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進藤コースケ君の受難の日々:13
震える果歩の肩を抱きながら、僕はその瞬間に身構える。
学校の屋上、身近にプレイヤー……堕天使症候群の発動条件は揃っている。
フィールドの中で僕は殺され、果歩は屋上から飛び降りるだろう。
その運命を違えることは僕には出来ない。
だから、その後で、僕は……こっそりと果歩を埋葬するつもりだった。
あの醜い翼を生やした果歩を誰にも見せたくなかった。警察に解剖なんかさせたくなかった。
僕の我侭かもしれない。でも、果歩は綺麗なままでいて欲しかった。
一秒……また一秒、時間が過ぎていく。
その時間が長過ぎると気付いたとき、震える果歩の手が僕の肩に触れた。
「く……」
「果歩?」
俯いたままの果歩は僕の呼び掛けに答えず、
「くふふ……ふはは……ふははははははは」
膝を着いたまま、身を仰け反らして笑い出した。
呆然とする僕の前で、果歩は……果歩だったものは、歪んだ笑みを口元に浮かべ、その視線を疎ら町の灯が見えるフェンスの外に向けた。
「あやつめ、妾の存在に気付いたら、慌てふためくように逃げよったわ」
くくく、と喉の奥で笑い、僕に挑戦的な目を向ける。
「どうした?」
「ク……クトゥルフ?」
「うむ。妾じゃ」
答えながら、クトゥルフは僕の肩に縋り、不器用に立ち上がる。
「な、なんで?」
呆然と呟く僕を、果歩だったものは首を傾げながら見て……組んだ指先で自分の頬に触れた。それは見間違いようのない、クトゥルフのいつもの仕草だった。
「同じ封印され身……あやつに出来て、妾に出来ぬ道理は無かろう?」
何を言っておるのじゃ、お主は?
そう言いたげにクトゥルフは僕を見る。……けど、どうなってるんだ?ここはフィールドの中じゃないし……いや、違う。それより……
「果歩は!?果歩を、どうしたんだ!!?」
這いずるように果歩の足に縋り付き、僕は悲鳴のような声で叫んでいた。
「姦しいヤツじゃな」
クトゥルフは小指で耳に掻きながら、呆れたように溜息を吐く。……果歩の姿形で。
「小娘なら時間切れになる前に、その精神を凍結してあるわい」
「凍……結?」
「うむ。いくら妾でも時間を止めることは出来ぬからな。なので、小娘の方を止めたのじゃ」
「じゃ……じゃぁ、果歩は?」
クトゥルフは満足げな猫のような笑みを浮かべ、
「妾に感謝しろ」
と答えた。
その笑顔を見て、僕は……ぺたっと、その場に座り込む。全身の力が抜けて、呆けたみたいに何も考えれなくなった。
「あは、あははは」
気の抜けた笑いを漏らす僕を、クトゥルフが苦々しく顔を歪めて見る。
「何を泣いておるんじゃ。……情けない」
情けないと言われようと、馬鹿にした目で見られようと、もうどうでも良かった。
果歩は、まだ無事だった。
その事実に、僕は心の底から安堵していた。
果歩が無事だと知ったら、今度は全く違う問題が無事じゃないことに気付いた。
今はもう深夜過ぎなのに、僕は家に何の連絡も入れてなかった。
終電も終わった駅前で、僕はタクシーを捕まえて、クトゥルフを押し込んで家の場所を言う。
のんびりと走るタクシーの中で、僕は頭を抱えていた。
どうしよう?
クトゥルフが言うには、果歩は友達の家に泊まると家族に伝えているので、そちらへの連絡は必要無いとのことだった。
……が、問題は僕の家の方だった。
門限の午後六時を七時間オーバーである。門限抜きでも、午前一時の帰宅は、説教されても文句の言えない時間だった。
家の前で停まったタクシーから飛び降り……僕は建売一戸建てお約束の細くて四角い鉄パイプの門の前で固まる。
カーテンを閉め切ったリビングから中の光が漏れていた。
両親はまだ起きて、僕の帰りを待っていた。
当然といえば当然だが、その事実に僕はこの場から逃げ出したいほどの焦燥感に襲われる。
ど、どどど……どうしよう?
と、思う間もなく、あっさりとクトゥルフが呼び鈴を押した。
ピンポーン♪
深夜の住宅地で、嘘みたいに呼び鈴の音が鳴り響いた。その音に僕は飛び上がる。
「ばっ!なにやってんだよっ!!?」
声を殺して叫ぶ僕の耳に、家の中から走ってくる二つの足音が聞こえてきた。
派手な音を立てて玄関が開かれ、僕はビクッと身を縮める。恐々と顔を上げ……そこに怒りでブチギレ寸前のクソ親父と半泣きのお母さんの姿を見る。
「あ……」
さり気なくクトゥルフが頭を下げているのも気付かず、僕はズンズンと近付いて来るクソ親父を見て、
「ご、ごめ……ふぎゃっ!!?」
拳骨で頭を殴られ、踏まれた猫みたいな声を上げた。目の前がチカチカして、鼻の奥がきな臭くなる。
「今何時だと思ってるんだ!?」
近所迷惑を無視したクソ親父の叫びが耳に痛かったが、僕は割れそうな頭を抱えて睨み返すことしかできなかった。
その後のことは、あんまり思い出したくなかった。
クソ親父は玄関先で説教を始めるし、お母さんも一緒になって半泣きのまま文句を言って来るし……クトゥルフはクトゥルフで嘘泣きを始めるし……とてもじゃないけど、素直に謝れる状況じゃなかった。
クトゥルフの嘘泣きを見抜けないクソ親父は、僕が果歩を連れ回していたと勝手に脳内変換し、怒りの方向を門限破りから日頃の生活態度に変更しやがった。
「お前がちゃんとしないで、どうするんだ?」
果歩の容姿に騙され、クトゥルフは心から反省していると思っているクソ親父は、僕にばかり文句を言っていた。けど、はっきり言って、騙されるのも仕方ない、とも思う。
ぽろぽろと涙を零し、絶妙のタイミングで詰まりながら謝る果歩は、誰がどう見ても自分のしてしまった過ちに怯える子供だった。
まぁ、だからこそ『友達と別れた後、二人でカラオケに行ってて、時間を忘れて遊んでいた』なんて言い訳にリアリティが生まれるんだけど……なんか納得できなかった。
心の底から本気で、「こいつはずるい」と思ってしまう。
あんまりクソ親父がしつこく怒るので、本気で一発ぶん殴ってやろうかと思ってたら、お母さんがその場を纏めに掛かった。
「もうこんな時間だし、二人も反省してるみたいだから、そろそろ休ませて上げてください」
憮然としながらも時間が気になったのか、クソ親父は渋々折れた……が、背中を向ける前に、
「小遣いは全額没収だ!それと一週間は外出禁止だからな!!」
そう言い捨てて、家の中に入っていった。
僕の部屋に入り、クトゥルフは腹を抱えて笑い出した。しかも、完全に声を殺しているのが腹立たしい。
「何が可笑しいんだよ?」
「お主の膨れっ面じゃ」
くっと僕は喉の奥で怒りの声を噛み殺す。
「あんな顔をしておれば、許したくても許せぬであろうが」
自分がどんな顔をしていたか自覚があるので、これには反論できなかった。
「さて、せっかくじゃから、ここで妾が良い知恵を授けてやろう」
「お前の知恵なんかいらない」
不貞腐れる僕を笑いながら、ベッドに腰を下ろし、クトゥルフは優雅に足を組む。
「まぁ、そう言うでない。簡単なことじゃ……。今日の出来事を反省した手紙を書き、お主の父親の枕元にでも置いてやれば……さて、どうなるかの?」
「え?」
予想外だったその言葉に、僕は椅子に座りかけたままの姿勢で動きを止める。
「くふふ。お主は素直じゃないから、面と向かっては謝れぬ。されど、その心は両親に心配を掛けてしまったことに張り裂けそうになっておる。……そのような文面で書ければ、申し分無かろう」
確かに、その通りだった。小遣い全額没収は痛いし、外出禁止なんか冗談じゃない。なら、それくらいはやってもいいかもしれなかった。
僕は机の中から、買っただけで使ったことの無いレターセットを取り出し、中の便箋を広げる。
クトゥルフはベッドに座ったさっきの姿勢のまま、にやにやといやらしい笑みを浮かべていた。
僕が素直に言うことを聞いて便箋を出したことに気を良くしているみたいだった。
ま、こいつのことは無視で良いとして……問題は、どこから攻めるか、だった。
指先でシャープペンを弄びながら、しばらく考え……僕は正攻法で行くことにした。
『お父さん、お母さん、今日は心配をかけてごめんなさい。本当はすぐに謝りたかったけど、お父さんがすごく怒ってて…………』
書き上がった手紙は……両親の枕元に置かず、食卓の目立つところに置いてきた。
これでダメなら、次の手を考えるまでだ。
翌日は、朝からお母さんと昨日のことで反省会を開かされた。
ここでもクトゥルフは大人しい良い子を演じ、僕は色んな意味でこいつが信じられなくなった。
ちなみに、手紙作戦は成功したようで、クソ親父は僕の手紙を懐に入れて、男泣きのまま会社に行ったそうだ。……が、お母さんはそこまで甘くなかった。
先ず、昨日一日中、僕が携帯電話の電源を切っていた理由を、かなりしつこく問い詰められた。
門限を守らなかったのも、連絡を入れなかったのも、『忘れていたからではなく、わざとだった』と疑われていた。
「“信用している”と、“心配しない”は、違うんだから、もうちょっとちゃんとしなさい」
そう言われてしまえば、僕に反論が出来るはずがなかった。
「ごめんなさい」
横で、クトゥルフも自分が言われたように謝る。この辺のポイントの取り方は見習った方が良さそうだった。
「もう子供じゃないんだから、ふらふらしてたら危ないの……ちゃんと解ってるでしょ?」
僕は再び頷き、クトゥルフも小さな声で謝る。……けど、昨日の夜、「妙案の報酬じゃ」とか言って、こいつが僕の身体にしようとしたことを知れば、きっと『一番危ないのは、こいつだ』とお母さんは言うに決まっている。
僕の貞操が守られたのは、単に果歩の体力が消耗されてて、クトゥルフが起きていられなかったからだった。
「お小遣いに関して、もう一度お父さんと相談してあげるけど、あんまり期待しないでね」
「うん。ありがと」
「それと外出中は、絶対に携帯電話の電源を切らないでね。こっちから急用で連絡を入れないと駄目なこともあるんだから」
「ん。わかった」
ちなみに、僕が帰ってくるまで、両親はずっと警察に捜索願いを出すべきか相談していたそうだ。
そう聞かされると、やはり事前に手を打っていなかった僕の甘さが浮き彫りにされる。
最悪、堕天使症候群の真っ最中に警察に突入されていたかもしれないからだ。
もし、そうなっていたら……果歩が学校の屋上から飛び降りるのを止めるために、警察官の何人かは殉職することになっていたはずだった。
過去に一度だけ堕天使症候群を止めようと周囲の人が駆け寄ったことがあった。
その結果は……正気を失った発症者による惨殺という最悪の事態を引き起こしていた。
自らの死を邪魔する存在を引き裂き、握り潰し、締め上げ……そいつは止めようとしていた人間と一緒に学校の窓から飛び降りた。
IFの世界を想定しても意味が無いと解かっているが……それでも考えずにはいられなかった。
まぁ、でも、いつまでも過ぎたことを気にしても仕方ない。いまは外出禁止が緩和されたことだけでも素直に喜ぼう。
お母さんとの話が終わり、部屋に戻ると当たり前のように、クトゥルフは僕のベッドに座る。
じろっと睨むが、クトゥルフはいやらしいにやにや笑いを浮かべているだけだった。……が、こいつには聞きたいことが山ほどあった。
「お前は、いつまでそうしていられるんだ?」
一晩寝たお蔭で、僕はそれなりに冷静さを取り戻していた。
古き神の如き者はフィールドの中で、しかも堕天使症候群の時だけという、かなり限定された状態でプレイヤーに憑依していた。
ルルイエに封印されているべき存在であるクトゥルフが、通常空間で果歩に憑依している……普通に考えれば、かなり無茶なことをしているはずだった。
「ふむ。昨日の様子ではどうなるかと思ったが……それなりに頭は動いているようじゃな」
組んだ指先を頬で遊ばせながら、クトゥルフは果歩の顔に歪んだ笑みを浮かべさせる。
「お主の予想通り、妾はそう長くは居られぬ。せいぜい残り一週間が限度じゃ……の」
一週間……か。
「して、どうする?」
「どうするって?」
僕は横目でクトゥルフを見ながら聞く。質問の意味は解かっていたが、自分からそれを口にする気には、どうしてもなれなかった。
優雅に足を組み替え、クトゥルフは果歩の顔に似合わない下品な笑みを浮かべる。
「もちろん、このまま小娘を見殺しにするか……妾の足に接吻をするか、じゃ」
振り返り際に、思いっ切りこの蛸女の頭を引っ叩ければ……どれだけ気持ちがいいだろう。でも、それをすれば、クトゥルフは果歩の身体を捨て、己が封印されているルルイエに姿を消すだろう。
短気を起こして、果歩の命を散らせるわけいにはいかない。
僕には自分にそう言い聞かせて……
「って、なに靴下を脱いでんだよっ!!?」
「ん?」
「ん、じゃないだろ?どうして僕が返事をする前に靴下を脱ぐんだ?僕がお前に屈服するのは決定済みか?もう変えられない運命とか言うつもりか?それとも――」
「うぐっ!?」
靴下を脱ごうと前屈みになった姿勢のまま、クトゥルフが驚愕に目を見開いた。
「え?」
「うぬ、ぅ……」
苦しげに呻きながら、じっと顔を下に向けて自分の足元だけを見ている。
「おい、どうした?」
「うぬ。実は……」
本気で動揺しているのか、珍しくクトゥルフの視線が泳いでいる。けど、何だ?
「乳がつかえて爪先に手が届かぬ」
「膝を曲げろよ」
「おぉ、そうじゃったな」
嬉々とした表情を浮かべ、クトゥルフはガバッと足を開き、踵を太腿の上に乗せる。スカートの裾が乱れ、僕は慌てて背中を向けた。
視線を外した僕の耳に楽しそうな果歩の声が聞こえる。
「しかし、あれじゃな……この小娘も」
ん?
「けしからん乳じゃな。……お主とは大違いじゃ」
「うっさい!大違いとか言うな、馬鹿!!」
脱ぎ終わった靴下が、ぽいぽいっと投げ捨てられる。けど、他人の部屋で靴下を脱ぎ散らかすなよ。
落ちた靴下を拾い、ベッドを振り返ると、足を組み直したクトゥルフが、スカートの広がり具合を微妙に調整していた。
右足を上に組み、後ろに回した左手に体重を掛ける。ベッドが軋み、小さな音を残した。
恍惚とした笑みを浮かべ、クトゥルフは僕がその前に跪くのを待っている。けど……僕は手に持った靴下に視線を落とした。
ぶっちゃけ、生温かい。
昨日は、朝から図書館にみんなで集まり、夜は学校の屋上に行き、僕の家に帰ってからも果歩の足は靴下を履いたままだった。
帰ってきた時間が時間だったし、朝からお母さんの説教があったので、僕もクトゥルフも、まだお風呂には入っていない。っていうか、こいつは寝るときも靴下を脱いでなかったんじゃないか?
「……クトゥルフ」
「ん?」
いまにも歌いだしそうな上機嫌さでクトゥルフは返事をして、
「足、洗ってこいよ」
一瞬で、顔を真っ赤にして膨れ上がった。
「こ、こ……この、無礼者めがっ!!!」
真っ直ぐに下ろした髪が広がるほどの勢いでクトゥルフは喚き散らす。
「妾の足が汚いをぬかすかっ!!この痴れ者めが!!どの口を持ってそれをぬかすかっ!!!」
いまにも噛み付きそうな表情でクトゥルフは牙を向く。……が、所詮は果歩である。その迫力は近所の野良猫以下だった。
「いや、お前じゃなくて果歩の足が、なんだけど……」
「戯言をぬかすなっ!お主はいま妾の足が臭いと言外に言ったであろう!!!」
「じゃ、お前もこの靴下の臭いを嗅いでみろよ」
ぽいっと投げた靴下が、優雅な放物線を描きながら……クトゥルフの頭の上に落ちた。
「あ……」
頭に靴下を載せたままクトゥルフは愕然とした表情で凍り付いた。……じわり、とその目に涙が溜まる。
ゆっくりと顔を伏せたクトゥルフの頭から靴下が落ち、その唇が小さな呟きを漏らした。
「……なぜじゃ?」
大粒の涙を零しながら、クトゥルフはその細い果歩の肩を震わせる。
「なぜ、このような屈辱を味あわされねばならぬのじゃ?」
いや、その……だから、わざとじゃないんだけど?
「ごめん。狙ったわけじゃないんだ。その……偶然ってヤツで、不幸な事故だよ」
ぐすん、と鼻を鳴らして、クトゥルフは悲しそうな目を僕に向けた。
「妾だって、男のお主の方が良いのじゃ。男のお主に足に接吻をさせたいのを我慢しているのじゃ。なのに、この仕打ちは何じゃ?」
その言葉に、僕の中の同情心が一瞬で霧散する。
「ちょっと待て」
「ん?」
けろっと泣き顔をやめ、クトゥルフが顔を上げる。
「お前、前にあいつにバレるのがヤバイから僕を男に戻せないとか言ったよな?」
「うぬ」
素の表情でクトゥルフは頷いた。
「だったら、もういいだろ?お前が殺人ゲームに介入しているのは、もうあいつにバレバレなんだろ?」
僕の言葉を聞きながら、クトゥルフは胡乱な目を窓の外に向ける。
「おいっ!無視すんなよ」
ふっと息を抜き、クトゥルフは顔を戻し、さっくりと言い切った。
「駄目じゃ。今だけはお主を男に戻すわけにはいかぬ」
「どういう意味だ?」
「それは言えぬ。お主が妾の足に接吻するなら話は別じゃがな。……とは言うものの、それではお主も納得できぬか」
指先で己の頬を愛撫しながら、「致し方あるまい」とクトゥルフは僕を男に戻せない理由を説明した。
そして、全てを納得した僕は……クトゥルフの足に接吻をした。
それだけの価値のある話を、クトゥルフが僕にしたからだ。