秋田県の山中、いまは国有林とされた不毛の大地を歩く男の姿があった。
 吹き荒ぶ風が髪を乱し、巻き上げられた砂が頬を叩く。しかし、その男はただ前だけを見て歩き続ける。翻る白衣が男を引き止めるように、背後へと音を立ててはためいていた。
 躊躇いを感じさせない歩みを続ける男……花房博士だった。
 四年前、ルインの宣戦布告を遡ること一年、九条有希一尉の特攻により撃墜されたルイン・コフィンが存在した。それはほぼ無傷で地表に墜落し、その未知の科学の結晶は人類に生き残るための力を……女子力エンジンの基礎とNUSCOCONATS‐MarkⅡを与える切っ掛けとなった。
 最大幅20kmの扇状の墜落地点・エリア:00に花房博士は立つ。
 自身が導き出したルイン侵攻の真の目的を確かめるために……真の絶望を知るために。
 いまはルイン・コフィンの外殻だけが残されている、立ち入り禁止のテープが張り巡らされた洞窟の前に立ち、花房博士は過去に愛していた一人の女性の名を呟く。
 しかし、その声は吹き荒ぶ風に掻き消され、彼自身の耳にも届くことはなかった。
 
 
[萌えろ!合体美少女 茄子椰子]
第三話 恋を歌う乙女たち―前編―
 
 
 花房博士が不在の『空飛ぶ黒猫亭』は……ぬるま湯に浸かり切っていた。
 そもそも花房博士が常日頃からうるさく言っている情報収集は、完全に自動で一切の人の手を煩わせること無く収集可能なシステムが構築されている。ただそれを常時監視することによってもたらされる“人ならではのインスピレーション”に、花房博士は重きを置いているだけだった。
 しかし、その道の天才が集められたと言われる『空飛ぶ黒猫亭』のオペレーターたちも人の子である。口うるさい管理者の姿が無ければ、多少の気の緩みが出ても不思議ではなかった。
「結局……博士はどこに行ったの?」
「誰も知らないって」
「失踪?」
「だったらいいなぁ」
「博士が失踪したら、家に帰れるかな?」
「ば〜か。博士が失踪したら、あたしたちはまた少年院に逆戻りに決まってるでしょ」
「しかも、死ぬまでPCに触れなくなるのよ」
「あぅ〜」
 ノルンの娘と呼ばれる三人の少女は好き勝手な雑談をしている。
 この双子の姉妹とその妹の三人は、執拗なハッキングを繰り返し、世界の六ヶ国で指名手配を受け……花房博士に保護されていた。
 本人たちは未成年であることから少年院で更生させられるはずのところを、『空飛ぶ黒猫亭』で働くことを条件に外に連れ出されていると思っていた。三人は「強制労働だ」とか「人権無視だ」とか文句を言っていたが、生態コンピュータであるAKIと人格OSノルンを前に、態度を豹変させた。
 世界のスーパーコンピュータに直結することが可能で、全ての情報にアクセスする権利を持つノルンは、三人に取って最高の玩具だった。むろん、不必要なアクセスはノルンが許可しないが、それを潜り抜けるのは、どんなハッキングよりも刺激的だった。
 余談であるが、花房博士が三人の姉妹を保護したのは、各国の機密情報を盗み見た少女たちを暗殺する計画が、六カ国協議で可決されたからだった。もし、花房博士が失踪し、現状のまま自分たちが『空飛ぶ黒猫亭』を降りる日が来れば、大地を再び踏み締める前に暗殺されるであろうことを、彼女たちは知らない。
「でも、ほんと……どこに行っちゃったんだろ?」
 退屈そうにノルンの一番下の妹が呟き、
「地球軍の総司令官も知らないみたいですよ」
 と、通信兵の少女が答えた。
 彼女は、高校入試を有利にするための課外授業のボランティア活動という建前で、『空飛ぶ黒猫亭』のプロジェクトに参加していた。
 現在、中学三年生の女子である。
 噂では某財閥の一人娘で、いま世界で最も強固であるとされる『空飛ぶ黒猫亭』にスタッフとして参加することで、その身の安全を守られていると言われていた。が、その真偽は定かではなく、真実を知っているのは本人と花房博士だけとも言われていた。
「ほんと、こういうことされると困るんですよね」
 アヒルのように口を尖らせ、通信兵の少女は呟く。
「あ、花房博士って言えば……」
 ノルンの娘の長姉が思い出したように呟き、
「沙希ちゃんと進展あったって、ほんと?」
 と天井を向いて聞いた。
『私に聞かれてもお答えできません。プライベートルームの中の監視は許可されてませんので』
 ノルンが人工音声で答えた。
「ふむん……じゃ、さ」
 にやりと笑い、少女は質問の形を変える。
「沙希ちゃんが最後に花房博士の部屋から出てきたのは何時?通路の監視はずっとしてるよね、ノルン」
『三日前の午前五時二分です』
 その答えにブリッジに常駐していたスタッフが顔を見合わせる。いま、数少ない男性スタッフはメインブリッジに一人もいなかった。
「じゃ、そのとき……部屋から出てくる前に、沙希ちゃんが花房博士の部屋に入ったのは?」
 静まり返ったメインブリッジで……ごくり、と誰かが生唾を飲み込んだ。
『前日の午後十時四十三分です』
 黄色い悲鳴が、『空飛ぶ黒猫亭』のメインブリッジに響き渡った。
「うっそ!?マジで花房博士と???」
「やったぁ!沙希ちゃん!!」
「……信じられない」
「えー、いいじゃん。花房博士、見た目はイケメンだしー」
「おっさんじゃないの?」
「おっさんって言っても、まだ三十前じゃなかったっけ?」
「それでも、沙希ちゃんと一回り以上違うし」
「っていうか、犯罪……だよね?」
「うん。ロリコンだ」
「女の敵ね」
「じゃ……沙希ちゃんは、犠牲者?」
「乙女の敵め!!」
「死ねばいいのに……」
 通信兵の少女の呟きに、何人かのオペレーターが唱和した。
「ほんと、死ねばいいのに」
 
 その頃、メインブリッジで大事な秘密が暴露されたとも知らずに、沙希は温水プールでぼんやりと天井を眺めながら浮かんでいた。
 十四歳とは思えないゴージャスなボディを包むのは地味な競技用の水着だった。
 沙希はお臍の下に両手を重ね、幸せそうな笑みを浮かべている。
 その沙希から少し離れたコースでは、那岐がクロールでタイムアタックでもしているかのような速度で泳いでいた。無駄肉の無い、しかし、柔らかい曲線を描く腕で水を掻き、真っ直ぐに伸ばされた爪先で水を蹴る。
 手と足のタイミングだけに意識を集中し、那岐は速度を安定させて泳ぎ続ける。
 その二人が入るプールの外……プールサイドのベンチには、あきらと芽衣の姿があった。
キャミワンピ一枚の芽衣は、右目と左手首に包帯を巻いているのは以前と同じだが、いまは優しい笑みをあきらに向けて話をしている。
 クロールの息継ぎのとき、視野の隅に見えるその姿を……記憶に焼き付いて離れない芽衣の姿を思い出し、那岐は嫉妬に近い感情に揺さぶられる。
 肌理の細かい、陽の光を知らずに育ったような白い肌。闇よりも深く、青み掛かった光を返す艶やかな黒髪。いまにも折れてしまいそうな華奢な身体。そして、その全てに、手折られ枯れる運命にある花を想わせる儚さがあった。
 触れていないと消えてしまいそうな美少女……それが那岐の見た芽衣だった。
 七瀬が夢中になるのもわかる……かな。
 そのあきらは、芽衣の横に座り、薄い笑みを浮かべて小さく頷いている。
 何の話をしてるんだろう?
 息が上がってきたので、那岐はクロールで泳ぐのを止め、ゆっくりと立ち泳ぎで沙希の横に行く。しかし、二人の会話の内容を探るようなことを沙希に聞くわけにはいかない。
「……ね」
 躊躇いがちに那岐は、上を向いて浮かんでいる沙希に声を掛ける。
「はい?」
 沙希の返事を聞きながら、那岐は最近ずっと気になっていたことを聞いてみようと思った。
「あのね……ちょっと気になったんだけど……」
 いざ聞くとなると、やはり勇気がいる。が、思い切って早口に那岐は言う。
「女の子同士って、どうやるのかな?」
 ばしゃん!と水を弾き、一瞬で沙希がぶくぶくと沈む。
「な、ななななに聞いてくるんですか!?」
 半分水を飲みながら戻ってきた沙希が叫び、あきらが那岐と芽衣に目を向ける。が、それを無視して那岐は沙希に話し続ける。
「だって、あの二人……一緒の部屋に暮らしているし、どう見ても恋人同士にしか見えないし……あのとき七瀬が言った『好き』は、そういう意味でしょ?」
 沙希には言ってなかったが、二人が一緒に住みだす前に、廊下であきらの部屋に入る二人の姿を那岐は見たことがあった。
 あのとき、あきらはまるで芽衣さんを隠すように部屋に入っていった。うぅん、違う。二人で隠れるように部屋に入って行ったんだ。
「うぅ……芽衣さんとあきらさんが付き合ってるのは確かなんだけど……どうして、そんなことを」
「んと……やっぱ、気になるし」
 恥ずかしそうに言う那岐を見て、沙希は少し考え、手を添えて那岐の耳元で自分が知っている知識を囁く。
 一拍の間を置いて、一瞬で那岐は耳まで真っ赤になった。
「嘘っ!?」
 そんな那岐に誤解が無いように、沙希はもう少し詳しく説明を補足する。
「で……すると、……になるでしょ?だから、…………と思うの」
 聞きながら、那岐は水の中で太腿を摺り合わせる。保健体育の授業では教えてもらえなかったナイーブな内容に、鼓動が信じられないほど速くなる。
 自分だったら、恥ずかしくて死んでしまうに違いない。でも……それが愛し合うってことなの?
 ふと、そこで疑問が生まれた。
「沙希さん、何でそんなに詳しいんですか?」
 その素朴な疑問に、今度は沙希が赤面する。
「そ、それは……」
 自分の体験を基にした想像であるとは答えられず、沙希は下を向いてしまう。
 那岐と沙希は赤面したまま、もじもじとプールの中で、いつまでも見つめ合っていた。
 
 芽衣にミネラルウォーターのペットボトルを手渡しながら、あきらは真っ赤になって囁き合ってる二人を見る。
 ……変なの。
「でね、その子は犬の背中に乗って、いつも遊んでいるの」
 懐かしそうに笑いながら、芽衣が言うのを聞いて、あきらも一緒に薄い笑みを浮かべる。
 芽衣は以前よりも笑うようになった。しかし、その口が語るのは夢とも現実とも付かない夢のような物語が大半だった。
 正気を無くしたまま……他人なら、そう言うだろう。しかし、あきらは芽衣が正気を無くしているとは思えなかった。いや、たとえそうであっても構わなかった。芽衣が笑っていられるなら、それでいい。それだけで十分だった。
 ペットボトルを手に芽衣は、田舎の大きな家に住む小さな女の子の話をしている。
 芽衣の笑顔を守るんだ……いまのあきらには、それが全てだった。
 
 
 オーストラリアの名も無い浜辺で、アイスクリーム売りの青年が目を細めて空を見上げていた。
 地元の人たちに、シュウと呼ばれる彼は空を見るのが大好きだった。
 数週間前、彼は海に浮かんでいたところを漁船に救助された。が、ほとんどの記憶を失っていた。
 胸元と背中と両腕に奇妙な刺青があったことから、漁師たちはマフィアの抗争で海に捨てられたのだろうと思った。しかし、目を覚ました彼は穏やかで正直な青年で、とてもじゃないが悪人には見えなかった。
 もし、彼を警察や湾岸警備隊に渡したら、また命を狙われるかもしれない。
 彼の身を守るため、漁師の古株が仮の仕事を与えた。
 それが、このアイスクリーム売りだった。
 彼はのんびりと記憶が戻るのを待ちながら、アイスクリームを売って過ごしている。ときどき……空を見上げながら。
 じっと空を見ていると、ひとりの少女の面影が浮かんでくる。その元気そうな少女の名前だけは憶えていた。心に刻まれていたかのように、それだけは忘れることはなかった。
 ナギ。
 シュウは……以前は中洲中尉と呼ばれていたアイスクリーム売りの青年は、空に目を向け、いまも心の中に住む少女の名を呟く。
 
 
 四年前に撃墜されたルイン・コフィンの真奥部……と言っても、すでに何も残されていないただの空間に花房博士は立っていた。
 まるで卵の殻だな。
 ハイエナのように全てを持ち出し、研究し尽くしたのは自分だった。徒労とも知らずに……いや、あれは無駄じゃない。あれはいまも人類の最後の切り札だ。ただ……その真実に気付かないまま作り上げただけだ。
 それが花房博士には許せなかった。
 ルインの掌の上で踊らされていたなどと、誰が認められようか!!
「出て来いよ……まだここにいるんだろ?」
 返事は無い。
 それも当然だった。
 花房博士以外の人の姿は、どこにも無かった。
 ここには隠れる場所など無い。花房博士自身、巨大な卵の殻の内側に立っているようなもので、その殻の外側は隙間も無く大地にめり込んでいるのだから。
「私は待たされるのが大嫌いなんだが……それがお前らの答えなんだな」
 ひとり呟き、花房博士は背中を向け、
「待って」
 懐かしい声を耳にする。
 振り返ったそこに、以前の恋人である唯一の戦死者九条有希一尉が全裸で立っていた。
「やはり……君か」
 つまらないと言いたげに、花房博士は白衣のポケットに手を突っ込む。
「ルインも芸が無いな。“元”恋人の姿で現れれば、僕が貴様らの話を聞くと思ったわけだ」
 ふんと鼻で笑い、花房博士は有希に冷たい視線を向ける。
「で……お前は、本物の有希なのか?」
 その言葉に有希は薄い笑みを浮かべ、ほんの少し首を傾げる。
 花房博士が見知った、聞き返すときの有希の癖だった。しかし、それを理由にこれが有希だと信じるわけにはいかない。
「どういう意味?」
「私の推測ではルインは純粋な精神集合体だ。ならば、自他を認識する意識が希薄と考えるのが妥当だろう。すなわち、お前が有希の姿と意識を持っていても、別のルインでしかない可能性のほうが高いと思われる」
「でも、それを知る術はない……かしら?」
 花房博士の先を読み、有希が問い掛ける。
「確かに……その通りだ。故に、私は君に一つの質問をする。その答えで、私は君を有希かルインかを判断する」
 有希は小さく頷いて、花房博士の言葉を促す。
「君は、自ら望んでルインと融合したのか?それとも、それは特攻による偶然の結果なのか?……それを答えてほしい」
 真顔で質問する花房博士を見て、有希がお腹を抱えて笑い出した。
 笑いは外殻の内側を反響し、全ての音を消し去る。しかし、その木霊の中で、花房博士はじっと有希の答えを待っていた。
 大きな溜息を吐き、有希は小さく首を左右に振る。
「答えは……NOよ。私がルインと融合したのは単なる偶然よ。だって、あのとき私はルインが精神体だなんて知らなかったんだもの」
 その有希の言葉を聞き、花房博士は微かに目を細める。
「じゃ、今度は私に質問させて」
 顎を引き、笑みを深めながら有希が言い、花房博士は尊大に頷く。
「あなたは何を知り、ここに来たの?」
「全てだ」
 あまりの即答に有希は大きく目を見開き……ゆっくりと元の表情に戻る。
「全て?」
「そう全てだ。お前たちの人類消去計画の方法から、宣戦布告の理由……そして、この戦いの勝者まで、全てを理解し、私はお前たちに会いに来た」
 一拍の間を置き、花房博士はポケットから手を抜く勢いで白衣を翻し、外殻の内部で反響する錆のある声で叫ぶ。
「地球から立ち去れ、ルイン!貴様らが生まれた億万光年の彼方で、隠れ住むように怯えながら、人類が自らの手で滅びるのを待つが良い!!進化する術を持たないお前たちは、人類に勝つことは永遠にできないのだ!消滅を恐れるならば、いますぐにでも、この地球から離れろ!!!!」
 大きく息を吸い、
「これは警告だ」
 花房博士は、そう付け足した。
 有希は……有希の姿を取ったルインは、もう笑っていなかった。表情は変わらない。しかし、その瞳に浮かぶのは見間違いようのない殺意だった。
「お前は……ほんとうに、全てに気付いたのか?」
「お前たちの計画は理解している。少し考えれば馬鹿でもわかることだ」
 目を眇め、有希の姿をしたルインは花房博士を見る。
「精神集合体であるお前たちが、人類に対して取れる手段は、ただ一つ……強制融合だ」
 花房博士は、白衣のポケットに手を入れ、ゆっくりと抜きながら呟く。
「……有希にしたのと同じようにな」
 そして、その手を……拳銃を手にした腕を真っ直ぐに有希に向ける。
「お前を殺す前に聞きたい」
 額の中央に狙いを付け、花房博士はかつて愛した女性を……有希の姿をしたルインを見る。
「……有希は、どうなった?」
「食った」
 薄い唇をただ開き音を発するだけのような違和感を残しルインが答えた。
「あの女の精神は、その情報の全てを分解し食らい尽くした。あの女は苦痛と快楽の中で泣き狂い、お前の名を叫びながら消えて行ったぞ!花房貴博!!!」
 冷めた、汚物を見るような目で、花房博士はルインを眺める。
「お前だ!あの女の情報は間違いではなかった!お前だけが我らが領域に入門する者だったのだ!!」
 ふっと笑い、花房博士は、
「だったら、どうする?」
 銃口を下ろしながら、嘲りを含め笑う。
「絶対観測による概念の侵略を受けた、精神集合体であるお前たちに生き残る術は無い」
 ルインがじりっと前に詰める……が、花房博士はまるで興味を示さず、己の言葉に酔う。
「強制融合を果たし、人類を消去し、過去・現在・未来の全ての概念を書き換えたとしても、お前たちの滅びのシナリオを書き直すことはできないぞ。それとも……ノルン!!!!」
 爪を立て、ルインが飛び掛った瞬間!花房博士の叫び合わせ、『空飛ぶ黒猫亭』のインテリジェンス・エッジから超圧縮情報が放たれ、瞬時に解凍され……ルインを塵に変えた!
 静寂が支配するルイン・コフィンの外郭の中で、花房博士は背中を向け、歩き出す。
 そして……薄闇の中に、最後の言葉を繰り返す花房博士の呟きだけが残される。
 
――それとも……地球生命体に寄生し、共に滅びの日まで歩んでみるか?――