第三日 昼 1.
 
 
 眠れないまま、僕は薄く目を開く。
 いや、夢を見ていたような気がするから……眠っていたのかも知れない。
 僕は部屋にあったソファに寝転んだまま、後頭部の下で手を組んで、微かに記憶に残る夢を反芻する。
 あれは……誰かと一緒にいた。一緒に……笑っていた。
 僕が見ていたのは、懐かしい……もどかしい……どこか切なくて、どうしようもないほどに愛しい笑顔だった。
 あんな笑顔を、僕は誰かに向ける事が出来るだろうか?誰かを、あんな笑顔で振り返らせる事が出来るだろうか?
 笑っていたのは、女性だった……ように思う。そう、女性で……十代の少女で、多分、あれは……『彼女』だろう。
 『彼女』と一緒に笑っていた。
 夢で見た二人の少女は、互いに笑い合っていた。……いたように思う。
 はっきりとは、しない。しないのは、『彼女』と一緒にいた少女の視点だったからだ。
 夢特有の一人称とも三人称とも、はっきりしない……曖昧な視点だった。
 だが、それでも……彼女たちは笑い合っていた。
 友人だろうか?映画でも見ていたんだろうか?それとも……小説の話でもしていたんだろうか?
 記憶の中に、一冊の小説のイメージがある。
 どこかで並んで座っていたような気がするし、どこかの公園?……並木林を歩いていたような気がする。
 曖昧なまま、判然としないまま、世界は崩れていく。……夢は、夢でしかない。
 それは、目覚めてから急速に、色褪せ、壊れて行く。
 それでも変わらないもの……色褪せないものがあった。
 『彼女』の笑顔だけが、僕の中に変わらずにあった。……判然としないままに、変わらずにあった。
 微かな衣擦れの音に、僕は溜息を隠し、変わらない天井の景色を視野から消す。
 目を閉じ、メイドだった彼女の仕草を音だけで判断する。
 彼女は、今……ぼんやり身体を起こし、緩慢な仕草で周りの……室内の様子を見ている。
 昨日の僕はどうだったんだろう?
 彼女と同じように、見覚えない部屋で目覚め……いや、彼女の場合は違うか。
 見知ってはいるが、目覚めるべき部屋じゃない。が、正しい。
 まだ彼女は、キョロキョロとしている。まるで、ハムスターか何かみたいだな。
 彼女の意外と愛嬌のある仕草に、僕は自然と笑みを浮かべる。
「……おはよう」
 二人掛けのソファに寝ている僕は、彼女の位置からは見えないので、諦めたように溜息と共に挨拶をする。
「え?あ、……加納、様?」
「様はやめろ。加納でいいよ」
 ソファの上で身体を起こしながら、ベッドの方を睨むように見る。
 別にベッドが恋しい訳じゃない。……が、メイドの立場で、客をソファで眠らせてしまった事に、少しでも早く気付いて欲しかった。
 しかし、彼女はまだぼうっとしたままで、ぼんやりと僕を見ている。
「目が覚めたんなら、ベッドを空けて欲しいんだけど?少なくとも僕は、昨日は一睡も……していないから、ちょっとだけでも寝ていたいんだ」
 そう、一睡もしていない。夢を見る為に、強制的に眠らされたが……一睡もしていないはずだ。
 僕はソファから立ち上がり、ベッドに近付く。
「え?あ、あの……すみません」
 え?と驚くのは、彼女の口癖なんだろうか?
 慌てたようにベッドから下りると、手際よくシーツを整える。その際に、枕に落ちていた毛なんかも拾うのを忘れない。
「……どうぞ」
 恥ずかしそうに頬を染めながら、彼女はベッドを勧める。
 どうも、と適当に答えながら、ベッドに身体を横たえる。
 彼女に背を向け、寝心地の良い枕の感触に目を閉じる。
 ふ、と気になり、
「そういや……君の名前は、何て言うんだ?」
 目を閉じたまま僕は聞いた。
「名前は……ありません」
 薄く目を開け、ほんの少し僕は驚く。
 名前が無い?
「榛名様は、お前の好きに名乗ると良いと仰いましたが……」
 言いながら彼女は、もぞもぞと恥ずかしそうな仕草をすると、こう続けた。
「加納さ、ん、に、付けて貰うのも良いだろうとも仰られました」
 様と言い掛け、無理矢理『ん』に変えたので、一瞬、しゃっくりのような音になった。……が、彼女の名前か。
 不思議と、彼女に名前が無いと言うのは気にならなかった。
 僕は再び、目を閉じる。眠気は急速に襲って来た。
「……好きにしたら良いよ」
「え?」
 僕は半分眠りに落ちながら言う。枕の感触は信じられないほど寝心地が良かった。
「榛名の……言うように、君の好きにしたら良い」
 僕はそう言うと布団を引き上げる。
 彼女の名前……か。彼女の名前、と繰り返しながら僕は眠りに落ちて行く。
 
 
 結局、僕はほとんど眠れないまま、死者の仮面を手に……部屋を出た。
 廊下を出て、すぐに仮面を顔に付ける。
 仮面は思っていたより違和感は無く、被っているんだと意識しないと忘れそうになる。なる……が、僕はメイドだった少女の前を歩きながら、何度目かになる溜息を吐いた。
 そう、僕はほとんど眠っていない。
 彼女に悪気は無いんだろうけど、黙って枕元に立たれていたら、誰だってまともに眠れないと思う。少なくとも、僕は眠る事が出来なかった。
 寝不足で、やや不機嫌なまま僕は黙って歩く。
 廊下の窓から見た外の風景は、今日も這うような霧に覆われている。まるでこの建物……ルルイエの館にまで、染み入るような霧だった。
「……嫌な霧だな」
 誰に言うでも無く呟く。
 後ろを歩く彼女は、
「え?あ、あの……」
 と、返事をしたものかどうか焦っているようだった。
 彼女のそういった仕草に僕は溜息を吐きそうになる。返事をしたら良いのか分からないなら、黙っていれば良いんだと、僕は言いたい。
「ところで……」
 階段を下りながら、僕は彼女に言う。
「名前は、もう決めたのか?」
「え?あ、はい」
 彼女を振り返って見ると、少しだけ恥ずかしそうに口を引き締める。……引き締めたまま、黙って立っている。
「……何て、名前を付けたんだ?」
 根負けしたように僕は訊ねる。
「はい。メリッサと名乗ろうと思います」
 彼女は無表情に、そう言った。……が、
「却下だ」
 切り捨てるように言い、僕は前を向いて階段を下りる。
 階段の途中で、彼女が呆然としているのを感じながら、僕は足を止める。
「……瑠璃、と言うのはどうだ?」
「瑠璃、ですか?」
 メイドだった少女が、慌てて僕に追い付く。
「メリッサと言うのも君に合ってると思うけど……外国人って訳じゃないんだろ?」
「外国……人ですか?」
 彼女は不思議そうに首を傾げる。
「とにかく、僕の意見を言うなら『瑠璃』だ。気に入らないなら、また自分で考えろ」
「あ、いえ。瑠璃が良いです。加納さんが付けてくれた名前ですから、それが良いです」
 メイドだった少女……瑠璃を無視するように、僕は階段を下りてからエントランスに出て、奥の部屋へと続くドアを開く。
 朝と言うには遅い時間なので、きっと僕が最後だろうな、と談話室の扉を開く。
「おはようございます」
 人形の少女の横で、榛名はにこやかに挨拶をする。
 榛名に挨拶代わりに会釈をして、僕は円卓の方に足を向ける。向ける、が……僕は微かな違和感を感じていた。
 クトゥルフと呼ばれた人形は、あんなに綺麗な髪をしていたんだろうか?
 伏し目がちにした長い睫毛を飾る前髪は、信じられないほど艶やかで……どこか憂いを秘めた少女のようにも見える。
 クトゥルフを横目で見ながら、僕は円卓に着こうする。と、それを何時の間にか横に来ていた榛名が遮った。
「恐れ入りますが……こちらは、生者の席となっております。加納様は、どうか……他の空いている席を御使い下さい」
 榛名は僕が引こうとした椅子の背に手を置き、にこやかに微笑む。
「空いてる席?」
 見ると円卓の他に、談話室の中には幾つか椅子が置かれている。その空いている席を使えって事か。
 円卓に目を向けると、誰もが気まずそうに視線を外す。外した後に、何人かは曖昧な笑顔を僕に向ける。
 椅子の背に手を置いたままの僕は少しだけ間を置き、
「わかった」
 榛名に従って、部屋の壁沿いに置かれた椅子に腰を下ろす。
 足を組み、指を組み合わせて……円卓の面々を見る。
 円卓に座るのは、十二人。
 その中に、藤島葉子の姿は無い。
「では、全員が揃ったので……本日のゲームを、始めさせて頂きます」
 恭しく頭を下げて、榛名が言う。
 それぞれの仕草で、円卓のメンバーが頷くのを待って、榛名は続ける。
「先ず……昨日の夜、藤島葉子様がお亡くなりになりました」
 一拍の間を空け、
「遺体の確認はなさいますか?」
 と、榛名は円卓に着く全員に訊く。
 中の何人かは露骨に嫌そうな顔をする。自分の隣に座る者に、どうする?と聞く者もいる。
 そんな中、井之上鏡花が憂鬱そうに榛名に訊く。
「私が知っているゲームだと遺体の確認なんかはありませんでしたけど……それは必要なのかしら?」
 榛名は質問を吟味するように目を閉じ、静かに答える。
「勿論、強制は致しません。……ですが、狐が死亡していた場合もあるので、やはり、確認をされたほうが宜しいかと思われます」
「狐は……確か、自然死でしたっけ?」
「はい。予言者に見られる事で死亡します。その際は、『自然死』となるのです」
 榛名は深い笑みを浮かべる。……が、ほんの少し引っ掛かるものがあった。そう、言葉のニュアンスが微妙に含みを持たせているように感じたからだ。でも、さっきの言葉にヒントのようなものがあったのか?
 僕と同じように、榛名の言葉に一瞬だけ反応した本田総司が席を立つ。
「俺が行って来よう。……全員で行く必要は無いだろう」
 同じく立ち掛けた田沼香織を言葉で制し、早口に何かを伝える。
「全員でぞろぞろと悪趣味なものを見る事も無いだろう。けれど、俺だけが行ったんじゃ……俺が人狼の場合は困るか?」
 自嘲的なその言葉に何人かは目を逸らす。
「……加納。悪いが、付き合って貰えるか?」
 円卓に背を向け、本田総司は僕に向かって言う。
霊媒師が出て来ない以上は、死者である君が一番公平な立場だと言える。君の見立てなら誰も文句を言わないだろう」
 僕は死者の仮面の奥から、本田総司を見る。と、僅かに頷き、
「……いいだろう」
 席を立つ。
 皆が意見を言う間だけ待ってみるが、誰もそれに否を言う者はいなかった。
 メイドに促され、本田総司、僕と……慌てたように瑠璃が着いて来る。
 
 
 本田総司と僕、それに瑠璃は一言も話さないまま藤島葉子の泊まっていた部屋の前に来た。
 メイドの少女が、部屋は鍵が成されず、チェーンロックだけが掛けられていたと告げる。
「……それを確認したのは?」
「私です」
 本田総司の問いに、メイドの少女は答える。
 じっと考えるように本田総司は閉じられたままのドアを見る。
「……部屋は発見時のままに?」
「はい。チェーンロックも掛けたままです。榛名様の命令で、そのままの状態で保存されています」
 そうか、と本田総司は頷き、藤島葉子の部屋のドアを開ける。が、直ぐにドアは鎖で動かなくなる。
 チェーンロックだ。僅かに空いたドアの隙間に細い鎖が見える。けど、この隙間は……。
「……加納」
 鎖に目を落としたまま本田総司は僕に言う。無言で頷き、僕は振り返る。
「客室の……鍵の作りは全部同じなのか?」
 僕は後ろに立つ瑠璃に訊ねた。
「え?あ、はい。基本的に同じのはずです」
「はず?」
「お泊りの方が榛名様に要望を出された場合、改良される事もあるはずです」
 要望を出せば、か。だが、全ての部屋のチェーンロックを変更するなんて事が可能なんだろうか?
 そう、昨日の矢島那美の部屋と同じなら、この部屋のチェーンロックは縦に落とすタイプの物だろう。しかも、このドアの隙間を考えると……チェーンロックを落としながら、ドアを閉じる事も出来るはずだ。
 つまり……ドアの鍵も、チェーンロックも、部屋を出る際に掛ける事が出来る。
 そこで僕は、本田総司が眼鏡を抑えたまま何も言わないのに気付いた。いや、本田総司は眼鏡を抑えず……まるで嘔吐を堪えるように口を押さえていた。
「おい、あんた……」
「あぁ……すまない」
 と、本田総司はドアの前から離れる。眉間に縦皺を寄せ、僕に部屋の中を見るように目配せをする。
 僕は本田総司と入れ替わり、ドアの隙間……チェーンロックの許すだけの隙間を覗く。
「ぐっ……」
 反射的に僕は口を押さえる。それはドアから離れていた時には気付かなかった、部屋に充満した乾き始めた大量の血液の生臭さの所為だったのかも知れない。
 しかし、それよりも僕を怯ませたのは……その部屋の惨状だった。
 これは、何だ?何がしたかったんだ?何故、ここまでする必要があったんだ。
 僕は記憶から、部屋の有様を消すように目を閉じる。
「加納さん?」
「来るなっ!」
 僕は慌ててドアを閉める。閉めるが、ドアを閉めるように僕の見た物も消えてはくれない。
 藤島葉子は、ベッドの上にいた。しかし、あれを『いた』と言っていいのか?
 彼女の腕は……ベッドのヘッドボードの両端、誰かを招くように左右に開いていた。彼女の足は……膝から下の部分は、腕と同じようにフットボードに刺されていた。
 身体の部位は解からない。解かりたくも無い。
 バラバラに砕かれ、喰われ、シーツの上に広げられていたんだから……。その赤黒く染められたシーツの上に、肉と小さく噛み砕かれた骨の上に、赤い雫を受けた藤島葉子の生首が真っ直ぐに置かれている。
 そして、その白い顔に赤い雫を落とすのは……天蓋のように広げられた彼女の臓物だった。
 何かに驚いたような藤島葉子の顔が、目に焼き付いた彼女の顔が離れなかった。
「くそっ!」
 やり場の無い怒りに、僕は閉めたドアを殴る。
「何がしたいんだっ!何が目的なんだっ!!」
 人狼の目的は解かっている。しかし、その目的とこの行為の間に関連性なんか無いように見えた。『彼女』の死と、それに準じようとする意志は理解できる。出来るが、それとこの部屋の惨状は、僕には無関係に見えた。
 悪態を吐きながら、もう一度ドアを力任せに殴る。
 自分でも理解出来ない感情に襲われる。藤島葉子の死は悼むべき事なのだろう。しかし、こんなものを見せられて、ただ悲しむなんて事が出来るはずがなかった。
 人狼のやり方に、無性に腹が立っていた。
「何で、ここまでしなくちゃいけないんだ」
 もう一度ドアを殴り、僕は呟く。
 そんな僕の後ろで、多少の落ち着きを取り戻した本田総司が言う。
「彼女の遺体を保護して霊安室に安置してくれ。……それが終わったら、俺に連絡をくれ」
 行こう、と本田総司は僕の肩に手を置く。が、反射的に僕は振り返り、その手を払ってしまう。
「あ……」
 呆然と僕は自分の行為の意味を知る。
 僕は、彼を……本田総司を人狼だと疑っていた。いや、彼だけじゃない。円卓に着く者、誰もが人狼の可能性がある。そして……人狼は、これをしたんだ。藤島葉子を、矢島那美を、玩具のようにバラバラにして殺したんだ。
「いや、違……うんだ」
 僕は仮面に覆われた顔を本田総司から背け、言葉を濁す。
「いや、良いんだ」
 眼鏡の位置を直しながら、本田総司は僕と視線を合わさずに言う。それから、と彼は言葉を続ける。
「彼女の遺体を霊安室に運ぶまでの間……少し、話をしたい」
 僕の返事を聞かずに、本田総司はメイドに向き直り、
「藤島葉子を、よろしく頼む」
 と、それだけを告げて絨毯に覆われた廊下を先に進む。