scene-05
 
 
 藤堂の後ろに並び、バスの後部ドアからバスを降りようと僕は席を立つ。
「お待ち下さい。会長、忘れ物です」
「ん?あぁ、そうだね」
 楽しげに口の端を歪め、藤堂は振り返る。が、あれ?何で運転席に女の子がいるんだ???
 あそこにはバスの運転手がいたはずだ。ん?ちょ、待て。あれ、何で僕は制服を着てるんだ???
「あ、ちょ、ちょ、っと待ってくれ」
 忘れ物と言われ、運転席側に取りに戻る藤堂を混乱気味に呼び止める。
「何で僕は制服を着てるんだ?そうだ……制服は女の子を助けたときに使ったはずなのに。僕はTシャツ一枚だったはずだよな?」
「そんな事は知りませんよ。私が来た時には、君は制服をしっかり着ていましたが……」
 バスの中を歩きながら藤堂は答える。
「そ、それに!その子、バスのどこにいたんだよ。さっきはいなかったよな?それに運転手はどこだ?どこに行ったんだ?」
「パニくってますね。言葉使いが乱れてますよ。あ、どうも」
 運転席を立った女の子から立て掛けてあった物を、藤堂は受け取る。……が、日本刀?あれは日本刀か???でも、あれ……刃渡り2m以上はあるぞ。
 鍔の無い長過ぎる鞘を持つ大太刀を持ち、藤堂は面白そうに振り返る。
「真面目に答えるなら、制服に関しては風紀委員の仕業でしょうね。服装の乱れは、風紀の乱れに繋がりますから」
 日本刀を左手に持ち、藤堂は事も無げに言う。
「それと春日君に関しては……虚構と現実が混ざり合った結果ですね。ここに来て……いや、この世界に堕ちて来て最初の内は多いんですよ」
「……」
 この世界と言われて、僕は自分の死とこの奇妙な生を改めて実感する。って言うか、僕は彼の持つ日本刀の威容に……いや、異容に声が出せなかった。
「これが気になりますか?」
 左手をやや上げ、藤堂が自嘲気味に笑う。
「あ、いや……」
「昨今は堕ちてきた人は皆拳銃ですからね。でも……私の時代は日本刀が多かったんですよ。これも時代の移り変わりですかねえ」
 そう言って藤堂は白々しく咳をする。
「さぁ、逝きましょう。おっと、間違えました。さ、行きましょう」
 僕の前に立ち、「あぁ、それと」と懐を弄る。
「これを着けて下さい。拳銃嚢です」
 けんじゅうのう?何だそれ???ってか、ホルスターか?
「おっと失礼。拳銃嚢じゃ分かりませんね。ショルダーホルスターですよ。ジャケットの下に着けて下さい」
 にんまりと藤堂は微笑み、更にこう付け加える。
「さぁ、上着を脱いで下さい。大丈夫、遠慮はいりませんよ。ささ、上着を預かりましょう」
 僕は眉間に立て皺を入れて上着を脱ぐ。が、それを藤堂には渡さず、バスの座席に掛ける。
 そんな僕の行動は読まれていたのか藤堂は気にした風も無く、会話を続ける。
「さすがに拳銃を手に持って歩き回られたら迷惑ですからねえ。一応、念の為に言うと……学園内、いや、この出島の中は発砲禁止ですから」
「出島?」
 僕の問いに藤堂は頷く。
「出島です。もしくは人工島とでも言うのでしょうかね。学園は出島の中心にあり、風紀委員が異形のものの進入を拒んでいます」
 じゃぁ、あの橋は出島の境界だったのか。
「ですから、発砲は基本的に禁止です」
 藤堂は繰り返し言い、
「それと……不純異性交遊も御法度ですので」
 重苦しく続けた。
「学生ならどっちも普通だろう?」
 いや、発砲は学生以前の問題か?
「それが普通じゃないんですよ!」
 顔を近づけ、藤堂が叫ぶ。ってか、めっちゃ嬉しそうだな。
「以前、あるカップルが学園内にいました」
 くるっと背中を向けて乙女チックなポーズを取り、藤堂は話し出す。
「それはもう仲の良い、本当に仲睦まじい恋人同士でした。そんな二人が、ある日、運命の木の下で……運命の木の下で、ですよ。大事なところですから二度言いました」
 くわっと顔を近づけ、つぃと離れ、藤堂は続ける。
「そう……運命の木の下で、接吻をしようとしたのです。彼の左手は優しく彼女の腰を抱き……彼女の両手は自らの胸の前で組み合わせられ……」
 くるくると舞いながら藤堂は謡う。
「嗚呼、何がいけなかったのでしょう。彼の右手が彼女の膨らみかけた小さな胸に触れようとしたのが悪かったのか、彼の左手が彼女の腰からお尻へと下がって行ったのが悪かったのか……それとも、それとも」
 ぐいっと顔を近付け、ゆっくりと藤堂は僕に訊ねる。
「彼女の唇を奪った際に、その舌を蹂躙しようと彼が考えていたのが悪かったのでしょうか?」
 いや、知らんし。そっと離れ、藤堂は囁くように言う。
「二人の唇が重なる寸前、どこからか現れた風紀委員が二人を引き裂いたのです」
 視線を外した藤堂は何かを思い出すように遠くを眺め、静かにゆっくりと言う。
「何故、あのとき……風紀委員はもうちょっとだけ待ってくれなかったんでしょうか?私の何がいけなかったのでしょう?」
「知らないし。ってか、あんたの話かよっ!??」
 反射的にツッコミを入れ、僕は袖を通していた上着を足元に叩き付ける。
 藤堂はそんな僕の上着を拾いつつ、
上着を粗末に扱うのは、どうかと思いますが……。ふむ、ホルスターのサイズは問題が無さそうですね。さ、今度こそバスを降りましょう」
 上着を手渡し、鼻歌を歌いながら藤堂はバスを降りる。けど、それ……葬送行進曲か?
 
 
 藤堂に続いてバスを降りるが、その第一歩から僕は戸惑いを覚える。
 足を下ろした地面をじっと眺め、それから周囲の風景に目をやり、再び下を見る。
「おや、土の道路が珍しいですか?」
「あ、いや……って言うか」
 僕は顔を上げ、もう一度周囲の風景を眺める。あれは木の電柱か?いや、それより……何て言うか、ここって隙間が多くないか?それに木の柵って。
 家々の間にある木の柵には猫が寝ていた。
「ま、最初は奇妙に思うかもしれませんが、すぐに慣れますよ。ちなみに今の時代背景は昭和の中期から後半ぐらいらしいですよ。昭和40年前後でしょうかね」
 面白そうに藤堂は街を……いや、町を眺める。
「ですから、インターネットも携帯電話も無しです。何でもそれらの機器を使っていた人にすれば信じられない事らしいですね。あ、さっきの下宿先ですが、テレビもありませんから、見るなら御自分で購入して下さい」
「いや、僕は元々テレビは見ないほうだし」
 ってか、それより気になるのは、この杭なんだけど。
 そこには大きな白い杭が刺さり、この病院の名前が書いてあった。
「野々村診療所?」
「確かに野々村診療所ですね。いいじゃないですか、サナトリウム文学っぽくて」
 そこには野々村診療所と書かれた杭と雑木林のような疎らな木々が並んでいた。ま、サナトリウム文学って言いたくなる気持ちも理解出来る。が……こいつが言うと何か違う気がする。
「一階平屋建て……ですが、敷地は広そうですね。まぁ、この踏み固められた部分が通用口に続いてるんでしょう」
 林の奥に白い屋根が見えているのを目ざとく見付け、藤堂は楽しげに言う。
 病院と言われ、僕はこの世界で最初に堕ちて来たあの病院のような場所を想像していたのに……ちょっと意外だったな。
「ふふふ。やはりサナトリウムでは青白いほど色の白い美少女が似合いますよね?」
「悪いけど僕が助けた女の子は色の浅黒い体育会系の女の子だったぞ。それに目付きがめっちゃ悪い。どう引っくり返しても病弱には見えなかったよ」
 藤堂ががっくりと肩を落とし、「色黒ですか……」と呟く。
「いや、しかし……日焼けの似合うスポーツ少女に言葉責めにあうのも中々良いと思いませんか?」
「僕に聞くなっ!」
 こいつと言い、朽木と言い、何で僕をこんなに苛立たせるんだ?この世界の人間は皆そうなのか?
 苛々してたら病院に近付いているのに気付くのが遅くなった。
 雑木林を抜けると病院がひっそりと立っていた。白い木造建築で、本当に昔のサナトリウムのようだった。
「さ、元気な美少女との逢瀬を楽しみに行きましょう」
 藤堂は診療所の両開きのドアを引く。けど、あの女の子はそんなに美少女じゃなかったぞ。ってか、こいつはあの子の顔を知らないのか。勝手に美少女に設定しているみたいだけど……。
「あ、すいません。今朝、早くに搬送された美少女がいたはずなんですが?あ、私……学園で生徒会長をしている藤堂と言います。はい……連絡を貰ったもので……」
 いや、普通に看護婦さんに美少女とか言ってるし、この人!?
 藤堂が看護婦さんと話をしている間、僕は診療所の中を観察しようとする……けど、患者は誰もいなかった。
 玄関からすぐに待合室と受付が一緒になっている場所があり、サナトリウムのような閉鎖的な雰囲気は無かった。
 いや、実際に知らないけど、サナトリウム結核治療のイメージが強くて、どうしても閉鎖的な場所と思ってしまう。
「体育会系の美少女の居場所が分かりましたよ。第二病棟の六号室です。……スポーツもですが、武道も捨て難いですよね?」
 僕は藤堂の言葉を無視して、壁に貼られた見取り図で場所を確認する。
「おや、私を無視するのですか?あなたに無視されても嬉しくも何ともないのですが……」
 勝手に落ち込め。
「と言うと思いましたか?残念ですが、私の脳はあなたのその残念な容姿を美少女に変換可能なのです。美少女がジト目で無視!それは私共の業界では御褒美と言うのです」
「病院では静かにしろ」
 僕は無感情に藤堂に言う……が、藤堂は快感に打ち震えていた。チッ、この変態め。
「まぁ、診療所の中であなたに叫ばれても他の人の迷惑ですから、ここは大人しくしていましょう。で、彼女はどこです?」
「こっちだ」
 僕は藤堂を引き連れて早足で歩く。こいつの変態的発言にはツッコミをしないのが一番だと、僕は早くも勉強していた。
 こっちが第二病棟で……五、六号室。ここか。
 僕はじっと病室の前で立ち竦む。あの、彼女がここにいる。地面に着地し、射殺しそうな視線を向けていた彼女が、この病室にいる。
「どうしました?」
「なんでもない」
 小さく溜息を吐き、僕は病室のドアをノックする。
「……」
 あれ?返事が無い。
 僕はどうする?と声を出さずに藤堂を見る。何の躊躇いも無く藤堂が頷く。
「開けるよ?」
 もう一度だけノックをして、声を掛け、ドアを開く。ま、開くと同時に撃たれる事は無いだろう。と、ドアを開け、僕は思い出す。朽木はドアを開けると同時に撃たれた事を。
 が、彼女はそんな事をするはずは無く……ベッドの上で大人しく座り、静かな瞳で僕を見ていた。って、誰ですか?
 そこにいたのは、ほっそりとした色の白い華奢な少女で、って言うか、本物の美少女で艶のある瞳で僕を不思議そうに見ていた。
「あ、す、すいません。間違えました。ってか、押し入ろうとするなっ!人違いだ。違う人だから、出ろってば!!」
「あ、あの……」
 細い鈴の鳴るような声で美少女が言う。ってか、ずっと聞いていたいような気にさせるような声だった。
「すいません。すぐ出て行きますから」
「その必要はなさそうですよ」
 藤堂がにんまりと笑いながら言う。ってか、顔が近いよ。
「……私、の知り合いの方ですか?」
 え?
 僕は彼女を振り返る。ってか、人違いじゃない?って、あの女の子なの?え、ええぇぇええええ???
 
 
 嘘だ。あり得ない。絶対に違う。
 僕は眉間に縦皺を入れ、堅く目を閉じていた。藤堂はそんな僕を無視して上機嫌に説明を続ける。
「と言う訳です。あなた方二人は互いに記憶を失い……」
 藤堂は、どうやら僕も記憶喪失にして細かい齟齬を無視してしまうつもりらしい。
「こちらが兄の北条芳樹さんです。あなたが妹の北条……真帆さんです」
「おい、ちょっと待て」
 にっこりと微笑みながら藤堂は振り返る。が、その頬が引き攣っていた。
「余計な口出しは止めて下さい。今は大事な所なんです」
 顔を近づけ、小さな声で早口に言う。
「いや、彼女の名前って、真帆なのか?ってか、名前は不明だって言ってたはずだよな?」
「真帆は私の好みで決めました。話をややこしくしないで下さい」
「いや、そんな適当に決めていいのかよ」
「良いんです。美少女の名前はインスピレーションと昔から決まってますから」
 いや、そんな話は聞いた事ないし。ってか、話はまだ途中だぞ。
 鬱陶しそうに藤堂は背中を向ける。
「さ、それで下宿先は……パン屋さんとラーメン屋さん、それに文房具屋さんとどれにしますか?」
 彼女……真帆は無表情に「パン屋さん」と短く答える。
「ほう、パン屋さんですか?ところで……そのパン屋さんでは、レジのお手伝いなんかも募集中なんですが……学校が終わってから手伝って貰うのは?」
「……いい」
「そうですね。それがいいでしょう。リハビリにも良いでしょうし……お小遣い稼ぎにもなりますし」
「リハビリ?」
 真帆は不思議そうに、やや小首を傾げる。
 ときどき見せるそんな真帆の仕草に微妙な違和感を感じる。そう……実際に感じたから「そうした」のでなく、そうすべきだから「した」といった風なのだ。
「はい。リハビリです。記憶を無くしたショックなのでしょう。あなたはやや感情が欠落しているように見受けらます。ですから、お店を手伝う事で……お客さんの相手などで、徐々に感情の起伏を思い出して下さい」
 違う。真帆は記憶喪失じゃない。彼女の記憶はもう戻らないはずだ。死亡していた彼女の脳は酸欠で破壊されていた。それを風紀委員の物を代替で補っているだけなのだ。
 そして、それは脳だけじゃない。あの射るようだった瞳は、大人しそうな、不思議そうな光を湛え、その骨格も華奢で小さな物に摩り替わってしまっている。
「……から、学園の中等部の三年生で、お兄さんの芳樹さんが高等部の二年になります。学園での細かい規則などは……」
 真帆は彼女とは全くの『別人』だと僕は感じていた。
 これは、あの『彼女』じゃない。本当に彼女は死んでしまったのだ。ここで生きているとされているのは、全くの別人なのだ。
「……ねえ、芳樹さん?」
「え?」
 急に名前を呼ばれ、僕は顔を上げる。
「聞いていなかったのですか?彼女は以前、あなたを何と呼んでいたのですか?と聞いたのですよ」
 知るかっ!と叫びそうになった。ってか、僕がちょっと聞いていなかった間に、どんな話の展開があったんだ?
「……」
 僕は忌々しげに口を閉ざす。以前も何も僕は彼女に兄と呼ばれた事なんか一度も無いぞ。
「お兄ぃ、不機嫌?」
「誰がお兄ぃだっ!!」
「兄ぃ兄ぃは御機嫌斜めのようですね」
 藤堂が笑顔で言うが、思わず頭痛がしそうだった。
「僕もその辺はよく憶えてないんだ」
 眉間を揉みながら僕は言葉短く言う。
「まぁ、その辺りも暮らして行く内に自然と決まるでしょう。さて、」
 白々しく壁掛け時計に目を向け、藤堂は続ける。
「今日はここまでにして、後は明日にでも……」
「明日?」
 不思議そうに真帆は首を傾げる。
「はい。明日になれば生徒手帳も出来ているでしょうから、それを持って来ましょう。学校の規則などの確認もしたいですしね」
 では、と藤堂は僕を促して病室を立ち去ろうとする。
「あ、あの……」
 鈴のように小さな声が僕らを呼び止める。
「何か?」
 藤堂が振り返り、真帆と向き合う。
 僕はそのまま病室を出る。
「お、お兄さんも明日、来てくれますか?」
 断る、と心の中で叫ぶ。
「勿論、ですよ。明日も芳樹君と一緒に御見舞いに来ますよ」
 一生そこにいろ、と僕は病室のドアを閉める。美少女と同室だ、幸せだろ?
 あっさりとドアが開き、藤堂が出て来る。
「駄目ですよ。お兄さん、可愛い妹さんと私を一緒に密室に入れたりしたら……何か間違いがあったら、どうするんですか?」
「二人揃って風紀委員に粛清されればいいんじゃないか?」
 嫌味っぽく言ってやるが、藤堂は真面目な顔をして僕に訊ねてきた。
「風紀委員と言えば、気付きましたか?」
 何にだよ、と僕は声を出さずに藤堂に目を向ける。
「彼女の武器なんですが、拳銃ではなく、風紀委員と同じ短機関銃でした」
「え?」
「ベッドに掛けてありましたよ。気付かなかったんですか?」
 いや、全く気付かなかった。
 しょうがないですね、と藤堂は続ける。
「彼女の身分は一般の生徒として登録されています。なのに、携帯する武器は風紀委員と同じ短機関銃……これは何を意味するんでしょうね?」
 まぁ、いいでしょうと藤堂は一人で納得をする。
「ところで……もう一つ、気付きましたか?」
「まだ、何かあるのか?」
 僕は不安を隠して藤堂に聞く。
「あのパジャマの下はノーブラだったのですよ。推定、73cmのAカップ、どうですか?」
 真面目に聞こうとしていた僕は、無意識に拳銃を引き抜いた。
 このド変態がっ!脳漿をぶちまけて死ね!!藤堂に眉間に拳銃を突き付け――次の瞬間には拳銃は藤堂に奪われていた。
「え?」
「危ないですね。無闇に拳銃を出さないで下さい」
 一瞬で拳銃を掏り取った藤堂は「意外と重い物ですね」と、手の中で器用に持ち替えている。
 そして、僕に拳銃を返しつつ、
「しかし、その怒りは妹に近付く不貞の輩に対する物か、ナーバスになっているのに無神経な意見を聞かされた怒りによる物なのか……」
 藤堂は楽しげに訊く。
「別に。……変態を始末したかっただけだよ」
「残念ながら、私を始末したかったら剣豪並みの技量を体得してから挑戦して下さい」
 自分は剣豪並みだって言いたいのか。
「まぁ、そうですね……短機関銃用のホルスターも用意させるとしましょう。さて、今日はここまでにして置きますか。……どうぞ」
 藤堂が懐から一枚の紙を出し、手渡してくる。
「これは?」
「パン屋さんの地図です」
 見ると、それは手書きの地図だった。
「それと……これをどうぞ」
 十円玉を数枚、じゃらじゃらと手の平に落とされた。。
「場所が分からなかったら連絡して下さって結構ですから。あ、学校の電話番号は生徒手帳に書いてありますので。……赤電話って知ってますか?」
「赤電話?」
 聞きなれない言葉に首を傾げる。
「簡単に言うと……ダイヤル式の公衆電話の事ですよ」
「ダイヤル式って、あの黒電話とかと同じか」
 いや、それにしたって使った事はないけど。
「そうです。受話器を上げて、小銭入れて、電話番号を回す、ですよ。出来ますよね?」
「馬鹿にしてるのか?」
 僕は藤堂を睨む。
「いやいやいや、結構難しい物なんですよ。特に慣れないと、ね」
 公衆電話なんか誰にでも……あ、いや、ダイヤル式か。あれってダイヤルを回して、戻す時って離していいんだっけ?
「さて、私は学園に戻りますので……また、明日にでも」
 話をしている間に、もう診療所の出口へと近付いていた。軽く会釈をして藤堂はそのまま診療所を出て行く。
 そして、僕は渡された手書きの地図を見る。
「パン屋、さんか。……って、ちょっと待てぇ!」
 僕は慌てて藤堂の後を追って診療所を出る。
 冗談じゃないぞ。すっかり忘れてたけど、僕は学園とやらの場所も知らないんだった。
 こんな右も左も分かんない場所に放り出されて堪るか。
 停めてあったバスの手前で藤堂に僕は追い付く。
「チッ……」
 背中越しに小さな舌打ちが聞こえた。くそっ、僕が学園の場所も分かってないと知ってて置き去りにしようとしやがったな!
「ちょ、待って……く、れ」
 バスの手前で藤堂に僕は追い付く。ってか、急に走ったから肺が……。
「どうかしましたか?」
 にこやかに藤堂は振り返る。
「パン屋、の地図は貰ったけど……、学校、学園か?まぁ、どっちでもいいけど、その場所」
「あぁ、学園の場所ですか?」
 僕が最後まで言う前に藤堂は答える。
「地図が、必要な書類と一緒に下宿先に送ってありますよ。……多分」
「多分?いま多分って言ったよな?」
 御気に為さらず、と藤堂は微笑む。が、普通は気にするだろ?
「今日は学園に来る必要はあるませんよ。転校生もあなただけですし……あぁ、あなたと真帆さんの二人でしたね」
 それに、と藤堂は続ける。
「学園の詳しい場所が気に成るのでしたら、明日、御見舞いに来た帰りに一緒に登校する、でどうでしょうか?」
「僕も来ないといけないのか?」
 出来れば、ここには二度と来たくないんだけど?
「当然です。あなたと北条真帆は一緒にパン屋さんの二階に下宿するのです。これはもう決定事項です」
 そう言われて、手の中の地図を見る。
「ちなみに、パン屋さんは28歳の未婚妙齢の女性です。現在、恋人はいないそうです……が、学園の外でも風紀委員の目が光っていますので、不純な好奇心はほどほどに」
「あんたじゃあるまいし、そんな誰にでも欲情しまくるかよっ」
 僕と藤堂がいつまでもバスの前で話をしているので気になったのだろう、春日さんがバスを降りて来た。
 互いに小さく会釈をする。
「御見舞いは終わりましたか?」
 事務的に春日さんは藤堂に訊く。
「あぁ、明日の御見舞いに来る予定だよ。彼女……北条真帆と言う名前にしたよ。生徒手帳の手配をよろしく頼むよ」
 では、と今度こそ藤堂は僕の前から立ち去った。