたが選んだ死』を与える事が出来るわ」
「私が望んだ……死?」
 ぼんやりと葉子は、目の前の彼女を見る。……少女の姿をした人狼を。
「あなたは、楽に死にたいかしら?それとも長い苦痛の果てに、死にたいのかしら?」
 葉子は考える。自分の望みは……贖罪だ。楽に死にたいとは思わない。
 気の狂いそうになる苦痛の果てに、尊厳も何もかも踏み躙られて……殺されたい。
 でも、それを選ぶ事は……選ぶ事も出来なかった『彼女』に対する裏切りじゃないのか?
「ねえ……あなたは、役職を持っているのかしら?」
 優しく頭を撫ぜながら、人狼は舌なめずりしながら聞いた。
 くっくっくっとドアの傍に居た人狼が静かに室内を横切る。
 一人離れていた人狼が、呆れたように頭を振る。
「教えてくれる、かしら?」
 何度も優しく髪を撫ぜながら、人狼は聞く。
 慈しむように優しく……。
「あ、私……役職は…………ないです」
 
 ゴキッ、と一瞬で首を捻られ、葉子は絶命した。
 死の痙攣を繰り返す身体を、鬱陶しそうにベッドに投げ捨てる。
「ハズレじゃん、バカ。……もう、無駄に期待させんなよぉ」
 不貞腐れたように、少女はその場に座り込む。
「十分に考えれた展開だろう。初日から役職に当たる方が稀だろう」
「誰も役職を言わないからチャンスだと思ったのに」
 まぁな、答えながら彼は葉子の死体に手を伸ばす。
「役職を言えば、対抗してこちらも言わざるを得なくなる。そして、それは役職を襲えば……」
 無造作に葉子に太腿に手を伸ばし、ゴキッ、ミチミチミチ……彼をそれを引き千切る。
「残った方が人狼と言う事になる。ほら、お前の好きな脚だ」
 目の前に投げ出されたそれを、彼女は嫌そうに見る。
「これって、やっぱ食べないといけないの?」
 制服を剥ぎ、むき出しになった肩に口を付けながら、彼は何も言わずに彼女を睨む。
 もう一人の人狼も葉子に前に跪き、その衣服を脱がす。と、むき出しになった腹部へと牙を立てた。
「はっきり言って、美味しくないんですけど?」
「だったら、見ているか?俺達が喰い終わるのを、そこで?」
 それも何だか悪趣味、と呟き、しぶしぶ脚を持ってベッドに近付き、その上へと片膝を着ける。
 そして、長い爪を葉子の動かない胸へと近付ける……と、歪な文字で、『罪』と刻んだ。
 人狼の少女は思う。
 誰も、彼も、皆……死ねばいいんだ。
 罪人は、死ぬべきだ。
 消えない罪、拭い切れない罪、死んでも贖えない罪。
 吐き気を催す、血と肉の臭いに顔を突っ込みながら、彼女は思う。もう一度、思う。
 ……皆、死ねばいいんだ。