台風と湖
 
 
 パンダの森の入り口に、大きな猫の姿をしたクロと、タオという女の子が住んでいました。
 まだ、一緒に暮らし始めたばかりなので、森のパンダ達や里の人達が、よく遊びに来ます。
 でも、本当は二人のことが心配なんでしょうね。
 
 
 その日も、いつものようにチェンタイおじいさんが遊びに来ました。
 チェンタイおじいさんは、クロを育ててくれたパンダです。
 お土産にクロが大好きな笹茶を持って来てくれました。
 さっそく、タオがお茶の用意をしました。
 三人で楽しくお茶を飲んでいると、おじいさんが思い出したように言いました。
「明日、台風が来るらしいなぁ」
「この家は頑丈だから大丈夫です」
 タオが、にこにこと笑いながら言いました。
「うん?いやいや、この家が大丈夫なのは分かっているよ」
 おじいさんは、そう言ってクロの方を見ました。
「クロ。今年も勝負するのかぃ?」
「勝負?」
 おじいさんが何を言ってるのか分からないタオは、クロの顔を見ました。
 クロは、大きな目をらんらんと光らせていました。
「もちろんだよ。今年は負けないよ」
 話のつながりが分からないタオは、もう一度、おじいさんとクロに聞きました。
「え?何と勝負するの?」
「台風だよ。今は、2勝5敗4引き分けなんだ」
 タオは、びっくりして何も言えません。
「いやいや、驚くことはないんじゃよ。この子は年に一回、台風に挑戦していたんじゃよ」
「うん。挑戦って言っても、大きな木も倒してしまう台風に負けないように、大地に立ってるだけだけどね」
 台風に挑戦するなんて、タオは初めて聞く話です。
「最後まで立っていたら、ぼくの勝ち。転がってしまったり木に掴まったら負け。歩いてしまうと引き分けだよ」
「去年は、ずいぶんと帰ってくるのが遅かったなぁ」
 おじいさんが笑いながら言いました。
「うん。森で一番高い杉の木のてっぺんに引っかかって、降りられなくなっちゃったからね」
 おじいさんはクロがふくれたように言うのを聞いて、くすくすと笑っています。
 でも、タオはクロがそんな危ないことをするのは心配です。
「ねぇ、ほんとに勝負をするの?」
 クロは大きくうなずいて言いました。
「当然だよ。だって、今年は10年に一度の大台風の年なんだよ。逃げるわけにはいかないよ」
 クロが元気に言うのを聞いて、おじいさんは「うんうん」とうなずきました。
 どうやら、止めても無駄のようです。
 タオは心の中で、クロが怪我をしないように祈りました。
 
 
 その翌日、クロは森の西にある栗の林の前に座っていました。
 おじいさんの話では、台風が来るのはお昼過ぎらしいです。
 でも、今日はとても良いお天気でした。
 台風が来るなんて信じられません。
 ただ、時々見える雲が、とても早足に駆けて行くのが気になります。
「あぁ・・・やっぱり、大台風は来るんだ」
 クロは、少し早めにお弁当を食べることにしました。
 今日のお弁当は、大きなおにぎりと木の実の炒め物と干した杏の実です。
 クロはおにぎりを食べながら、じっと空を見ました。
 さっきよりも、雲の数が多くなってます。
 それに風が降りてきたのか、森の木達がざわざわと言い始めてました。
 クロは急いで、お弁当を食べました。
 水筒の笹茶をこくこくと飲むと、すっくと立ち上がります。
 あっと言う間に、空が暗くなっていました。
 空一面をおおった黒い雲が、どろどろと動いています。
「よぉっし、来たなぁ大台風!僕はここだ!」
 空に向かって叫ぶと、強い風がクロの顔に当りました。
 クロの頭の上で、風が「ごう!」とうなりました。
 台風が来たのです。
 弱い葉が枝から千切れ、何枚もクロの後ろへと飛んで行きます。
 クロは足を大きく開き、前屈みになりました。
 爪を出し、地面に突き刺しています。
 大きな枝がわしわしと動き、クロの回りでも風が狂ったように吹き荒れています。
 目の前で、一本の木がぐぅっとゆがみました。
 ぼきっ!
 大きな音を立てると、その木は折れてしまいました。
 強い風が、何度もクロの顔を叩いて行きます。
「くっそぉぉお!!負けるもんかぁ!」
 クロは両手を地面に付いてしがみ付きました。
 体中に力を入れ、手の爪も地面に突き刺しました。
 クロの長いヒゲが風を切り、ぶぶぶ・・・と震えています。
 どれくらい時間が経ったのでしょう。
 長い間、大台風がクロの体を叩き続けていました。
 クロの力も、限界に近付いています。
「いやだ。いやだ。負けるもんか」
 手足に力を入れ爪を立てるクロは、ふと、思いました。
 こんなに爪を立てられて、地面は痛くないのかな?
 そう思った瞬間、クロの体がふわりと浮きました。
 爪の力が抜けていたのです。
 ばんっ!
 今までで、一番強い風が下を向いたクロのお腹に当りました。
「ぎゃあああああぁぁぁ!」
 叫びながら、クロは遠く高く飛ばされて行きます。
 そして、クロの姿はくるくると回りながら消えてしまいました。
 
 大台風が過ぎ去った後、タオと森のみんなでクロを探しましたが、クロの姿はどこにもありませんでした。
 クロは、いったいどこに行ってしまったんでしょう?
 
 
 柔らかな風が、クロの長いヒゲをくすぐり流れて行きます。
 だらしなく上を向いたまま眠っていたクロは、手の平の肉球で顔をぐりぐりと擦りました。
「えっっくしぃっぃいいい!」
 大きなクシャミをして、クロは目を開けました。
 クロは横になったまま、ぼんやりとまわりを見ています。
 クロが寝ていたのは、知らない家のベッドの上でした。
 お腹の上に掛けてあった毛布が下に落ちています。
「ここはどこだろう?ぼくは……どうして、こんな所で寝てるんだ?」
 クロはベッドから下り、もう一度、まわりを見てみました。
 変わった家でした。
 テーブルや椅子……棚やベッドは普通なのに、天井に大きな穴が空いています。
「雨が降ったときに困らないのかな?」
 クロが、ぽつりと言いました。
「困るに決まってるだろう」
 どこからとも無く男の人の声が聞こえて来ました。
「手前で大穴空けといて、好き勝手言いやがって……」
 ぶつぶつとつぶやく声は、天井の上から聞こえていました。
「今、そっちに行くから待ってろ」
 男の人は、天井の上をがんがんと歩きながら言いました。
 どすっ。
 鈍い音を立てて屋根から降りた男の人は、頭をぼりぼりと掻きながら家の中に入って来ました。
「よ!やっと起きやがったな、黒猫」
 初めて会った男の人に黒猫と言われて、クロはむっとしました。
「あなたは誰ですか?」
 ふくれたまま聞くクロに、男の人はにやりと笑いながら言いました。
「黒猫って言われるのは嫌なのかよ?でもな、ここはオレの家だ。オレに誰かと聞く前に、お前が誰なのか教えろよ」
 口の端を歪めた嫌な笑い方をする男の人は、クロの顔を真直ぐ見て言いました。
「ぼくはクロだよ。崑崙山の近くに住んでる」
 男の人の態度につられて、クロの口調も荒っぽくなっています。
「ほう、ずいぶん遠くから飛ばされて来たんだな」
 男の人がそう言うのを聞いて、クロが大きな声を出しました。
「しまったぁ!!。今年も負けちゃったよぉぉぉおお」
 あんまり大きな声だったので、男の人が怒り出しました。
「やっかましぃぃぃいい!静かにしやがれ!!」
 男の人の声は、クロの三倍は大きかったです。
 びっくりして固まっているクロに、男の人が言いました。
「オレの名はウォンだ。この先の湖で捕った魚を売って暮らしている。手前が死なずにすんだのは、オレ様の家に落ちて来たからと、気絶していた手前に寝床を譲ってやったからだ。ぎゃあぎゃあ騒ぎたかったら、オレに恩を返してからにしやがれ!」
 ウォンさんは、クロの鼻先を指で差し、続けて言いました。
「今、茶でも入れてやるから、そこら辺に座ってやがれ。話はそれからだ」
 
 
 ウォンさんが入れてくれたお茶は、クロの知らない飲み物でした。
「どうだ、うまいだろ?」
 クロが不思議そうな顔をしながら飲んでいるのを、ウォンさんはにやにや笑いながら見ています。
「うん。このお茶は、甘いんですね」
 クロが言うのを聞いて、ウォンさんが「かかか」と笑いました。
「こいつはガンダラの飲み物なんだぜ。何なら作り方を教えてやろうか?」
「うん!」
 クロが嬉しそうに答えるのを見て、ウォンさんはコップを置きました。
「まず、茶の葉が違うんだ。ガンダラで採れる葉でなきゃ、この味は出ない」
 クロは真剣な顔で、うんうんとうなずいてます。
「作り方は……茶の葉と、ほんの少しの生姜を一緒に煮詰めるんだ。最初から鍋に入れるから、葉も入れ過ぎてはダメだぜ」
 このピリッと来るのは、生姜だったのか……。
 クロはコップの中をじっと見ました。
「煮詰まったところで火を小さくして、山羊の乳を入れる……。後は、甘いのが好きなら砂糖を入れればいい」
 ふふん、と鼻で笑って、ウォンさんはコップを取りました。
「笹茶を、その作り方で飲んだら美味しいかな?」
「マズイだろ」
 ウォンさんは、あっさりと言いました。
「オレも色々試したが、ガンダラの茶葉でないと飲めた物じゃないぜ」
 クロはそのお茶を分けて欲しいと思いましたが、言うとウォンさんが怒り出すかも知れないから言えません。
「気に入ったんなら、茶葉を分けてやろう……と言いたい所だが」
 ウォンさんは、そこまで言って、頭をがりがりと掻きました。
「新しい葉を買いに行きたくても、湖があれじゃなぁ」
「湖が、どうかしたんですか?」
 クロが聞くと、ウォンさんは天井を見て溜息を付きました。
「この天井も何とかしなくちゃなねぇし……」
「だから、湖がどうしたんです?」
 ウォンさんは、コップを置いて家の外に出て行きました。
「ここからでも、見えるぜ」
 後を付いて、家の外に出たクロに遠くの山を指差しました。
 遠くに、雪の帽子をかぶった山が、いくつも見えます。
「そこじゃねぇよ。手前の丸いのがあるだろ?」
 そう言われてクロが視線を落とすと、森の真ん中に青い丸い山がありました。
 小さな丘のような山です。
「あの小さい丸い山ですか?」
 手を下ろし、ウォンさんが答えました。
「おぅ。あの小さい丸いヤツだよ。だがな、あれは山じゃないぜ」
 腕を組んで、にやりと笑いながらウォンさんが言いました。
「ありゃぁ、湖だ。昨日の大台風でひっくり返っちまったんだよ」
 クロはびっくりして何も言えません。
「驚いたろ?オレも今朝気付いて、びっくりしちまったぜ」
 
 
 それから数時間後、クロとウォンさんは湖の前にいました。
 クロが、湖をもっと近くで見たいと言ったからです。
 近くで見ると、湖は思っていたより遥かに大きくて、本当に山のようでした。
 傾きかけた太陽が、丸い湖の向こうでキラキラと輝いています。
「綺麗ですね」
 クロが正直な感想を言いました。
「けっ。呑気なこと言いやがって……」
 ウォンさんは、頭をがりがりと掻きながら言葉を続けました。
「今は良いぜ……今はよ。だがよ、このままだと、どうなると思う?」
「?」
 クロが不思議そうな顔をしてるのを見て、ウォンさんは溜息を付きました。
「頭を突っ込んで中を見てみな」
 あごをクィッと動かすウォンさんの態度に、クロはむっとしました。
「大丈夫なんですか?割れたりとかしないんですか?」
 クロの質問を鼻で笑って、ウォンさんは言いました。
「それくらいで戻るんだったら、もうとっくに戻ってるぜ。……いいから見ろよ」
 ウォンさんに言われるまま、クロは湖にゆっくり近づきました。
 湖の表面に触ると、何かむにむにした感じで水っぽくありません。
 手で強く押すと、ぐぅっという感じの後、ちゅるんとクロの手が湖の中に入りました。
「うわっ」
 驚いて、クロが手を抜くと、ウォンさんが後ろで「かかか」と笑いました。
「手前、結構怖がりだな」
 怖がりと言われて、クロは思い切って顔を湖の中に入れました。
 不思議な世界がクロの目の前に広がりました。
 太陽の光を全身に浴びた湖の中は、限りなく透明に近い青色でした。
 いえ、その青は空の色だったのかも知れません。
 風で表面が微かに揺れているのでしょうか、いつもより大きく見える太陽の光はゆらゆらと揺らめき、銀色に輝く魚達の鱗は青い空に瞬く星のように見えました。
 群れをなして泳ぐ魚を、クロは、とても綺麗だと思いました。
「ぷっはぁ!」
 湖から顔を出し、クロが言いました。
「すごい!めちゃくちゃ綺麗ですね!」
 クロは濡れた顔のまま、大きな目をらんらんとさせてます。
 ウォンさんは口の端で笑ったまま、頭をがりがりと掻きました。
「……ふぅ。じゃぁ、今度は下を見てみろよ」
 ウォンさんの何かバカにしたような態度に、クロは嫌な顔をしながら、もう一度、湖に顔を入れようとしました。
「違う違う。もっと下だ。湖の下に空気が入ってるから、そこを見ろって言ってるんだよ」
 ウォンさんに言われて、クロは左手を湖の淵からゆっくりと入れてみました。
 最初と同じようにぷるんと入った後、ぷにぷにと手に当たる物がありました。
 それが今の湖の底のようです。
「よっ」
 声を出しながら、クロはさらに腕を伸ばしました。
 ずぼっと勢い良く手が湖の底から出るのが伝わってきました。
 そこには、何もありませんでした。
 確かに、空気が溜まっているようです。
 クロは左手で地面を探し、今度は顔を湖の中に入れました。
 肩まで湖に入れた後、ぐいっと腰近くまで進み……がばっと戻って来ました。
 大きな目をいっぱいに開いて、ウォンさんの顔を見ています。
「どうして、湖を急いで元に戻さないといけないか分かったか?」
 クロは、頭をぶんぶんと縦に振りました。
 びっくりして声が出ないようです。
水草が湖の底に残ったままだったろう?少しぐらいは魚と一緒に上がってるようだから、すぐにどうこうって事ぁないようだがな」
 ウォンさんは、溜息を付いて言葉を続けました。
「このままじゃ、魚が全部死んじまうんだよ」
 山のように反り返る湖を見上げながら、ウォンさんはぶつぶつと言いました。
「湖を元に戻すってだけでも大変だってのに、人の家に大穴空けやがって、……この黒猫がぁ!!」
 いきなり、ウォンさんがクロの方に走り出しました。
 クロは、びっくりして逃げ出しました。
「待ちぁがれぃ!黒猫〜」
 ウォンさんは、いつまでもクロを追いかけて走って来ます。
「わ〜ん。ごめんなさい、ごめんなさい」
「い〜や、許さねぇ。どう責任取るつもりだ?こらぁ!」
 ウォンさんが怖い顔で追いかけて来るので、クロは泣きそうになりました。
「ぼくが湖を元に戻すから、許して下さいぃ」
 目をつぶりながら走っていたクロは、足を引っ掛けて転んでしまいました。
 振り返ると、ウォンさんがゆっくりと近づいて来るのが見えました。
「ひっ……ひっ、ふぇぇ〜」
 クロは今にも泣きそうになってます。
 ウォンさんはクロの前で立ち止まり、ゆっくりと顔を近づけ……にっこりと笑いました。
「そっか、やってくれるのかぁ。じゃぁ、必要な物があったら何でも言ってくれ」
 呆然としているクロを見て、ウォンさんは「かかか」と笑いました。
「ひどい!騙したな」
 クロが立ち上がって言いました。
「誰が?何を?手前が自分からやるって言ったんだぜ。オレは屋根を直しとくから、後は頼んだぜ」
 そう言うと、ウォンさんはクロに背中を向けて帰って行きました。
 
 
 その夜、ウォンさんは大きな板を屋根の穴の上に置き、早めに夕食の仕度を始めました。
 大きな鍋に野菜や魚のすり身で作った団子を入れて、ゆっくりと煮込んでいます。
「あの黒猫はよく食べそうだな……」
 口調とは裏腹に、ウォンさんはうれしそうにご飯を作っていました。
 
 さて、どれくらい時間が経ったのでしょうか。
 丸い大きな月が、薄い雲の間にぼんやりと浮かんでいます。
 家の前で、腕を組んでウォンさんは、クロが帰って来るのを待ってました。
 夕食に作った料理は、とっくに冷めてしまってます。
「あの黒猫……逃げたか?」
 ぽつりとつぶやいて、ウォンさんは家の中に戻りました。
 しばらくごそごそと何かを探す音がしてましたが、ウォンさんがまた家から出て来ました。
 手には小さなランプを持っています。
「しょうがねぇ野郎だぜ」
 ぶつぶつと言いながら、ウォンさんはランプの灯りを頼りに、暗い森の中に歩いて行きました。
 遠くに見える湖は、月と星の光を取り込み、小さな宇宙のように輝いています。
 あの湖の下で、黒猫は一人でぼんやりしてるんだろうな。
「無理なのは分かってるんだから、暗くなったら帰ってくりゃ良いんだよ」
 誰に言うでも無く、ウォンさんはつぶやきました。
 ウォンさんが湖の下に行くと、そこにクロの姿はありませんでした。
「……本当に逃げたか?」
 それも仕方ないかと、ウォンさんは湖にそってゆっくりと歩き出しました。
 普段は暗く、人をさける森も、今日は月の光を飲み込んだ湖に照らされて、いつもより明るく見えます。
 一本の大きな木の根元に黒い塊を見付け、ウォンさんは走り寄りました。
 それは、どろどろに汚れ、座り込んだクロでした。
「何やってんだ!黒猫」
 ウォンさんの声に、クロはぼんやりと顔を上げました。
 そのまわりには、木の蔓がいっぱい落ちています。
「う……うぅん」
 まだ、はっきりしないのか、クロはきょろきょろとまわりを見ています。
「何やってたんだ?どろどろじゃねぇか」
 ウォンさんに言われて、クロは自分の体を見ました。
「怪我してねぇか?」
 クロの体に付いた泥を落としながら、ウォンさんが聞きました。
「うん。大丈夫だよ。長い蔓を探してて……木から落ちちゃったんだ」
 クロは、にっこりと笑いながら言いました。
「バカ野郎。どっこも怪我してねぇんだな?」
「うん。大丈夫」
 言いながら、クロはゆっくりと立ちました。
 ふぅっと溜息を付いて、ウォンさんがクロに話しかけました。
「長い蔓なんか、どうすんだ?」
「湖を元に戻すのにいるんだよ」
 クロが答えるのを聞いて、ウォンさんは首をひねりました。
「だから……よ。何に使うんだよ?」
 ウォンさんがしつこく聞いても、クロは「へへへ」と笑うだけでした。
「ちっ、しょうがねぇな。とにかく今日は帰ってメシを食おうぜ。せっかく作った料理も冷めちまったがな」
 ウォンさんはそう言うと、クロに背中を向けて歩き出しました。
 クロは立ち止まり湖を見上げています。
 森の入り口で振り返り、ウォンさんが大きな声で言いました。
「長い蔓は……明日、オレが用意してやるからよ。今日はもう帰るぞ」
「うん。わかったよ……」
 答えながら、クロは小さな星を集めたように光っている湖を、いつまでも見ていました。
 
 
 翌朝、と言うか……昨日、よっぽどつかれていたんでしょうか、クロが起きたのはお昼前でした。
 ウォンさんが屋根を直す音で目を醒ましたクロは、昨日と同じようにぼんやりと部屋の中を見ていました。
「よ。やっと起きたか」
 屋根の穴から顔を出して、ウォンさんが言いました。
「おはようございます」
 手の肉球で、顔をふにふにと擦りながら、クロはまだ眠たそうです。 
 屋根の穴から飛び降りてきたウォンさんは、嬉しそうに作っておいた朝ご飯をテーブルに出しました。
「さぁ、食えよ」
 それだけ言って、ウォンさんは椅子にどっかと座りました。
 そこで初めて、クロはウォンさんがどろどろに汚れているのに気付きました。
「……ウォンさん?」
 びっくりしているクロに、ウォンさんは口の端で笑いながら言いました。
「お?これか。まぁ、あれだ……長い蔓がいるって言ってたろ?ちと難儀な所にしか長いのが無かったんだよ」
 そう言って、ウォンさんはいつものように「かかか」と笑いました。
「で、あれを何に使うんだ?取って来てやったんだから教えろよ」
 朝ご飯を前に、ウォンさんは聞きたくて仕方が無いと言う風に顔を突き出しました。
「あの……ご飯、食べたら湖に行くから……その時に……」
 言い難そうにしているクロの顔をじぃっと見て、ウォンさんは椅子から立ちました。
「分かった!じゃぁ、オレは待ってる間、屋根を直してくるぜ」
 そう言うと、ウォンさんは家の外に出て行きました。
 怒ったのかなぁ?
 ウォンさんの態度にどきどきしながら、クロはテーブルに付いて朝ご飯を食べ始めました。
 すると、がんがん、ごんごんとウォンさんが屋根を直し始めました。
 さっきより大きな音で、ぱらぱらと埃も落ちて来ます。
「あぁ……やっぱり怒ってるんだ」
 クロは小さな声でつぶやきました。
 すると、
「誰も怒ってねぇよ。黙って食いやがれ!」
 と、大きな声でウォンさんが言いました。
 クロは小さくなって、静かに朝ご飯を食べました。
 
 
 さて、長い蔓を持ったクロが立ち止まったのは、昨日座り込んでいた大きな木の根元でした。
 クロの後ろで、機嫌の悪そうなウォンさんが腕を組んで立っています。
「やっぱり、ここかよ」
 つまらなそうに言うウォンさんを無視して、クロは何重にも巻いた蔓を首に掛け、大きく爪を出し木に登り始めました。
 がりがりと音を立て木を上るクロは、見る見る小さくなっていきました。
 木の枝が邪魔をして、ウォンさんから見えなくなっても、クロは登り続けているようでした。
「どこまで登ってるんだ、あの黒猫」
 ウォンさんがつぶやいてからも、クロはなかなか下りてきません。
 どうやら、木の上の方まで登っているようです。
 ウォンさんは木から少し離れて、全体が見える所に行きました。
 今、ちょうど木の真ん中辺りの枝が揺れています。
 揺れている枝の場所が徐々に下に変わっているところを見ると、クロは木から下りようとしているようです。
 ウォンさんが木の根元に戻ると、バサッと蔓の塊が落ちてきました。
 下から、かすかに見える太い枝が、わしわしと動いています。
 そこまでクロは下りて来ているようです。
「大丈夫かぁ?黒猫」
 そう声を掛けた瞬間、バサバサと小さな枝を折りながらクロが下りて来ました。
 いえ、クロは落ちて来ました。
 お尻から落ちたクロは、あまりの痛さにごろごろと転がっています。
「うぅ〜……黒猫って言うなぁ。……くぅ……」
 ぶつぶつと言いながら、クロは降ろして来た蔓に掴まり立ち上がりました。
「大丈夫かよ?」
 ウォンさんが心配そうに聞くのに、「うんうん」と、うなずきながら、クロは下りて来た木をぽんぽんと叩きました。
「今から、お前を引っ張って折るからな。ぼくの力に負けたくなかったら、がんばってみろ」
 そう言うとクロは蔓の端を持って、ぐいぐいと歩き出しました。
「お前も千切れたくなかったら、ぼくの言う通りにしっかりと木を引っ張るんだぞ」
 足の爪を大きく出して、一歩一歩進んで行くクロに、ウォンさんが走り寄りました。
「おい!何をする気だ?どうして木を倒す必要があるんだ?」
 驚いてるウォンさんに、クロは小さな声で答えました。
「あれは嘘だよ。木を倒す気なんて無いよ。ぼくを湖の真上に放り投げてもらうのを手伝ってもらうだけだよ」
 そう言って、クロは立ち止まりました。
 今度は、その場で蔓とぐいぐいと手繰り寄せています。
「だって、今の湖は大きな泡と同じでしょ?だったら、ぼくが高いところから落ちれば簡単に元に戻るよ」
 ウォンさんは、クロが木を折ると言い出したとき以上に驚きました。
「バカ野郎!そんな高いところから落ちたら、手前が死んじまうぞ」
「大丈夫だよ。ぼくの体はすごく頑丈に出来てるから……それに下は水だしね」
 大きな木がぐぐぅと曲がっているのを見て、クロは今度は木の根元の方に歩き出しました。
「だから、バカだって言ってんだよ」
 ウォンさんはクロを止めようと一生懸命に話しかけました。
「高いところから水に落ちると、水は岩よりも硬くなるって知らないのかよ?」
 そんな話はクロは聞いたことがありませんでした。
「あははは。それ、嘘でしょ?」
 クロはにこにこと笑いながら、ウォンさんに言いました。
「じゃぁ、そろそろ行くね」
 そう言って、クロは地面に刺していた爪をひゅっと引っ込めました。  
 ぶぉん!!
 大きな風を巻いて、クロの姿がウォンさんの前から消えました。
「あっ……行っちまいやがった!」
 ウォンさんが空を見上げた時には、クロの姿は小さな点になって、そのまま消えてしまいました。
 
 
 遠く、空に飛び出したクロは自分の勢いにびっくりしていました。
「ぷぷぷぷぷぷぷぷぷ……」
 顔に当たる風で息が出来ない上に、鼻の中に空気がむりやり入って来ます。
 息が出来ず、クロは顔の前で手をばたばたと動かしました。
 でも、その勢いも徐々に緩やかになっていきました。
「ふ、ふわぁ〜」
 お腹の中に溜まった空気を吐き出しながら、クロは下の方を見ました。
 空から見た湖は小さな水溜りに見えます。
 ここからだと、クロはどこに落ちるのか分かりません。
 クロがほんの少し不安になったとき、ふわっとした感じで体が空の上で止まりました。
 クロは湖に衝撃を与えるために、両方の手足をぴんと伸ばしました。
「よし!狙い通り……だぁぁぁぁあああ!?」
 ふわりと体が浮いたのは一瞬で、クロの体は、ものすごい勢いで落ち始めました。
 真下で小さな水溜りに見えていた湖が、みるみる大きくなっていきます。
「ぎゃぁぁぁぁああああああああああ……」
 クロは、大きく広げた手足が千切れそうになりがら、ウォンさんが言っていた事を思い出しました。
「水は岩よりも硬くなる」
 もし、あれが本当なら……。
 クロの不安をよそに、湖はどんどん大きくなって行きました。
「た、助けてぇぇぇええ……」
 クロは叫びながら、湖に落ちて行きました。
 
 クロが木を利用して空に飛び出してから、ウォンさんは湖から少し離れた丘の上に走って行きました。
 湖が元に戻った時の波に飲み込まれるのを避けるためです。
 丘に登る途中で、クロの叫び声が聞こえました。
 でも、ウォンさんの場所からは、クロの姿は小さ過ぎて見えません。
 丸くひっくり返った湖が見えるだけです。
 クロの声が途切れると同時に、
  
 びった〜〜ん!
  
 と、大きな音が森中に響きました。
 湖を大きく揺らした音に驚いた鳥達が、バサバサと飛び立って行きます。
 鳥達の姿が消えても、湖はぷるぷると震え続けていました。
 でも、それだけで何も変わりません。
「あの黒猫……失敗しやがったな」
 ウォンさんが小さくつぶやいた時、森全体を震わすような大きな地響きが起こりました。
「な、何だぁ?」
 驚いているウォンさんの前で、山のように盛り上がっていた湖が、ふっと消えました。
「???」
 次の瞬間、巨大な水柱が空高く立ちました。
 ザザザザザァァァ……。
 大雨のように落ちていく水は、あの湖の水です。
 そして、何事も無かったように、静かに元通りに戻った湖の上には大きな虹が出来ていました。
 
 
 長いヒゲをくすぐる風を感じながら、クロは気持ち良く寝てました。
 どこからか、とんとんと小さな音が聞こえます。
 その音が気持ち良くて、クロは眠ったまま、にんまりと笑いました。
 音は、意外に近くでしているようで、段々と大きくなっていきます。
 とん、とんとん……とん、とん、どん、どん、がん、がん、がんがん……。
「な、何?何の音?」
 クロは、びっくりして飛び起きました。
「お!うるさかったか?」
 天井の穴から顔を出したウォンさんが嬉しそうに言いました。
「あれ、ここは?」
 きょろきょろとまわりを見ているクロの様子を見ながら、ウォンさんは話しかけました。
「いや、手前がいつまでも寝てるからよ、少しくらいうるさくても良いかなって思って……大丈夫か?」
 天井の穴から顔を出したまま、ウォンさんが心配そうに聞きました。
「うん。大丈夫だけど……何で?」
 クロが不思議そうに聞くので、ウォンさんは屋根から降りて来ました。
「本当に大丈夫かぁ?頭、打ってねえか?」
 ウォンさんが何を言っているのか、クロには分かりませんでした。
「あの後、お前は丸2日寝てたんだぜ。覚えてるか?」
 丸2日?あの後?クロは思い出せない何かを一生懸命考えました。
「あぁ!そうだ。あの湖!!湖はどうなったの?」
 クロの顔を見ながら、ウォンさんはにっこりと笑いました。
「ありがとよ。湖は元に戻ったぜ」
 その言葉を聞いて、クロはベッドを飛び降りました。
 そのまま家を出て、外に駆け出します。
 そこに、あの丸い湖はありませんでした。
 遠く続く森と、白い万年雪をかぶった山々が見えるだけです。
「そうか……ぼくは、あの湖に勝ったんだ」
 うれしそうにつぶやくクロの後ろで、ウォンさんが言いました。
「もっとも、手前が生きていられるのはオレ様のおかげだがな」
 クロが振り返ると、ウォンさんは口の端でにやりと笑いました。
「オレが船を出して助けなかったら……お前は、今ごろ魚の餌だぜ」
 クロがむぅと唸ると、ウォンさんは「かかか」と笑いました。
「まぁ、手前が湖を元に戻して、オレがお前を助けた。……貸し借りなしだな」
 ふくれたままのクロの頭をぽんぽんと叩いて、ウォンさんはもう一度、「かかか」と笑いました。
「……それより、腹が減ったろ?メシを用意してやるから、もう少し休んどきな」
 そう言うとウォンさんはクロに背中を向けて、家の中に帰って行きました。
 
 
 翌日、無事にウォンさんの家の屋根の修理が終わりました。
 ウォンさんは、クロに崑崙までの帰り道を書いた地図と食べ物を持たせ、森の出口まで付いて来てくれました。
「ここから真っ直ぐ行くと崑崙山脈の尾根に出れるからよ。……そこからは自分で分かるんだろ?」
 心配そうなウォンさんに、クロは大きくうなずきました。
「うん。大丈夫だよ。早く帰らないと、みんな心配してるだろうしね」
「あぁ、そうだな」
 クロはもう一度お礼を言って、歩き出しました。
「あ、あのよ……」
 クロの背中にウォンさんが話しかけました。
「茶葉は無くなったら、いつでも取りに来いよ」
「うん。ありがとう」
 遠く歩き出した大きなクロの小さくなった後姿に、ウォンさんが言いました。
「クロ!」
 振り返るクロにウォンさんが大きく手を振っています。
「ありがとよ!」
 クロも大きく手を振って言いました。
「また、遊び来るよ!きっと来るからね」
 そう言うと、クロは前を見て歩き出しました。
 帰ったら、タオとおじいさんに話したいことがいっぱいありました。
 台風のこと、湖のこと、そして乱暴だけど優しいウォンさんのこと。
 クロは、ウォンさんにもらったお茶を飲みながら、うれしそうに話を聞くタオとおじいさんの姿を思い描いて、うれしそうに笑いました。