第四日目 夜 1.
 
 
 与えられた個室の備え付けの洗面台で、僕は狂ったように顔を洗う。
 何度も顔に水を掛け、息継ぎのように顔を上げ、再び顔に水を浴びせる。
 右の拳に痺れるような痛みがある。その痛みを無視して、顔を洗い続ける。自分の中にある怒りを、必死に洗い流す。
 左手で蛇口を閉め、顔から雫を垂らしたまま、鏡に映る自分の顔を見る。
 憑かれたような顔がそこにあった。
 憑かれ、彷徨う……殺人者の顔だ。
 殺人……と、僕は落ち着かない気分のまま考える。
 吊られた岡原悠乃と坂野晴美の姿が脳裏に浮かぶ。どちらの顔も寂しげに見える。寂しげな笑顔のまま、どこか遠くを見ている。
 二人の内、どちらかは人外、人狼の可能性があるんだから、あれで正しかったんだ。言い訳のように僕は思い、鏡の中の自分から目を逸らす。
 岡原悠乃の悲鳴に似た叫びが頭に響く。最後まで自分を失わなかった坂野晴美の自嘲的な笑みを思い出す。
 どちらかが村人で、どちらかが人狼で……それで、人狼が残り二匹なったって結果だけを考えて、これが正解だなんて言えるのか?言ってしまっていいのか?
 ズキン!と洗面台に着いた手が痛む。
 苦々しい思いで、大島和弘を殴った手を見る。
 アイツは、これで正解だと言うだろう。
 微かな違和感を感じながら、僕はそう思う。そう思いながら、その違和感の為に、納得出来ずに僕は腫れた拳を見る。
 あの時、あのタイミングで、坂野晴美を吊った後に、人狼が一人減ったと発言する意味があるのか?
 何だ?何かを見落としているような……何か、歯車が噛み合っていないような、違和感がある。
 大島和弘が思慮が無く、無神経な発言を繰り返した。そう考えれば、それだけだが……本当に、そうなんだろうか。
 今日の、今日までの大島和弘の言動や動きを思い出すんだ。
 そうだ。彼は、「派手な言動をすれば、人狼に狙われ易くなる」と言ってなかったか?
 ぞくり、と背筋が寒くなる。
 彼の言動をそのまま信じれば、本田総司と僕は人狼と狂人なんだから、彼があれだけ派手なパフォーマンスを見せたのは自殺行為としか言いようが無いんじゃないか?
 自殺行為、挑発のようにも受け取れる。
 僕と本田総司を挑発した?人狼だったら、これだけ派手なパフォーマンスをしたら噛めないだろう、と……いや、違う。
 素直にありのままを受け入れるな。
 あれは、僕や本田総司に向けたものじゃなかったら、どうなる?僕や本田総司ではなく、本当の人狼に向けたものなら?
 本当に人狼だと思っていたら、あんなにはっきりと言うはず無い。
 人狼だと言っておいて、周りの目を誤魔化し……本田総司の眼鏡の位置を直す癖を指摘したと考えれば、どうだ?
 あれはまるで……誤解を受ける、もしくは、人狼に付け入る隙を与えるから止めろ、と注意しているようにも見えるんじゃないか?
 いや、違うか。
 大きな溜息を吐き、僕は鏡に映る自分の顔を見る。
 僕は彼を殴ってしまった罪悪感から、好意的に彼の行動を見ようとしているだけだ。
 そして、僕は……殴られた時の彼の顔を思い出す。
 飼い主に怒られた子犬のような顔だった。本気で傷付いている、そんな顔で僕を一瞬だけ見ていた。「化け物め」と捨て台詞を言った後に、振り返った彼の眼には、僕を傷付けてはいないかと心配するような色が浮かんでいた。
 コンコンと控え目なノックの音に、僕はギクッとバスルームの扉を見る。
「あ、あの……加納さん、大丈夫ですか?」
 瑠璃の声を聞き、安堵の溜息を漏らす。
「大丈夫だ。何でもない。……もう出るよ」
 言いながら、僕は浴槽に腰を下ろす。下ろしながら、田沼幸次郎の遺体を思い出す。そうだ、ここに横たわって死んでいたんだ。
 田沼幸次郎。共有者の片割れ。『狐』に見せ掛けて殺された被害者。しかし……本当にそうだろうか?
 実は、田沼幸次郎は『狐』で、本田総司は『狐』の死を利用しようとする『人狼』で、真の『預言者』は潜伏で……いや、あり得ない。
 顔に残った雫を拭い、僕は立ち上がる。
 大島和弘の言った事は、信じるに値しない単なる妄言だ。少なくとも、僕は信じない。
 バスルームのドアを開ける時に、ズキン、と拳が痛む。が、それを気にせずに、僕はそのままドアを開けた。
 
 
 バスルームから出た僕の顔を見て、瑠璃はほっと安堵の息を漏らす。
「良かった。大丈夫そうですね」
「え?」
 右の拳の調子を気にしていた僕は、彼女の言葉に不思議そうな顔を向ける。
「あ、すいません。ぐひじdfじょkdpdぱがむgひへおふぉswの調子をふhふぃえじょfじゃおしていたから、加納さんも……え?」
 彼女は不思議そうに何度も瞬きをする。って、僕の方が聞きたい。いったい何を言っているんだ?
「え?どうして???私はうfげいgふぉえjふぉの名前を言おうとしただけなの」
 瑠璃は喉に魚の骨でも刺さったかのように、自分の手で喉を押さえ……不思議そうに、小首を傾げた。
「あの……あたしは何を言いたかったんでしょう?」
「はい?」
 瑠璃の言葉に脱力した。って言うか、お前の言いたい事を僕が知っている訳が無いだろう。頭が痛くなる。
 額に手をやる僕の横で、瑠璃は何度も首を捻っている。
 大袈裟に溜息を吐き、二人掛けのソファに転がる。ちらっと瑠璃を見ると、大真面目な顔で明後日の方を向いている。
「どうした?」
「え?あ、ごめんなさいです。あの……榛名様に言われた事を思い出したんです」
「榛名に?」
 転がっていたソファの上で、僕は身を起こす。
「はい。あたしはゲームの参加者じゃないから、ヒントになるような事を言うとしたら、その言葉が喋れなくなるって」
 ヒントになるような事を話す事は出来ない?
「それは、話そうとした事柄そのものも忘れてしまうらしいです」
「いや、ちょっと待て。お前は何を言おうとしてたんだ?」
 思わず身を乗り出して、僕は瑠璃に聞く。が、瑠璃は不思議そうに首を傾げて、
「さあ?」
 と言うばかりで、まともな返事は返って来なかった。
 いや、真剣にちょっと待て。これって、さっきの会話にヒントがあるって事だろ。僕は何をした?さっきバスルームから出て来て……瑠璃は、何を言うとした?
「あの……今日も、あたしがベッドで寝るんですか?」
 反射的に眉間に立て皺を入れる。いや、そうじゃない。これは瑠璃の意思じゃないんだ。強制的に会話を進める事で、さっきの言葉を無かった事にしようとされているだけなんだ。
「瑠璃、確認したいんだが」
「あの、今日はもう眠いんで……ベッドを使わせてもらっていいんですか?」
 言いながら、もう瑠璃はベッドに潜り込もうとしていた。
「いや、先に確認を……」
「おやすみなさい」
「ちょっと待て!」
 ソファから立ち上がり、僕はベッドに詰め寄る。が、瑠璃はもうすやすやと眠っていた。
 子供のような寝顔を見ながら僕は呟く。
「……寝付きが良過ぎるだろう?」
 いや、これも強制力の所為だろう。多分、明日にはもう何も憶えていないはずだ。
「ヒントは、永遠に失われた訳か」
 諦めたようにベッドを後にし、ソファに腰を下ろす。
 瑠璃の一連の言葉が、何らかのヒントになる。そう思うものの、何を言おうとしてたんだ?
 ついさっきの事だ。何かがあったんだ。何があった?
 バスルームから僕が戻る。僕の無事を確かめるように、瑠璃は安堵していた。
 そうだ。良かった、とか言ってなかったか?
 僕の調子が悪いと心配し……心配し……多分、古川晴彦の体調の悪さと重ねて心配したんだ。
 じゃあ、あの意味不明な言動は、古川晴彦の名前を言うとしてたのか?
 古川晴彦の名前がヒントなのか?何で、古川晴彦の名前が、普通に話をしても問題は無いはずだ。
 いや、ちょっと待て。古川晴彦は何時から体調を崩していた?
 古川晴彦の体調が崩れたのを、毒の所為だとしたら……ヒントになるんじゃないか。
 毒を盛られた古川晴彦と同じだと思ったのなら、瑠璃が喋れなくなるのも頷けるんじゃないのか。
 いや、僕の考え過ぎ……と言うより、願望か。
 古川晴彦が実験的に毒を盛られ、田沼幸次郎が本格的に毒殺される。もし、そうなら古川晴彦に聞けば、誰が毒を盛ったのか知る事が出来る。いや、それは無理でも毒の特定は出来るかも知れない。……あり得ないだろうか?
 本田総司なら、どう言うだろう。考え過ぎだと笑うだろうか?
 誰かと話したい。寂しいというのとは違う、意見を求める気持ちなんだが……僕はソファに腰掛けて、ベッドに目を向ける。
 そこには、幸せそうな顔した瑠璃が眠っているだけだった。
 
 
【幕間】
 
 
 深夜を過ぎ、大島和弘はルームサービスを注文した。
 こんな時間にルームサービスをしているのか心配だったが、メイドの彼女は快く返事をくれた。
 人狼が来る事を見越し、夕食を抜いていたんだが、それは杞憂に終わったようだった。
 どの道死ぬのなら食事をするだけ無駄だろうと思っていたんだが……流石に、この時間まで来ないのだから、今日は無事に生き残れたんだろう。
 いや、無様にか?
 あれだけ派手にパフォーマンスを見せれば噛みに来ると思ったのだが、リア凶として生かす方にされたのか?
 ベッドに腰を掛け、大島和弘は頭を抱える。気が狂ったように髪を掻き毟りたいが、それを必死に我慢する。
 俺に来なかったと言う事は……誰か、他の所に行ったと言う事だ。誰の所に……?
 抱えていた頭を離し、自由になった頭を天井に向ける。諦めたように深呼吸をし、うな垂れたように肩を落とす。
 本田総司が無事なら、それで良いんだが……。
 ここで落ち込んでいても意味が無いと解っている。解っているが……
「……勘弁してくれよ」
 自然と想いが言葉になって漏れていた。
 彼が共有者である事をCOし、相方の死まで公表した時には、本気で焦った。
 相方を殺された共有者なんか、ただ生贄と同じじゃないか!いくら相方を『狐』に殺されたからって、冷静さを失い過ぎだ。
 黙っていれば、加納遙が共有者と考える可能性もあるんだから、普通に潜伏のままで良かったんだ。
 妙に斜に構えた加納遙の横顔を思い出し、大島和弘が舌打ちをする。
 理由も無く、ムカツク。
 加納の、あの斜に構えている癖に、真っ直ぐな性格はどうなっているんだろうな。
 加納遙に殴られた頬をそっと撫でる。
 ほとんど腫れてはいない頬をなぞるように触れる。そして、無意識にふっと笑みを漏らす。
「あれは……いらなかったな」
 化物め、と捨て台詞を残す事で小物を演じたつもりだった。小物を演じ、万が一にも『狩人』のガードを外す。間違いなく、俺なら噛める状態にする。
 けれど、その所為で加納を怒らせてしまった。いや、傷付けてしまった。
「なんで、俺は……」
 自分で自分の不器用さが嫌になる。最後に見た加納の顔は本気で傷付いた顔をしていた。加納はムカツクが、ヤツにあんな顔をさせてしまった事は本気ですまないと思う。
 そう、『村人』の加納遙を人外呼ばわりしてしまった。
「くそっ!」
 もう一度、今度は遠慮無く力任せに頭を掻く。
 冷静になれ。落ち込むと、冷静な判断が出来なくなるのは、俺の悪い癖だ。冷静になって、今後の対応を考えるんだ。
 両足の間に手を落とし、大島和弘は深呼吸を繰り返す。
 山里理穂子をどうするのか、が問題だ。
 彼女は、多分……真だ。騙りではない、預言者だろう。そして、真の預言者なら、喰われる事は無いだろう。
 人狼も『狐』が生きている可能性があると読んでいるはずだ。だから、預言者を生かそうとするはずだ。
 昨日の夜、誰も喰われていなかったと言う事は、人狼が『狐を襲った』か、狩人のGJのどちらかだろう。
 狩人がまだ生きていれば、の話だがな。
 そう、狩人はまだ生きているんだろうか?
 狩人の死を人狼が知っているのなら、喰い損なったヤツが『狐』で間違い無いだろう。しかし、まだ狩人が生きていれば……解らなくなるな。
 人狼としてみれば、預言者に喰い損なったヤツをぶつけたいはずだ。何とかコントロールをし、『狐』候補を預言者に見させる。
 いや、そんな事をしても無駄だな。
 人狼なら、そいつを吊る方に持って行くはずだ。
 明日……いや、もう今日か。今日、預言者を吊り、出来るだけ早い段階で『狐』候補を吊る。
 そうやって、曖昧な危険を減らして行くはずだ。そういうヤツラのはずだ。
 大島和弘は静かに目を閉じ、ゆっくりとその目を開く。
 
 このゲームには……役職には、パターンが存在する。
 
 『人狼』『狐』『村人』は無作為に選ばれたのではなく、その人格が選ばれた理由になっている。
 記憶や対人関係を失い、曖昧になってしまっているが、その鍵になっているのが……『彼女の死』だろう。
 『彼女』の死に対して、何らかの責任や罪悪感が役職を選ぶキーになっているはずだ。確信はないが……そう考えないと、辻褄が合わない。
 表層的な人格では判断出来ないが、『人狼』の可能性があるのは……。
 不意に、静かな室内にノックの音が響き渡る。
 大島和弘はドアに向き直り、ベッドの上から腰を上げる。
 ゆっくりとドアに近付き、大丈夫だろうと思いながら、一応の為に確認をする。
「誰だ?」
 直ぐに淀みの無いメイドの声が応える。
「ルームサービスを御持ちしました」
 メイドの声が円卓の誰とも似ていない事に安心し、大島和弘は苦笑する。
 そうだな。『人狼』は密室でも入る事が出来るんだから、メイドに化ける必要なんか無いんだ。
「待ってくれ。今、鍵を開けるから」
 鍵を開け、ドアノブを捻って開ける。
「すまないな。こんな時間……?」
 メイド服を着た少女の姿を期待したのに、何でこんな???
 そこに居たのは、制服を着た少女。メイドの姿はどこにも無かった。少女は表情を隠すように俯き、
「な!??」
 一瞬で、大島和弘の背後に飛んでいた。いや、それはもう大島和弘ではなかった。
 ゴンッと堅い音が静かな室内に鳴る。
 首を失った大島和弘だった肉体が、無様に崩れ落ちる。倒れると思い出したように、傷口から鮮血が噴き出した。
「もういいわよ。料理は適当に捨てちゃってよ」
 人狼の少女が言うと、メイドの少女は深々と頭を下げて「失礼します」と去って行った。
 メイドが去ったのを確認し、人狼の少女が訊く。
「良かったの?」
 ドアの影から姿を現した男の人狼は、つまらなさそうに室内を見て、ふんと鼻を鳴らす。
「別に……構わないさ」
 室内に入り、後ろ手にドアを閉めると、ゴミのように大島和弘の肉体の肩を蹴り、仰向けにさせる。
「こいつは、役職持ちじゃないだろう。もし、狩人なら、黙って本田総司を守っていたはずだ」
 ゆっくりと部屋の中を眺めながら、男の人狼は足を進める。
「じゃ、まだ狩人は健在なのかな?」
 解り切った事を聞くなと言いたげに、男の人狼は大島和弘が座っていたベッドに腰を下ろす。
「でも、わっかんないなぁ?」
 ん?と、男の人狼が顔を上げる。
「なんで、本田総司じゃなくて、コイツなの?」
 解らないか?と、人狼は制服姿の少女に聞く。
「だって、本田総司を殺して、コイツをコントロールした方が簡単じゃないの?」
「そんなに甘いもんじゃない。っていうか、そいつがコントロールされるような甘っちょろいヤツに見えるのかよ」
「見える」
 少女の人狼は、きっぱりと言った。
「……馬鹿」
 頭痛を抑えるように頭に手をやり、人狼は呻くように言う。
「今日の公言は全部コイツの計算だ。本田総司を守り、俺達をここに導く為の演技だよ」
「え?」
「気付いてなかったのか?」
 顔を上げ、少女の人狼を見る。
「でも、だって……って、それじゃ大島和弘を喰っちゃったら不味いんじゃないの?ど、ど、どうしよう???」
 わたわたと焦り、千切れた首を持って体にくっ付けようとする人狼の少女の姿に溜息を吐く。
「いいんだよ。解って殺ったんだからな」
「え?」
 と聞き返しながら、人狼の少女は、手に付いた大島和弘の血液を舐める。
「本田総司は最後のギリギリまで生かすんだ。俺が先に吊られても、それを忘れるなよ」
 ベッドから腰を上げ、男の人狼は言う。
「本田総司は、加納遙のブレーキに生かしておくんだ。本田総司が生きている限り、加納遙に甘えが生じる。逆に、本田総司が死ねば、加納が本気で前に出てくるだろう」
「加納遙に本田総司。二人でセットなの?」
「共有者より面倒なコンビだよ」
 でさ、と人狼の少女は大島和弘の死体を指す。
「これ、どうする?」
「どうするも何も、何時もの……いや、待て」
「?」
 人狼の少女は床にしゃがんだまま、不意に黙った人狼を不思議そうに見る。
 本田総司と加納遙、二人に揺さぶりを掛けるのも悪くないか?
 アイツが『狐』だったら、多少は焦らせる事が出来るかも知れない。やってみるだけの価値はあるだろう。
 ベッドから立ち上がった人狼は、大島和弘の死体を一瞥し、興味を失ったようにドアに向かう。
「行くぞ」
「え?これは???」
 ドアの前で薄い笑みを浮かべ、人狼は振り返る。
「そのままにしておけ。死体はそのまま放置し、鍵も開けておくんだ」
 少女が不思議そうに首を傾げるのを見て、彼は笑みを深める。
「それとも……腹が減って眠れないか?」