scene-02
 
 
 そこは確かに病院の待合室と受付だった。……だったが、これは何だ?何が起こったんだ???
 無数の弾痕のある壁。バリケードのように積み上げられた長椅子や机。それで塞がれたドアや窓。それに、無数の靴跡のある埃の溜まった床。
 古い戦争映画で、こんなシーンを見ただろうか?
 いや、記憶にあるあの映画は教会だったはずだ。病院とは違う……違うが、ここは間違いなく戦場だった。
 それも過去の戦場だ。
 床に降り積もった埃の層が、病院として使われていたのは過去だと物語っている。
 ここは廃棄された病院だ。
「なにしてんだよ、置いて行くぞ」
 待合室の奥にあるエレベーター横の階段の手前で朽木が呆れたように待っている。犬のコーギーも楽しそうにわふわふと言っている。きっと長い尻尾があれば盛大に振って

いるんだろう。
「あ、あぁ……すまない」
 曖昧な返事をしながら朽木の待つ階段へと近付く。
「エレベーターは使わないのか?」
 エレベーターは電気が来ているのを示すかのように、階数表示が明るく点灯した。
「この建物の古さを見ろよ。ボタンを押してドアは開くだろうが……お望みの階数に行く前に、地獄に真ッ逆さまだぜ?ま、ここが地獄だけどな」
 くっくっくっと喉の奥で朽木は楽しそうに笑う。
 コーギーに案内されるままに、二階三階と階段を登って行く。
 横にエレベーターがあるのに、無駄に体力を使わされているような気分だ。
 と、不意に轟音と共に床が震える。
地震?」
 反射的に頭を庇いながら身を伏せる。
 そして、朽木は呆れたように溜息を吐き、天井に目を向けている。
 床が震えたのは一瞬で、もう何も感じない。
「な、何だ?」
 何が起こったのか理解出来ずにいると、朽木が振り返り、「行くぞ」と短く言った。
 素直にそれに従い階段を走るが、心の中でさっきの振動が気になっているのを感じる。
 いったい何が?
 踊り場で曲がる度に背後を振り返っていると、
「エレベーターだ」
 唐突に朽木が口を開いた。
「地下駐車場のヤツが生き残ってたんだろうな。それが待合まで来てエレベーターに乗ったんだろう」
 それを聞き、僕は足を止める。
「どうした?」
 数歩進み、不思議そうに朽木が振り返る。
「た、助けに行かなくちゃ」
 朽木が心底呆れたように溜息を吐き、ゆっくりと首を左右に振る。
「誰を、だ?エレベーターのヤツならもう死んでるぜ。知っているか?エレベーターってのは落ちたらそれで終わりじゃねえんだよ。釣り合いを取る為の重りが落ちて来るん

だよ。エレベーターの大きさにもよるが、ここのエレベーターなら500kgぐらいの重りが使われているだろう。それがエレベーターの落下によって切れた状態になる。エレベー

ターは落ち、500kg近い重りがその上に落ちて来る。……理解出来るか?」
 ゆっくりと喉が動く。
「それとも地下駐車場を抜けて来た他の誰か、か?だが、よく耳を澄ませ。銃声が聞こえて来ないだろう?つまり、リロードの仕方が分かっていないんだ。その状態で……銃

を使えない状態でゾンビから逃げ切れるか?答えは……Noだ」
「だけど、誰かまだ――」
「俺は助けには行かない。お前も助けには行かない。俺達は、二人でここから脱出をするんだ」
「僕は――」
「それに聞こえるか?」
 言い掛けた言葉に重ねるように朽木が僕に問う。
「え?」
 ほら、と言うように下の階を顎で示す。
 後ろを向いた向こう……そこから微かに重なり合う呻き声が、這いずるような無数の足音が聞こえた。
「そ、んな……」
「ゾンビ達を蹴散らして助けに行くなんて、俺には無理だ。もちろん、お前にもな」
 朽木が言った。が、どうしてこんなに近くまで来てるんだ?充分に距離を稼いでたはずだ。
「お前の疑問に答えてやろう」
 面白そうに朽木が口を開く。
「どうして、こんなに近くにゾンビがいるのか?それがお前の疑問だろう?」
 僕は呆然としたまま振り返り、曖昧に頷く。
「答えは簡単だ。ゾンビは疲れないからだ。それに角を曲がるのに減速をしないしな。生きている人間は先の見えない角では無意識に減速をする。どんなに急いでいてもだ。

だが、ゾンビは一定のスピードで先に進み続ける」
 朽木はゾンビとの距離が離れていない理由を説明する。が、僕はそれを聞いていなかった。聞いている余裕は無かった。
 徐々に大きくなる呻き声と這いずるような足音が……間違いなくここに迫っていた。
 アレが来ている。腐った醜悪なゾンビが……。血肉で汚れた歯を剥き、這いずるように、生きている人間を追い続けるゾンビが……。
 膝がガクガクと震え、その場で崩れそうになる。
 逃げるんだ。逃げるんだ。逃げるんだ。逃げ……そう思いながら、僕はその場に崩れそうになる。
 諦めたように銃を下ろし、力が抜けたように階段の手摺に寄り添う。
 朽木が冷めた目で僕を見ていた。冷たい、誰も助けようとしない男の目だった。興味を失ったように顔を前に向け、朽木は一人で先に進んで行く。
 そして、僕はここで先に進めなくなる。
 埃の積もった階段が目の前にあった。無数の靴跡。その中に明らかにおかしい物がある。引き摺ったような足の跡があった。よく見ると微かな血の跡のようなものが点々と

落ちている。あぁ、きっと僕はここで死ぬん
 
「バウ!!」
 
 不意にコーギーが吠えた。
 その声に導かれるように僕は顔を上げる。
「バウ!バウバウ、バウ!!」
「え?」
 コーギーは僕が顔を上げたのを見て、背中を向けて走り出す。
「時間が無い。行くぞ」
 朽木が短く言い、先に走り出す。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
 よろけるように足を一歩前に出す。バランスを崩し、階段に拳銃を持った手を着く、が先に進もうと足は階段を蹴る。
 指の腹に、感じる埃の感触が不快だった。
 こんなところで死ぬのは絶対に嫌だった。
 そして、僕は思い出す。
 朽木の言葉通りなら、僕はもう死んでいる事になる。
 脳裏に浮かぶ、黒いセーラー服の女子が拳銃を構えている姿。
 僕は本当に死んだのか?だったら、僕はあの子に殺されたのか?
「チクショウ!死んでたまるかよっ!!」
 そして、朽木が走りながら言う。
「いや、もう死んでるし」
「ふざけるなっ!!」
 叫びながら階段を駆け上がる。朽木に追い付き、そのまま全力疾走で追い越して行く。
 コーギーの背中を見失わないように前だけを見て、どこまでも続く階段を僕は走り続けた。
 
 
 永遠に続いてるように思えた階段も、十階で終わりだった。
 この先が屋上である事を示す、中途半端な階段の折り返しが踊り場の向こうに見えていた。
 屋上への階段の手前で足を止め、階数表示を見返す。
「こっちだ」
 僕を追い抜き際、朽木が叫ぶ。先を走るコーギーの後姿も見える。
「ここだ。この部屋だ。そこから飛べっ!!」
 病室の前で朽木がドアを開いている。が、飛ぶ?
 朽木に追い付き、足を止める。と、その光景が目に飛び込んで来た。
 血に汚れた白いベッドがあった。黒い簡易的なソファもあった。白いキャビネットがあった。折り畳み椅子があった。そのどれもが一対で、そのどれもがボロボロで、埃ま

みれだった。
 二人部屋だろうか……いや、違う。そうじゃなくて、これは……
 その病室は窓硝子が外され、外からの空気が流れ込んでいた。
 呆然と佇む僕の髪が、窓からの風で弄られる。
 暗い、星の無い空がそこには広がっていた。
 十階の階数の所為もあるだろうが、窓からの景色はとてつもなく広大に感じた。
 そして、
 
「わおーんっ!!!!」
 
 雄々しい遠吠えと共にコーギーが窓から飛んだ。
「飛ぶなっ!!!」
 思わずツッコミを入れたが、その相手の姿は窓の外に消えていた。
「ちょ、どうすんだよ?死んだぞ、この高さから落ちたら普通死ぬぞ?」
 ほとんどパニック寸前で窓に走り寄る。いや、飛んだように見せ掛けて、実は窓際の桟かどっかにちゃっかり座っているに決まっている。
 人懐っこいコーギーの笑顔を期待して窓の周囲を見るが……小型犬の姿はどこにもなかった。
「そんな……コーギー……」
 窓の外に顔を出しながら呆然と呟く。
「いやいやいや、コーギーは死んでないし。ってか、勝手に殺すな」
 ぺしっと軽く後頭部を叩かれる。
「ほれ、そこにいるだろ?」
 そこと朽木が指差したのは、窓の下で……小さな、マットレスだろうか?それを数個広げてある窓の真下だった。
「きゃうきゃうきゃう」
 遠くに見えるコーギーの吠え声はまるで子犬のように聞こえた。いや、ちょっと待て……。
「な、無事だろ?」
「うん。無事なのはいいけど……それよりさ」
「ん?」
 朽木はにやにやと笑っている。
「さっき飛べって言ったよな?いや、間違いなく言っていたぞ」
「あぁ、そう言ったんだ」
 そして、僕は窓の下に広げられたマットレスを見て言う。
「飛べって、ここからか?窓から飛んでマットレスに着地しろってのか?」
「その通りだ。犬でも出来るんだ、余裕だろ?」
「犬じゃあるまいしそんな芸当出来るかっ!!!」
 くっくっくっと朽木は喉の奥で笑う。
「気持ちは分かるけどな、あんまし時間が無いんだわ。諦めてここ――」
 と、唐突に下の階の窓が突然割られた。
 窓から椅子が硝子と共に落ちる。あれは、六階か?
「おや、まだ生き残りがいたのか」
 興味も無さそうに朽木が言う。が、次の瞬間、セーラー服の少女が窓から飛び降りた。
「危ないっ!!」
 僕は反射的に叫ぶ。が、それは意味を成さなかった。六階から飛び降りれば危険なのは当たり前だ。しかし、それ以上の危険がそこにあるから飛び降りたんだ。
 だが、それは何の解決にもならない。ゾンビに喰われるか、窓から飛び降りるかの違いだった。どちらにしろ助かる事は出来ない。が、彼女は着地と同時にゴロゴロと地面を転がった。
 ほぼ垂直に落ちたのに、何で転がってるんだ?
「おぉ〜、あれって五点接地だっけ?」
「五点接地?」
 聞きなれない言葉に僕は顔を上げる。
「落下傘部隊なんかで使われる着地方法らしいぜ。俺も実際にやっているのを見るのは初めてだけどな、と……聞こえるかぁ!!!」
 窓から身を乗り出し、朽木が叫ぶ。
「無事ならその犬に着いて行けっ!!!次のポイントまでの道案内をしてくれるはずだっ!!!!」
 少女の横に素早くコーギーが走り寄る。
 一瞬だけ振り返り、少女はコーギーと走り出す。
 真っ直ぐに走るその姿は、二度と振り返る事無く闇に消える。
 その後ろ姿を見送り、僕は素直な感想を口にする。
「なぁ……あの子」
 横目で朽木を見る。
「すっごい目で睨んでなかったか?」
「やっぱ睨んでたよな」
 朽木は拳銃を持った手で後頭部を掻いている。
「ま、恨まれる自信はある。それより……」
 じっと朽木は僕の顔を見返す。
「ん?」
「いや、ん?じゃなくて飛べよ」
 真っ直ぐに拳銃を向け、繰り返して朽木は言う。
「……飛べ」
 拳銃で僕に狙いを定めたまま、無感情に言う。……まるで、ここから飛ばなければ撃つと言うように。
 銃口に目を向けたまま、背中に窓枠を感じるまで下がる。
 本気か、と聞く事も出来ない。そんな余裕は僕にも朽木にも無かった。
 飛ぶ。十階の窓から地面に敷いてあるマットレスまで飛ぶ。マットレスは多少のクッションになるだろうが、十階から落ちた衝撃を吸収してくれるだろうか?
 いや、例え衝撃を吸収してくれるにしろ、ここから下に敷かれたマットレスに狙い通りに落ちる事が出来るだろうか?
 違う、そうじゃない。それは正直な意見じゃない。
 はっきり言って……僕は十階の窓からダイブするなんて度胸は無かった。
 僕には不可能だ。例え、拳銃で脅されていても、だ。
 長い沈黙の後、不意に朽木が笑い出す。
「くっくく……ふふ……ふはははっは」
 釣られて僕も曖昧な笑いを漏らす。
「あは、あはは……はは」
 銃口を上に向け、背後をちらっと見ると朽木は「冗談だ」と短く言った。
「脅してどうこう出来る問題じゃないからな。俺はお前に何も強要はしない」
 言いながら、二歩、三歩と朽木は横に移動する。
「ここでゾンビに喰われて死ぬのも人生だ」
「え?」
「下では一分も待ってられないぞ。決めるなら即決で決めろ」
 言うが速いか、朽木は窓から飛び降りていた。
 セーラー服の少女のような優雅さは無いが、朽木は難なくマットレスの上に落ち、そのまま立ち上がる。
 嘘みたいに呆気なかった。
 地面に降りた朽木は、拳銃を構え、周囲を警戒しているようだった。
 そんな様子を見て、僕は小さな疑問を口にする。
「いま……I can flyって叫んでなかったか?」
 が、そんな僕の疑問は部屋の外、廊下から聞こえた物音で霧散する。
 まさか、もう来たのか?
 拳銃を構え、どこかに逃げ場所がないかと周りを見る。しかし、どこにも逃げ場所は無かった。
 いや、そこだけは変わらずにあった。背後の、十階の窓の外だけはあり続けた。
 しかし、僕はその無表情に口を開けている窓に向かって叫びたかった。心の底から叫びたかった。
 不意に窓の反対側、ドアに向かって走る。
「チクショウっ!!飛んでやる。飛んでやるよ、サノバビッチ!!!ジーザス・クライスト・バナナ!!!!」
 大きく息を吸い、腹の底から声を出す。
「アァァァアアアイイイイ、キャァァァアアンンントトトト……」
 一気に駆け出し、窓枠に足を掛け、
「フラァァアアアアイイイイイイっ!!!!!!」
 思いっきり飛んだ。
 鳥じゃないんだから、人が飛べる訳が無いんだよ。だから、I can’t flyが正しいんだ。
 そう、人間は、僕は空を飛べない。
 だけど僕は……暗い窓から、間違いなく飛んでいた。