進藤コースケ君の受難の日々:12
 
 
 激しい雨が降っていた。
 雨粒が中庭に敷き詰められたレンガに落ち、砕け散る様まで見えていた。
 風は無く、雨は真直ぐに降り注ぐ。
 電気がショートし続けるような雨音を聞きながら、僕は……握り締めた拳で、図書館のロビーに並ぶ背の高い窓を殴り付けたい衝動に駆られていた。
 僕の横で、果歩がぼんやりと自分の足元を見ていた。
 坂本が苛立ちを隠さずガリガリと頭を掻く。
 理奈は寄り添うように果歩の横に座り、真奈美はじっと怒ったような顔で何も無い壁を睨み付けていた。
「みんな……もう、いいよ」
 果歩が小さく呟く。
「なんでだよっ!どうなってんだよ!?納得できねぇよっ!!!」
 坂本が悲鳴のような声で叫び、
「……黙れ」
 僕が小さく呟く。……と、雨音に消されそうな啜り泣きが聞こえた。
 震えながら泣く理奈の前に真奈美が立ち、優しくその髪に触れる。
 顔を上げた果歩が、優しい笑みを真奈美に向けていた。
 真奈美は小さく頷くと、理奈を立たせ、向こうのソファへと連れて行く。
「いつまで、ここにいるつもりだ?」
 ロビーの窓に、泣きそうな顔で僕を睨む坂本の姿が映っていた。
「お前も三日目だろ?そろそろ行けよ」
「……進藤」
 親の仇を見るように睨み付ける坂本の表情が、ぐらりと崩れる。……明る過ぎる果歩の声を聞いたからだった。
「こーちゃんの言うとおりだよ。さかもっちゃんは、もう行ってくれなきゃ」
 何度か口を開き掛け、坂本は僕と果歩を繰り返し見て……
「すまん」
 消え入りそうな声で、そう言い残すと夕立の中へ走り出した。
 まるで怖いお化けにでも追われるように、坂本は必死になって走っていた。
 ゆっくりと僕の横に立った果歩が囁くように呟く。
「大丈夫……だよね?」
「あぁ、あいつなら心配しなくても大丈夫だ」
 小さく頷き、果歩が僕の手の中にその指を絡めてきた。弱々しく優しいその手を僕は強く握り締める。
 あいつなら、大丈夫さ。
 
 果歩は……フィールドの展開が出来なくなっていた。
 この三日間、ありとあらゆる手を使い試したが、僕らは果歩をフィールドの中に呼び込むことさえ出来なかった。
 理由はわかっている。いや、初めて出合ったときに僕は気付いていたはずだ。
 果歩には殺意が無い、と。
 ジョーカーがフィールドを展開するには、絶対の殺意が必要になる。それは自身の死を避けるためだったり、戦いの中で享楽を得るためだったりする。
 理由がどこにあれ、相手に対する殺意が『フィールド』と言う特殊空間を開くことになる。
 しかし、果歩はその殺意を知らない。
 初めてフィールドを展開したときは、いきなりやって来て、自分をなじる僕にジョーカーを押し付けちゃえっていう、軽い……殺意にはほど遠い感情だったし、二度目に電車の中でフィールドを展開したのは、僕を惨殺しようとする行為に対する怒りが引き金だった。
 ならば、同じシチュエーションを用意すれば、果歩はフィールドを展開することが出来るのか?
 もしかしたら、可能かもしれない。
 しかし、それは不可能だった。
 僕は――進藤コースケは、この世に存在しない。
 ここにいる僕は進藤古都葉で、果歩とは単に仲が良いだけの女の子だった。
 いや、たぶん……進藤コースケがいま殺されそうになっても、果歩は殺意を見せないだろう。ただ……どうしようもない悲しみに心を引き裂かれるだけだ。
 プレイヤーとして戦いを楽しむことは出来ても、ジョーカーとして相手に殺意を持つことは出来ない――それが、いまの果歩だった。
 果歩がフィールドの展開を出来なくなって初めて知ったが、堕天使症候群で自殺させられるプレイヤーの、そのほとんどがフィールドの展開が出来なくなって時間切れになった結果だった。
 何故、殺意を持つことが出来ない人間が死ななければならないのか?
 僕は……僕だけは、その答えを知っていた。
 あいつが一番美味しく喰えるのが、その優しい人たちだからだ。
 果歩は泣かない。
 自分が時間切れになることを、嫌がり、怒り、悲しみを見せる友達に心を痛めながら……自分が、もう誰も殺さずに済むことに安堵している。
「ゲームなんだから気にしなくていいんだよ」
 みんなで繰り返し言った言葉だった。
「でも、その人が時間切れになってしまったら?」
 それが果歩の答えだった。
「あたしは……もう、いいの」
 笑顔で果歩がそう言ったとき、僕らは……言うべき言葉を失くしていた。
 
 
 図書館の閉館時間になり、真奈美と理奈を家に帰らせた。
 理奈は帰りたくないと言ったが、堕天使症候群の発動条件を説明することで納得させた。
 帰り際、真奈美が僕に、
「ごめん」
 と謝ってきた。けど、僕は小さく首を横に振ることしか出来なかった。
 果歩と二人、目的も無く歩き出し、僕は遠くの喧騒に耳を向けながら呟いた。
「どっか行きたいとこあるか?」
 その言葉に果歩は、
「学校、かな?」
 と恥ずかしそうに口にした。
「学校?」
「うん。屋上に行きたい」
 振り返ったそこに……僕が男だったら、絶対に抱きしめていたに違いないほどの、眩しい笑顔の果歩がいた。
 
 
 僕はこの数日の間、心の中で、何度もクトゥルフに呼び掛けていた。
 果歩を失いたくなかった。故に、繰り返し僕は心の中で、この現実に屈服させられていた。
 いまの僕なら、クトゥルフの足に接吻をすることを厭わないだろう。それどころか、『果歩を元に戻してやるから死ね』と言われれば、躊躇わず死んだはずだ。
 しかし、クトゥルフは僕をルルイエに召還しない。
 それは、僕の想いが弱い……からか?
 ただ自分の大事な人を守りたいから、クトゥルフの足に接吻するだけ、だからなのか?
 僕はもう果歩には何もしてやれない。
 だから、もうクトゥルフに縋るしかなかった。
 あいつを殺す。深遠なる者を……古き神の如き者を、今すぐに、この手で殺してみせる。
 だから……だから、僕にその術と力を与えてくれ。
 もう時間が無いんだ!
 聞こえてるんだろっ!!
 答えろよっ!何とか言えよっ!!
 いつものようにいやらしく覗いていやがるんだろうがっ!!!
 頼むから……答えてくれ。
 ……クトゥルフ
 
 
 ゆっくりと……嘘みたいに、ゆっくりと時間は過ぎていった。
 僕と果歩は夜の学校に忍び込み、二人で屋上に上がって、その景色を楽しんだ。
 田舎町だから夜景と言えるほどの煌びやかさは無かったが、雨上がりの星空が信じられないほど綺麗だった。
 僕と果歩は、僕らが出会うまでの子供の頃の話や出会ってからの殺人ゲームの話で盛り上がった。僕も果歩も気付いてた。僕らが絶対に未来の話をしないことを。僕らの歳なら当たり前のように口にする、恥ずかしいような夢の話をしないことを……。
「こーちゃん、さ」
「なに?」
「このまま女の子だったら、さかもっちゃんと付き合っちゃいなよ」
「やだよっ!」
 即答する僕を、果歩はいつものやさしい笑顔で見る。
「さかもっちゃん、本気っぽいよ?」
「いや、僕は、中身は男だから……」
「嘘」
 ぽつり、と果歩が呟く。
「え?」
「こーちゃんは、ちゃんと女の子だよ。自分でわかってるでしょ?」
「いや、ぜんっぜんわかんない。理解不能
「さかもっちゃん、割と顔良いし、性格も優しいし、家もお金持ちみたいだから……お奨めだよ?」
「でも、馬鹿だし、不器用だし、アームズはクマ吉くんだぞ。絶対にマザコンだよ」
 僕の坂本評を聞き、果歩が口を三角にして嫌そうに聞いてきた。
「さかもっちゃんのこと……嫌いなの?」
「別に。好きも嫌いも無いよ。ただ、あいつに興味が無いだけだよ」
「そういうとこだけ変わってないね」
「だから、僕はどこも変わってないって言ってるだろ」
 僕の言葉に、果歩は拗ねたような顔を星空に向ける。
「じゃ、さ……進藤君に、お願いしてもいいかな?」
 静かに立つと、スカートのお尻を払い……果歩はゆっくりと振り返る。
「最後のお願い……だから」
 その寂しそうな笑顔に、僕は……言葉を失う。
「……ね。キス、して」
 
 屋上の入り口になる階段に、僕と果歩は向かい合って立っていた。
「なんで、そんなことにこだわるんだ?」
「だって、こーちゃんチビっ子だし、進藤君はあたしより20cmくらい背が高かったし」
 くっ、人が一番気にしてることを……。
「あれ?気にしてたの?」
「うっさいっ!早く下に行けよっ」
 くすくすと笑いながら、果歩は階段を一段だけ下りると……踊るように振り返った。
 僕は階段の一番上で一歩前に出る。
 それで、階段の段差の分だけ僕の背が高くなった。
「これなら文句無いんだな?」
「……うん」
 恥ずかしそうに果歩が下を向いたまま答え……僕はその頬に両手をそえる。
 そこに……出会った日から毎日見せられてきた果歩の笑顔があった。どこか懐かしい……全てを許してくれそうな笑顔が僕の手の中にあった。
 果歩はゆっくりと目を閉じる。
 僕は静かに息を整えから、すぅっと息を吸い、止める。
 そして、慎重に自分の唇を、果歩の唇に重ねる。
 ぴくん、と僕の手に触れていた果歩の指が震える。
 まるで時間が止まったように、僕と果歩はじっと動かない。
 そして……重ねたとき以上に、ゆっくりと時間を掛けて、唇を離す。
 心臓の高鳴りを隠すように僕は視線を外し……口の中で唇を噛む。そうしていないと、何かつまんないことを言葉にしてしまいそうだった。
「こーちゃん……」
 小さな、ほんとうに小さなその声に僕は視線を果歩に戻す。
「ありがとう」
 僕はその言葉に、鳴りそうなほどに歯を噛み締める。
 なんで……どうして、果歩なんだ?
 他に誰かいるだろう?死んで当たり前のヤツなんか、そこら辺にゴロゴロしてるじゃないか。
 そいつらを全部ブチ殺せばいいんだっ!!!
 果歩の指先が頬に触れ、僕はビクッと我に返る。
「もう、いいの。だから……」
 濡れた感触が拭われ、果歩が階段の下から僕を抱きしめる。
「泣かないで……」
 僕が耐えられたのは……そこまでだった。
 果歩の腕の中に崩れ落ち、僕は悲鳴のような声を上げながら泣き出した。
 
 
 もうすぐ……日付けが変わろうとしていた。
 果歩は魅入られたように、屋上から自分の生まれ育った町を見ていた。
 背の高いフェンスを指先で弾きながら、果歩は小さな声で歌を歌っていた。
 その歌が不意に途切れ、小さな呟きになる。
「あ〜ぁ……ここ、昼間にも来たかったな」
「果歩……」
 フェンスに額を付けたままの果歩の肩に、僕の指先が触れ――
「いやぁぁぁああああああああああああああああっ!!!!」
 果歩が悲鳴を上げながら、僕の手を振り払った!!
「あ……」
 ガクガクと震えながら、果歩は呆然と僕の手を見つめていた。
「ご、ごめ……」
 震える唇の横を、涙が嘘みたいに流れ落ちていた。
 びくん、と震え、果歩が両手で口を押さえた。が、それを止めることは出来なかった。
 嗚咽を漏らしながら……果歩は嘔吐した。
「果歩っ!」
 傍に寄り、背中を擦る。けど、果歩の嘔吐は止まらなかった。涙を零しながら、果歩は胃液を吐き続けた。
「やだ……こんなのやだ……死にたくない。……死にたくないよ」
 ぶつぶつと呟きながら、果歩は狂ったように髪を掻き毟る。
「怖いよ。……やだよ。……死にたくないよ」
 幼い子供のように泣き出した果歩が、ゆっくりと恐怖に歪んだ顔を上げる。
「……こーちゃん、助けて」
 その怯えた目に耐え切れず、僕は果歩の頭を胸に抱き抱え……己の愚かさに歯噛みした。
 怖くないわけがない。平気なわけがあるはずない。果歩は、果歩はずっと訪れる死に怯えながら、それに耐えていたんだ。
 なのに、僕は諦めたように俯く果歩に苛立ち、どうしようもない現実に腹を立て……結局、何も出来ずにただ無駄に時間を過ごしただけだった。
 この三日間で、僕は果歩に何を言った?果歩のために何をした?
 僕は……何もしていなかった。
 果歩のためには、何一つしていなかった。
 自分のことしか考えていなかった。
 僕は、自分のことしか考えていなかった!
 くそっ……くそっ!くそぉおお!!!
 気が狂いそうなほどの後悔の中で、僕は叫ぶ。
 誰でもいい!助けてくれ!!
 もう……もう時間が無いんだ!
 クトゥルフでも誰でもいい……僕は何でもする。殺されたって文句は言わない。だから……この時間を止めてくれ!!
 果歩を助けてくれ!!!
 しかし、誰も……何も答えてはくれなかった。
 ただ時間だけが、当たり前のように流れていった。
「……こーちゃん」
 果歩が僕の名前を呼んでいた。……が、僕は、僕には何も出来なかった。
 そして、抱きしめた僕の腕の中で、果歩の身体が小さく跳ね……
 
 世界のどこかで時計の針が重なった。