猫の泉の茶トラのピート
 
 
 パンダの森の黒いクロが、ひっくり返ってしまった湖を元に戻そうと、がんばっているころ、パンダの森に不思議な訪問者がありました。
 彼の名は、猫の泉のピート。
 トラ縞でこげ茶のベストに袖を通し、かかとの高い黒いスニーカーを履いていました。
 つばの長い帽子を斜めにかぶり、その帽子の穴から出ている右の耳に古い傷痕がありました。
 ピートは大台風の後の荒れた森を、きょろきょろと見ながら、パンダの森の入り口にやって来ました。
 パンダの森の入り口には、一本の丸太が置かれていました。
 ピートはその前に立つと、左右で長さの違う手袋をはめた手で、ぽくぽくと叩き始めました。
 
 ぽくぽく、とくぽく、ぽくぽく、とくぽく、ぽくぽく、とっくん。とんとんとん。
 ぽくぽく、とくぽく、ぽくぽく、とくぽく、ぽくぽく、とっくん。とんとんとん。
 
 その楽しそうな音は、パンダの森の深くまで鳴り響いています。
 最初にやって来たのは、人間の女の子でした。
 女の子は、大きなブナの木の後ろからピートを見ています。
 ピートは、女の子をちらっと見ただけで丸太を叩き続けました。
 
 ぽくぽく、とっくん、とんとんとん・・・。
 
 しばらくすると、森の奥から二人のパンダがやって来ました。
 楽しげな音に踊り出しそうになっているのを我慢しているのが、ぷるぷる震える体と顔でわかりました。
 ピートは大きな目で二人のパンダを見ながら、丸太を叩いています。
 女の子はピートの様子を見ながら、ゆっくりとパンダ達の横に行きました。
 女の子がパンダ達の横に並ぶのを見て、ピートは丸太を叩くのをやめました。
 ゆっくりと静かに丸太の前に立ちます。
「オレは猫の泉のピートと言う者にゃ。チェンタイ老の知恵を借りたくてやって来たにゃ」
 真っ直ぐに立ったピートは、森中に響き渡る大きな声で言いました。
 
 
 ピートがパンダ達に案内されたのは、パンダの森の真中にある大きな木の根元でした。
 木陰には、丸太をくり貫いたテーブルと椅子がありました。
 チェンタイおじいさんを待っている間に、一人二人とパンダ達が家から出てきました。
 大勢のパンダ達に見られているせいか、ピートは少し怒ったような顔をしています。
「口に合えば良いんだけど……」
 そう言いながら、森の入り口にいた女の子が冷たい飲み物をピートの前に置きました。
「ありがとうにゃ」
 ピートはにっこりと笑おうとしましたが、みんなに見られてるため上手く笑えませんでした。
 あまり喉は乾いてなかったのですが、出された物は飲むのが礼儀だと思い、飲み物を手に取りました。
「これはパンダの飲み物なのかにゃ?それとも、あの女の子が飲んでる物かにゃ?」
 そんなことを考えながら、ピートはコップを手に持ち、ぺろっと舐めてみました。
 それは、よく冷えた水飴でした。
 大好きな水飴を手にしたピートは、もう止まりません。
 ぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろ……。
「ふひゃぁ〜。最高にゃ」
 喉をごろごろと鳴らしながらコップを置くと、ピートの前にパンダのおじいさんが座り、にっこりと笑ってました。
「お気に召しましたかな?」
 飲みっぷりが気に入ったのか、チェンタイおじいさんが嬉しそうに聞きました。
「あ、……あぁ、美味かったにゃ」
 照れ隠しにピートは胸をそらして答えました。
 すると、まわりのパンダ達から歓声が湧き上がりました。
 みんなが静かになるのを待って、チェンタイおじいさんがゆっくりとピートに聞きました。
「さて、私の知恵を借りたいと言われたらしいが……。どう言うことですかな?」
 ピートは何かを言い掛けて、少し悩んでから静かに言いました。
「夏を……夏を呼びたいんだにゃ」
 チェンタイおじいさんは、ピートの顔をじっと見つめています。
「いや、夏がそこまで来てるのは知ってるにゃ。それに季節を動かすと良くないことが起こると言われているのも知ってるにゃ。でも、それでも早く夏を呼びたいにゃ!」
 ピートは椅子から立ち上がり、チェンタイおじいさんに言いました。
 一生懸命言いながら、どこか辛そうな顔をしています。
 チェンタイおじいさんは目を閉じて考えています。
 まわりのパンダ達も何も言いません。
「どうしても……」
 ピートが言い掛けたとき、チェンタイおじいさんがいきなり言いました。
「誰か、パンダの森の風見鶏を持って来て下さい」
 すると、パンダ達みんなが森の奥へと走り出しました。
 残ったのはピートの前に座るチェンタイおじいさんと人間の女の子だけでした。
 ピートは、何が起こったのかわからず、びっくりしています。
 女の子が、くすくすと笑っているのを見て、チェンタイおじいさんは静かに言いました。
「これ、タオ。お客様に失礼ですよ」
「……ごめんなさい。でも、みんなで取り合って風見鶏が壊れないかしら?」
「ふむ。確かに。誰に取りに行ってもらうか決めた方が良かったのかな?」
「いいえ。きっと大丈夫ですよ」
 二人が話すのを聞きながら、ピートが言いました。
「理由を聞かないにゃいのか?どうしてそんな簡単にOKできるんにゃ?」
 ピートの質問に、チェンタイおじいさんが大きな声で笑い出しました。
「ほっほっほ。頼みを聞くのに理由などいらないでしょう。大事な理由でもダメな物はダメ。その逆も然り」
「それに森のみんなは、あなたのことを好きになったみたいだしね」
 タオと呼ばれた女の子も、にっこりと笑いながら言いました。
「ただし……」
 チェンタイおじいさんが真面目な顔でピートの顔を見て言いました。
「風見鶏で夏を呼べるのは、一日だけですぞ。それに成功するかどうかは……私にもわかりませんからな」
 
 
 森と森の間の明るい道をピートとタオが歩いています。
 晴れ渡った空はどこまでも高く、二人の位置からは雲は見えません。
 ピートは長い竿と小さな鞄を、タオは背中にリュックと手に大きな袋を持っていました。
 タオが持っている袋には風見鶏が入っています。
 風見鶏の大きさは、ピートと同じくらいでした。
 これでは持って行けないので、タオが一緒に来ているのです。
 パンダ達は、みんな一緒に来たがりましたが、森の外へ出ることは掟で禁止されています。
 それで人間の女の子であるタオが一緒に歩いているのです。
 
 
 竿を肩に乗せ、ぴょいぴょいと二本足で歩くピートにタオが聞きました。
「ねぇ、君ってさ……釣りが好きなの?」
 ピートは大きな目で、タオをチラッと見て答えました。
「好きにゃ。オレ達、猫族は釣りや狩りの天才にゃ」
 ピートの長いヒゲが自信たっぷりにピクピク動いています。
「ふぅ〜ん。私も釣りには自信あるんだ。今度、一緒に釣りに行こうか?」
 ピートは何も答えず、歩いていきます。
「ダメかな?」
 タオが聞くと、ピートは振り返り言いました。
「今度はダメにゃけど、今からなら良いにゃ。……ちょうど昼ご飯だにゃ、今から勝負にゃ」
 そう言うと、ピートは道を外れ森の中に入って行きました。
 急いでタオが後を追い掛けると、ピートは小さな川の前に立っていました。
 綺麗な小川です。
「ここで勝負にゃ。昼までに、一匹でも多く魚を釣った方の勝ちにゃ」
「え?でも、私竿を持ってないよ」
 タオがそう言うと、ピートは鞄の中から折り畳みの小さな竿を出して来ました。
「これを使うといいにゃ」
 竿をタオに渡すと、ピートはすぐに餌を付け、針を川に落としました。
「あ!ずるい」
「ふっ。勝負はすでに始まっているにゃ。のろのろしてるお前が甘いだけにゃ」
 言いながら、ピートは一匹目の魚を吊り上げていました。
 
 
 勝負の結果は……ピートが四匹で、タオが三匹でした。
 タオは、一番大きいのを釣ったことと、最初の一匹はずるいと主張しました。
 でも、結局、ピートの「オレの用意した餌を使ったんだから、文句を言うにゃ」と言う意見が勝ちました。
 二人は、魚が焼けるのを大人しく待っています。
「……でも、お前は人間にしては釣りが上手いにゃ」
「へへっ。でも、久しぶりだったから楽しかった。今度は猫族の狩りも教えてよ」
 タオがそう言うと、ピートはなぜか暗い顔をしました。
「どうしたの?」
「……今度は無理にゃ。オレは夏を呼んだら、旅に出るにゃ」
 ピートは焼けた魚を取り、タオに渡しました。
「旅って……どこか遠くへ行くの?」
「ん。たぶん、ここにはもう帰って来ないにゃ」
 自分の分を手にピートは空を見上げ、こう続けました。
ここではない、どこかへ。オレはいつもそう思って生きて来たにゃ」
 
 
 翌日、二人は猫の泉の前に立っていました。
 目的地は、泉がある森全体を見渡せる丘の上です。
「泉の猫達に出会わにゃければ、昼までに丘の上に出れるにゃ」
 故郷に戻って来たと言うのに、ピートの顔は少し緊張しています。
「え?出会うとダメって……」
 ピートは立ち止まり、タオの顔を見て言いました。
「パンダの森と同じで、オレ達も森を出ることを禁止してるにゃ」
「……」
「そして、オレは人間を連れて来たことににゃる」
 タオは、パンダ達が人間から隠れて住んでいる事実を思い出しました。
「あ、あたし……どうしよう……そんな、つもりじゃ」
「お前のせいじゃにゃいから、気にするにゃ。泉を出た時から、オレは裏切り者にゃ」
 ピートは、にやりと笑い、また歩き出しました。
 徐々に土地が高くなり、森が見渡せるようになると、ピートが泉に付いて色々と話し出しました。
 季節の花のこと。
 陽気な猫達の祭りのこと。
 美しい泉と優しい森の木々のこと。
 前を歩くピートの顔は、タオからは見えませんでしたが、いつもより静かな声は優しく力強く感じました。
「いい加減、出てきたらどうにゃ」
 突然、ピートが振り返り言いました。
 カサカサッ。
 微かな音を立て、灰色の猫が林の影から姿を現わしました。
 膝まであるベストを着て、ピートの物と同じ型の靴を履いています。
 帽子はかぶらず、指が出るタイプの手袋をしていました。
 手袋と靴は綺麗な赤色です。
「……アッシュ」
 ピートが小さな声で、その猫の名前を口にしました。
「ピート。今すぐに帰って来い」
 静かですが、キツイはっきりとした声でアッシュは言いました。
「掟を忘れたにょか?泉を出た猫は二度と戻ることは出来にゃいにゃ」
「群の長であるオレが許すから……戻って来るにゃ。もう時間が無いにゃ」
「お前も長なら、自分の言ってることが無理にゃのは判るだろう?オレは、もうよそ者にゃ」
 そう言って、ピートは背を向けて歩き出しました。
「マーシャの容態が悪くなったんだ」
 ひどく弱い声でアッシュが言いました。
 ピートは前を向いたまま、立ち止まっています。
「お前に会いたがってるんだよ」
「マーシャの……病気は直ってるにゃ。後は気持ちの問題だけにゃ」
「その気持ちのために、お前がそばにいないとダメにゃんだ!」
 アッシュの叫びに背を押されたように、ピートはもう一度歩き出しました。
「オレは、もう旅に出たにゃ。マーシャには元気で暮らせと伝えてくれにゃ」
「ピート……」
 アッシュは何か言い掛けて、溜息を付きました。
「なぜ、今にゃんだ?なぜ、もう少しだけ待てないんにゃ」
 帽子に手を置き、ピートは振り返らずに言いました。
「医者が……マーシャの薬が見つかる前に、医者が言ったんだ」
「……」
「奇跡でも起こらないと、彼女は助からないって」
 アッシュは怒ったような顔をしています。
「さぁ、もう行ってくれにゃ。ホントにゃら、オレ達は会う事さえ許されにゃいんだからにゃ」
 振り向かずに先を歩くピートは、軽く手を上げて言いました。
「オレは奇跡を起こす。だから、後はお前の仕事にゃ」
 
 
 その日の夜。
 ピートとタオは、猫の泉が見下ろせる丘の上に出ました。
 大きな月が、山間からこっそりと二人を覗いています。
 ときどき聞こえる虫の声が、涼しい風を気持ち良くしてれました。
「角度はこれで良いのかにゃ?」
「うん。ちょうど南に向けるって、おじいさんは言ってたよ」
 風見鶏を立て、二人を南の空を見ました。
「ねぇ……今から、猫の泉に行かない?」
 タオが優しい声で言いました。
「ふっ。あそこは人間は入れないにゃ。入り口が小さ過ぎるんだにゃ」
 二人の位置から、ちょうど北の方向を指差し、ピートが言いました。
「あそこに池があるにゃ、あれが猫の泉にゃ。そこを囲むようにある森は荊が多くて、オレ達以外は通れないにゃ」
 嬉しそうに目を細めるピートは、言葉を続けました。
「よく見れば、あの森は一段高くなってるんだにゃ。すなわち猫の泉は水が沸いて出来てるにゃ。そして北の低くなる所に流れているにゃ」
 泉を中心に北側だけ森が切れ、小さな川が流れてます。
「あの川は、まわりの山から流れてきた水を集め、大きな滝になって山を下って行っているんだにゃ」
 タオは、北に広がる砂漠とその境に住む人間達の生活をピートに話しました。
「ふみゅ。だからかな?オレ達は先祖代々泉を守ってきたのは……」
 タオが不思議そうにピートの顔を見ました。
「ふふ。泉に住む猫達の掟の中に、何者も泉に近づけず、一切の穢れから守れってのがあるにゃ」
 大きな月とそびえる山々を映す泉は、遠くから見ても美しく見えました。
「さぁ、もう寝るにゃ。明日の朝に起きれなかったら、後悔するからにゃ」
 笑いながら、ピートは言いました。
「うん。おやすみなさい」
 横になり、空を見ると月と星を隠すような雲は、北へと静かに流れていました。
 
 
 二人が目を覚ましたのは、頬に当たる雨のせいだった。
「え?」
「雨……にゃんで雨が降ってるにゃ!?」
「風見鶏……風見鶏を外さないと!」
 タオが叫ぶのと同時に、ピートが小さな声で言いました。
「もう……手遅れだよ」
 二人の体を濡らす雨は、暖かい夏の雨でした。
 ぼんやりと空を見るピートは、魂が抜けたように立ち尽くしていました。
 雨は、徐々に強くなっていきます。
 そして、あっと言う間に空が暗くなりました。
「ねぇ、ピート君、どっかで雨宿りしようよ」
 タオが言っても、ピートは動こうとしません。
 雨は辺り一面に激しく降り始めていました。
「タネが……流れてしまう」
 雨は山間をすべり、小さな川を丘の上にいくつも作っていました。
「ピート君?」
 ピートの手を引こうとタオが近付くと、ピートは叫びました。
「泉が……山の雨が泉に流れてしまうにゃ」
 ピートは、丘の上を走り出しました。
「オレは、泉のみんなを非難させる!タオは、この上の岩場で待っててくれにゃ」
 激しい雨の中で、風見鶏は南の空を指していました。
 
 
 猫の泉の猫達は、季節外れの雨に、みんな驚いていました。
 山から流れてくる雨のせいで、泉の水がどんどん増えていたのです。
 ピートは、仲間達の中でアッシュの姿を探しました。
「アッシュ!アッシュ!どこにいるんだ?」
 その姿を見た幼馴染のレンが、追いかけて来ました。
「ピート!どこに行ってたんにゃ?それに、この雨……どうなってんにゃ?」
「レン……どこにって?アッシュから何も聞いてにゃいのか?」
「あぁ、そう言えば……アッシュは、ピートには森の事で用事で出てるって言ってたにゃ」
 そうです。
 誰もピートが旅に出た事を知らなかったのです。
「と、とにかく水が増えて危険だから、森のみんなを丘の上に避難させてくれ。アッシュには、オレが言っておくにゃ。」
 泉から、森に戻ったピートはマーシャの家に行きました。
「マーシャ!」
 いきなり、ピートが入って来たので、マーシャはびっくりしています。
「あれ?どうしたの、ピート?」
 眠たそうに、顔をふにふにさわりながらマーシャが言いました。
「ゆっくり話してる時間は無いにゃ。とにかく暖かい服を持って丘に行くにゃ」
「??」
 マーシャは、こんこんと小さな咳きをしながら、不思議そうにピートを見ています。
「この雨のせいで、泉の水が暴れ出しそうにゃんだ。だから、みんなと一緒に丘の上に逃げるんにゃ」
 ピートは、マーシャに服を渡しながら早口に言いました。
「とくかく、逃げるんにゃ。わかったにゃ」
 家の外に出ると、びちゃっと湿った音がしました。
 森全体が徐々に水に浸かり始めたのです。
「にゃんで、こんな事になったんにゃ」
 ピートは、暗く激しく雨を降らす空を見上げ、つぶやきました。
 
 
 タオは、丘の上へ登って来る猫達を岩場の影へと誘導していました。
 猫達は、最初嫌がりましたが、ピートの友達だと言うと安心して着いて来ました。
「これで、みんな揃ってるの?」
 タオが聞くと、それぞれの顔を見ながら、一人の猫が答えました。
「まだにゃ、マーシャがいないにゃ」
 それに続いて他の猫達が言います。
「ピートとアッシュもいないにゃ」
「あの二人なら、森の他の動物に危険を教えに行ったのかもにゃ」
「うん。アッシュとピートなら大丈夫にゃ」
「でも、マーシャはどうしたんにゃ?」
 タオは、ピートとアッシュの話を思い出していました。
 マーシャの病気の話です。
 ここまで来れなかったのかな?
 それとも、まだ家にいるのかな?
「私が、マーシャを探してくる」
 そう言って飛び出したタオに、猫達が言いました。
「マーシャは、白い毛で青い目をした猫にゃ」
「わかった!」
 外に出て、タオは足を止めました。
 丘から泉へと流れる雨は、坂のせいで激しく波打ち、とても丘に上がって来れる状態ではなかったのです。
「みんな、無事でいてよ」
 
 
 アッシュは、森の鳥達や小さな動物に大きな木の上に逃げるように伝えてました。
 数年に一度ある、大雨の時に危険を報せるのは群の長の仕事だったからです。
 
 
 そのころ、アッシュと出会えなかったピートは、森とは正反対の方向を走っていました。
 雨の少ない時期のために閉じている水門を開けるためです。
 水門に近付くほど、雨水は多くたまり、道は川に変わっていきます。
 
 
 丘を下りながら、タオは何度も転びました。
 一度転んでしまうと、水に足を取られて、なかなか立ち上がる事が出来ません。
 そのまますべり落ちてしまう事もありました。
 丘を下りると、泉を見つめて立っている白い猫がいました。
「マーシャ?」
 ゆっくりと振り向いた青い目の猫は、小さく震えているようにタオには見えました。
「マーシャなのね?」
「うん。……誰?」
 ぼんやりとした口調で、マーシャは何も見ていないような顔をしています。
「私はタオ。ピートの友達よ。大丈夫?逃げるわよ」
 無理矢理、マーシャの手を握ったタオは、丘を振り返り……唇を噛みました。
 激しい雨の下で見る丘は、まるで滝のように見えたのです。
 ゴーゴーと響く音が森全体から聞こえてきます。
 泉より低い位置にある森は、もう人が入れる状態ではありません。
「どこに逃げるって言うのよ」
 口の中のつぶやきは、水の音にかき消されていました。
 
 
 水門に辿り着いたピートは、不思議な物を見ていました。
 谷間に作られた水門の周りの水が、風に押さえられて左右に割れているのです。
「にゃんだ、これは?風の流れが止められているにょか?」
 左右に割れた水は、黒い渦になり空へと繋がっています。
 止められた夏の風が雨を巻き込み、空の雲へと変わっているのです。
 ピートは水門に立ち、閉ざされた扉を手で押しました。
 風が全身を叩き、耳元で狂ったように騒いでいます。
 ガタガタと揺れる水門は、開放する者を待っていたのでしょうか?
 バン!!
 大きな音と共に風は門を抜け、高く高く吹き上げました。
 
 
 森の木の上でアッシュは空を見上げました。
 
 岩に背をあずけ、マーシャを抱いたタオは北の空へと流れる雲を見ました。
 
 丘の上の猫達は、嘘のようにやんだ雨と雲の切れ間から見える青い空を見ました。
 
 
 青い空と銀色に輝く高い山々、そして白くそびえる雲。
 夏特有の南から流れる風が、丘の上から泉へと広がった向日葵の花を揺らせていました。
 丘の途中で足を止めたタオとマーシャは、向日葵の中でピートが帰って来るのを待っていました。
 二人とも何も言わずに空と泉と向日葵を見ています。
 ふと、一本の向日葵がゆらゆらと揺れているのに、マーシャが気付きました。
 その向日葵は、徐々に丘を登って来ます。
「おい!肩を借りにゃがら向日葵で遊ぶにゃよ」
 アッシュの楽しそうな声が聞こえてきました。
「にゃはは。オレがタネを蒔いたんだから、この丘の向日葵は全部オレの物にゃ」
 駈け出したマーシャの後を追って、タオも走り出しました。
「ピートォ!!アッッシュゥ!!」
 丘の上から、猫達が下り来たようです。
「まったく無茶しやがって、いい迷惑だにゃ」
 マーシャの顔を見て、うれしそうに笑うピートにアッシュが言いました。
「にゃはっ。でも、言ったろ?奇跡を起こすってにゃ」
「奇跡って?」
 マーシャが不思議そうに聞きます。
「あぁ、マーシャが大好きな夏を呼びたかったんにゃ」
「確かに奇跡ね。一瞬で向日葵の花畑が出来るんだもん」
 タオの言葉に、ピートが続けて言いました。
「でも、夏を呼んだら、向日葵が咲くって知ってたの?」
 タオの質問に、ピートは笑いながら首を振りました。
「まさか、知ってたら奇跡にならないにゃ」
 泉を振り返り、ピートは故郷の空に帽子を投げました。
 白い入道雲の後ろで高く透き通る空と、銀色に輝く万年雪に飾られた山々を向こうに、ピートの帽子は高く高く舞い上がりました。
 緩やかな風に揺れる向日葵の中で、猫達はいつまでも夏の空を見上げていました。