scene-12
 
 
 誰もいない公園のベンチに座り、大仰な溜息を吐く。
 結局、学校をサボってしまった。まぁ、内申とか関係がないからいいけど。ほんとは良くないけど、良い事にしておこう。
 しかし……見事に誰もいない公園だな。
 僕は周囲に胡乱な目を向ける。自販機は公園の外か。ってか、この近くにはなかったよな。
 喉が渇いてるような気がして、制服の喉を緩める。
「……チッ」
 自然と舌打ちが出る。何で頭の中で何度も佐倉の死顔が浮かぶんだよ。
 虚ろな目をした……動かない、何も映していない目と無残に喰われた頬の傷が、膿み出した瘡蓋のように記憶の中で疼いている。
 僕の脳裏では佐倉の笑顔と死顔が繰り返しフラッシュバックされていた。
 そして、理由もなく苛付いている。無性に腹が立っている。
 何でなんだ。落ち着けよ。
 自分に言い聞かせるが、無駄だった。
 狂ったように髪を掻き毟り、地面に目を向ける。
 何もない、ただの地面だ。
 蟻でもいれば気晴らしに踏み潰してたかも知れない。
 ガリ、と強く短く髪の中で爪を立てる。
 そのまま掻き毟りそうになるのを必死に思い留める。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着くんだ。
 そもそも佐倉だけじゃないんだ。僕も……僕らも死者なんだ。
 この世界にいる者は誰もが死者なんだ。
 じゃぁ、佐倉は?
 佐倉は死んでいた。そして、あの……今いる佐倉も死んでいるんだ。
 死者、なんだ。
 だったら、この世界に堕ちた時から、僕らは誰もが『死』に弄ばれているのか?
 玩具にされているのか?
 では、安らかな『死』は、どこにあ
「誰かと思えば……」
 不意に掛けられた声に僕は顔を上げる。
「やはり、お前はかまってちゃんだな」
 どSの風紀委員が立っていた。ってか、手前に用はないよ。
 何も答えないまま僕は視線を地面に戻す。
「おいおい、無視か?図星をさされて恥ずかしくなって顔を背けるツンデレちゃんか?」
「うるせえよ」
 下を向いたまま面倒臭そうに答える。
 僕の前まで来て風紀委員は頼んでもいないのに喋り出す。
「ご近所の若奥さんから通報があったのだよ。学校がある時間なのに男の子が公園のベンチに座っているとね」
 手入れの行き届いたローファーの靴先がある。
「昨日は課外授業があったので、今日は比較的自由にしている生徒がいる、と話したのだがな。……様子が普通じゃないと言われてな」
 話をしながらどSの爪先は器用に文字を書いている。
「自殺でもしそうな感じで、怖いから見てきて欲しいと頼まれてな」
 この字を書いているのは無意識なんだろうな。ってか、何でホの字なんだ?
 僕は浮かびかけた笑みを噛み殺す。
「しかし、我々風紀委員だけでは物足りないのかい?近所の若奥様にまで手を出すとは……。年上趣味のかまってちゃんか?」
「違うっての」
 僕は地面を見たまま怠そうに答える。
「なんで地面ばかり見ているのだ?言っておくが私はスパッツを履いているので、不意に風が吹いてもお楽しみはないぞ」
「お前のパンツなんか興味ねえよ」
 僕は顔を上げ、どSの顔を見ながら答える。と、珍しく一瞬だけどSが驚いたような表情を見せた。
 何だ?
「これはこれは。ご愁傷様、だな」
「何がだ?」
 ふむ、とどSは視線を遠くに向ける。
「あの通報もそういう意味合いがあるのか。確か……あの日も署に通報があったはずだな。もっとも悪戯や無関係な通報も多かったから無視されいたらしいが……」
「おい、何の話だよ」
「いや、何でもない。こちらの話だよ。君は何も悩まずに思うままに行動してくれればいい」
 そのままどSは背中を向け、失礼したな、と歩き出す。
「ちょっと待てよ。ご愁傷様ってどういう意味なんだよ」
 ご愁傷様の言葉と共に佐倉の死体が脳裏に浮かぶ。と、同時に激しい頭痛に見舞われる。
「ぐがっ」
 ベンチから立ち損ねて僕は地面に手を着く。
「ま、待てよ。まだ話は終わっちゃいねえぞ」
 顔を上げた僕は、その事実に愕然とする。
 今まですぐそこに居たどSの姿が公園の出入り口まで移動していた。
 10m近く飛んでいた。いや、違う。そうじゃない。僕が意識を失っていたんだ。
 そして、次の瞬きの瞬間、手の甲の上を一匹の蟻が這っていた。
「うわっ」
 反射的に手を払い、僕は立ち上がる。ぐらり、と世界が揺れる。
 また時間が飛んだ。と、同時に佐倉の死の記憶が脳裏に浮かび上がる。子供達の声が頭の中で響く。
 公園に小さな子供が遊びに来ていた。その声が遠くに脳内で反響する。
 子供を見守る若い母親。優しげな表情の祖父母。無数の顔と声が浮かび上がり、また消えていく。
 彼らもヒトガタなのか?
 だが、それらのベースは誰なんだ?
 誰か、なのか?……佐倉もベースに使われて、
「お、ぐ」
 不意に嘔吐感が込み上げて来た。それを吐き出さずに飲み込む。が、押え切れずに嘔吐する。
 ベンチの裏に行き、何度も吐き、胃の中を空にする。
「はぁ……はぁはぁ」
 と、僕はそれを見付け凍り付く。
「何で、これは……ネジ?」
 違う!違う違う、違う!!
 僕にネジが使われているはずがない。僕は……僕は、人間なんだ。
 自分の吐瀉物を引っ掻き回し、僕は必死にネジを探す。探し続ける。
 無い。無い。無い、無い無い、ないないないない、無いに決まっているんだ。あるはずが無いんだ。ネジなんか見つからないんだ。
「ほ、ほら、ないじゃないか。僕にネジなんか使われているはずがないんだ」
 
 じゃぁ、誰に使われている?
 
 不意にその言葉が脳に突き刺さる。
 誰に?いや、何が使われているって?……違う。理解してるはずだ。
 ネジだ。誰にネジが使われているか、だ。
「決まってるじゃないか。そんなの」
 僕はぶつぶつと呟きながら立ち上がる。
「ネジはヒトガタに使われている、んだよ」
 どこか余所余所しくて他人の物のような自分の声を僕は遠くに聞いていた。
 
 
 繰り返し見せられる佐倉の死体を懐かしく僕は感じていた。
 そして、僕は理解をする。
 佐倉の笑顔、どこか懐かしいと思っていた、あの笑顔は……夏実さんの、佐々木夏実の笑顔を僕に思い出させていたんだ。
 でも、何で佐々木夏実なんだろう。
 彼女はヒトガタのはずなのに。
 ヒトガタなのに懐かしく思うのは変だろう。ヒトガタなのに愛おしく思うのは狂っているだろう。
 しかし、本当に僕が変なのだろうか?
 佐々木夏実は本当にヒトガタなのだろうか?
 それは微かな疑問だった。
 解るだろう?
 試せばいいんだよ。探せばいいんだよ。
 試す?探す?
 そう。それは簡単に調べられるよ。
「調べられ、る」
 ああ……そうか、分解してみればいいんだ。
 でも、それが僕に出来るのか?
「でき、る」
 バラバラにするだけじゃないか。そんなの簡単じゃないか。
 僕には出来る。
 僕は佐々木夏実をバラバラに出来る。
 そして、僕の手は目の前の扉を押す。
 boulangerieの扉を開く。
 カラ、ン。
「あ、おっかえり〜。って、早くない?」
 一瞬だけ佐々木夏実は僕を見てから壁際の時計に目を向ける。
 見なくても午前中なんだから早いのは理解出来るはずなのに……白々しいな。
 やっぱ、り……ヒトガタだから無駄な演技が入るんだ。彼女はヒトガタなんだ。
 僕は静かに鞄からナイフを取り出す。
「真帆ちゃん、今日、友達と映画に行ってくるって。明け方に帰って来たのに元気だよねえ」
 開いたままの鞄を捨て、ナイフを左手に持ち替える。
 踏み出した足が鞄を蹴り、散らかった教科書を踏みにじる。
「風紀委員に捕まって知らないよって言って」
 と顔を上げた佐々木夏実は、一瞬で自分の危機を理解する。
 素早くレジ台の下に隠れようとするのを髪を掴み、上に引き摺り上げる。そのまま頭をレジ台に押し付ける。
「ひぎっ、……やめ、て」
 と言いながら佐々木夏実はレジ台からレジを押し出す。レジ横のナイロン袋や店の名詞、トレイが周囲に飛び散る。
 レジに足を挟まれまいとして僕は髪を掴んだまま後ろに下がる。その瞬間、佐々木夏実は掴まれた髪をレジ横のパン切りナイフで切り裂いていた。
 掴んでいた髪を切られ、僕は後ろに倒れ掛ける。
 佐々木夏実はレジ台から抜け出し、振り返らずに走り出す。
 僕は駆け出した佐々木夏実の髪を再び右手を伸ばす。
「助け、誰か」
 怯えた表情で僕を睨みながらパン切りナイフを振り上げる。
 右にそれを避け、手に伸ばし、髪を掴む。と同時に無理やり下に引き下げる。
 ブチブチと髪が千切れる感触が手に伝わってくる。
 目に涙を溜めながら佐々木夏実はパン切りナイフを振り回す。が、あっさりとそれを落とす。
 カラン、カラカラ……。
 フローリングの床に落ちたパン切りナイフが渇いた音を立てる。
 冗談みたいな大粒の血が床に落ちていた。ぼた、ぼた、とぼたたた、と血が流れて行く。
 右の手首が深く切り裂かれていた。垂れ下がる肉片のように手首から先が辛うじて腕にぶら下がっている状態だった。
 茫然とした表情で自分の右手首を佐々木夏実は見ていた。
 そして、その表情のまま僕の手の中にあるナイフを見る。
 千切れ掛けの手首を抱きしめ、意味を成さない叫びを上げる。
「ぅあぁぁああぁぁあああああぁぁあああ……」
 崩れるように佐々木夏実はその場で座り込む。
 身体を丸め、駄々を捏ねる子供のように座り込んで大粒の涙を零す。
 ゆっくりと佐々木夏実の髪を掴み、顔を上げさせる。
「ひ、ぎぃ」
 涙に濡れた、怯えた顔の佐々木夏実を見ても、僕は何も感じなかった。
 ただ静かに、その首にナイフを当てる。
 そして髪の毛を掴んだ右手をほんの少し緩める。顔が下がり、ナイフに喉が喰い込む。
 佐々木夏実の白い喉にナイフの刃が食い込むのを冷めた目で僕は見る。
 右に流れるように佐々木夏実は逃げる。喉に喰い込むナイフから逃げるように立ち上がろうとする。
 細い指がナイフを押し戻すように掴む、が……左手の指が数本、落とされただけだった。
 不必要なにまで深くナイフを佐々木夏実の喉に埋め、躊躇わずに強く引く。
 不意に、バランスを崩したように派手な音を立てながら佐々木夏実は倒れる。指の無くなった左手とほとんど千切れた右手で喉を押え、胎児のように丸まる。左足が何かを蹴るように痙攣していたが、それも断続的になり……収まる。
 あっさりと、佐々木夏実は絶命していた。
 いや、違う。もうとっくに死んでいたんだ。
 レジ台にまで戻り、ナイフを置く。ほんの数mの動きなのに、ひどく億劫だった。
 何度か深呼吸をする。血の香りが肺の中を満たして行く。その死の香りを存分に楽しむ。
 佐々木夏実の傍まで戻り、死体を見下ろす。
 さっきと何も変わっていない。胎児のようなポーズで倒れている。小さくはない血溜まりが喉を中心に広がっていた。
 静かに死体を抱き上げる。ほとんど千切れ掛けた首が垂れ下がるのが邪魔だった。
 死体を広くなったレジ台に寝かせる。
 着ている服をナイフで切り裂く。そのついでに引き締まった腹も裂く。垂れるように流れ出た血が、剥き出しになった臓物の上を流れて行く。
「先ずは……内臓の中から探すか」
 掴み出した臓物を近くのあるパンが並んだ陳列台に積み上げる。一度では無理なので二度、三度と繰り返し積み上げていく。
 腹腔が空になるまで臓物を取り出す。
 この臓物を探して無ければ……皮を剥いで探せばいい。
「あれ?何を探すんだっけ?」
 何て、な。分かってるよ。ネジだろ?ネジを探せばいいんだろ?
 そうだ。顔の中も調べてみよう。どこかに隠されているはずだ。鼻を削ぎ、額の皮を剥ぎ、眼球を抉る。
 ネジは……どこかにあるはずだ。
 誰も居ないパン屋の中で、僕は佐々木夏実を解体する。ゆっくりと……時間を掛け、バラバラに、する。
 
 
 血の臭いが辺りを満たしてた。
 いや、血の臭いだけじゃない。生臭い……脂の臭いも混じっている。
 積み上げられた臓物の臭い。削がれた部品の臭い。
 出来損ないのオブジェのような佐々木夏実の死体の前で僕は茫然としていた。
 脳は繰り返し僕に何かを見せ続けている。
 でも、何を?
 何を僕は見ているんだ?
 これは……誰、なんだろう?
 どうして、僕はこんな、に寂しいんだろう?
 カラン、コロン。
 楽しげなチャイムの音が鳴る。鳴っている。
「メアリー・ジェイン・ケリーの死体を模倣したのか」
 僕は無言のままその声に目を向ける。
切り裂きジャックの最後の犠牲者と言われる25歳の娼婦の名前だよ。しかし……」
 彼女は顔色一つ変えずに部屋の惨状を見る。
「100年以上も前の事件をこの時代に再現する意味があるのかね?……と、君に言っても無意味か」
 一歩、また一歩と彼女はパン屋の中を進む。
「返り血はほとんど浴びていないのだな」
「最初の一撃で血をほとんど抜いてやったからな」
 激しい衝動を抑え込んだような声が静かに答える。
「内圧を抜いてやるんだよ。大半を手首の傷で抜き、他の部位を削ぐ際にも刃を入れたときに圧を十分に抜きながら裂けばいい」
 自然と笑みが漏れる。
蒸気機関と同じだよ」
「そんなものかね。ところで……」
 と、彼女はレジの奥の壁を指差す。
「100年前から気になっていたんだが、そこの壁、何が書かれている?文字が書かれているだろう」
 振り返り聞いてくるが、僕には壁に文字を書いた記憶はなかった。
「文字?文字など俺は書いていない。俺は文字なんか書いていない。書いてない、文字じゃない」
 野太い声は、力無く、徐々に弱々しく虚ろになっていく。
「文字じゃない?」
「あれ、は……絵だ」
 虚ろな声は答える。
 絵?と彼女は聞き返す。
「ネジ、の……絵だ」
「何故、ネジの?」
 その問いに僕は首を振って答えている。
 わからない。何故、そこに絵を描いたのか。何故、ネジなのか。僕には、わからない。
「ふむ。私には下手な英字が書かれているようにしか見えないのだがな。まぁ、いい」
 彼女は奥へと歩を進める。
「こっちへ来い。裏口から逃げるんだ」
 逃げる?
切り裂きジャックの事件では犯人が捕まってはいない。だから、いつまでもここにお前が居たら我々が踏み込めないだろう」
 彼女は戻って来て僕の腕を掴む。
「とにかく、ここを早く離れるんだ。出来るだけ遠く、ここから距離を置くんだ」
 彼女はパン屋の裏口を開けながら振り返り言う。
「いいか。正気に戻っても早まったことだけはするなよ。必ず、必ず君の身柄は我々が保護する。だから、それまで……」
 裏口のドアを開き、彼女は僕の背中を押す。
「急げ。十分後に我々は通報を受け、ここに来る事になっている。それまでに出来るだけ遠くに逃げるんだ」
 二歩、三歩と進み、僕は後ろを振り返る。が、
「見るな!前だけを見て進め!!」
 彼女に言われ、僕は前を向き直る。前だけを見て、進み続ける。
 細い路地を抜け、大通りに出る。が、また迷わずに細い路地に入り込む。
 自然と足が小走りになる。路地から路地へと逃げるように走り続ける。
 違う!逃げるようにじゃない。僕は……僕は逃げているんだ。
 何をしている?いや、何をした?
 僕は何をしたんだ?
 僕は夏実さんを、殺し……バラバラにし――
 細い路地の真ん中に立ち竦む。ゆっくりと走って来た方を振り返る。
 そう、僕は夏実さんを殺していた。
「う、」
 叫びそうになる口を強引に抑え込む。そして、左手で持っているナイフの血を見る。
 夏実さんの、血?
「げはっ、げえ、ぐげぇえ」
 ナイフを捨て、口の中の涎と反吐を吐く。が、ほとんど胃の内容物は無かった。地面に膝を着き、だらしなく涎を垂らすばっかりだった。
「うぅ、えぐっ」
 視界が歪む。
 僕は何をしているんだ?何で僕が夏実さんを殺さないといけないんだ。
 大通りの喧騒が聞こえ、僕は怯えたように振り返る。
 違う。大通りはもっと向こうだ。ここまで声が聞こえるはずがない。
 震える手で落ちているナイフを拾う。右手で引き寄せる。
 出来るだけ遠くに逃げろとあいつは言っていた。
 あいつ?
 あれは、風紀委員だったのか?
 分からない。記憶が判然としない。
 だけど、パン屋の中で僕は誰かと会っていた。
 そいつは……遠くに逃げろ、と言っていた。
 なぜ、逃げる?
 解り切った事だ。
 佐々木夏実を殺したからだ。
 だったら、捕まった方がいいんじゃないか?
 そう思いながら、僕は細い路地の奥へと這うように逃げる。
 立ち上がり、影の中へ、闇の中へと姿を隠す。
 捕まるのは……嫌だった。
 夏実さんを殺した事を、みんなに、真帆に知られるのは嫌だった。
 僕は自分のした事を知られるのが怖かった。
 逃げて来た方に背中を向けて、ふらふらと歩き出す。
 逃げろ。ここから逃げるんだ。
 細い路地を見上げ、空に目を向ける。
 冗談みたいに晴れた空だった。
 白い雲がゆったりと流れて行く。
 ここから太陽の姿は見えない。
 今、何時くらいなんだろう?午後なのは間違いない、が……午後の何時くらいなのかが分からなかった。
 一瞬だけ腕時計に目を向けるが、正確な時間は見ない。
 もう、死体は見付かったのだろうか?
「くっ」
 佐々木夏実の姿を脳裏から追い出し、僕は逃げる事に集中をする。
 先ずは一直線に距離を稼ごう。そして稼いだ時間で考えよう。どこか落ち着ける場所で、この後の事を考えよう。
 殺人者が後の事なんか考えて何になる。
 心の中で声がそう言っていたが、落ち着いて考えるんだ。
 少なくとも僕は考えなくちゃいけない。
 これからどうするのかを、どこかで考えなくちゃいけないんだ。
 
 
 このまま、ここに居たら死ねるんじゃないか?
 そう思いながら、そんな事はないと僕は知っている。もう落ち着いてしまった胃袋がそう語っていた。
 馬鹿みたいに丈夫なのが僕の取り柄だった。だから、ただ、ここに居るだけじゃ死ぬことは出来ない。
 座り込んだまま、ぼんやりと目を天井に向けていた。
 薄汚い天井だった。
 破れ掛けた蜘蛛の巣が見える。小さな羽虫が蛍光灯に向かって飛んでいる。
 もう何時間もそんな変わり映えしない天井を眺めている。
 ここがどこかは知らない。海が見えていたから出島の端の方にある公園なのだろう。
 目の前に便器があるからトイレの中なのだろう。
 記憶があやふやだから断言はできない。が、そうなのだろう。
 そうだ。出島の端にある公園の公衆便所の個室の中に僕は隠れている。
 何度も繰り返し吐いた。
 吐いた後の便器は備え付けのトイレットペーパーで美しく磨かれていた。
 もちろん、僕が磨いたのだ。
 何度も吐き、それこそ血を吐くまで吐き続け……僕は正気を取り戻した。
 いや、断言はできない。
 できないが、正気を取り戻したはずだと思う。
 が、それも説得力がない、か。僕自身が未だに自分の正気を疑っているんだからな。
 小さな溜息を漏らす。
 個室の床に座り込んで僕は考える。
 どうしてこうなったのかを考える。
 多分、最初の異常はあの佐倉との出会いだろう。
 ヒトガタの佐倉に出会い、僕は精神のバランスを崩した。
 そして、夏実さんを殺してしまった。
 が、そこに僕は作為的な物を感じずにはいられない。
 そもそも僕はヒトガタの佐倉に出会った程度の事でショックを受けるだろうか?
 ヒトガタはこの世界の、言ってみればNPCだ。
 そのベースになる人間のサンプルには数量的に限界があるだろう。
 使い回しは、当然あるはずだ。
 つまり、ヒトガタの補充に、変な言い方だけど、死んだ死者を使うのは十分に考えられる。
 普段の僕なら瞬時にそう理解したはずだ。
 これは『想定内』の出来事だと判断したはずだ。
 ま、瞬時には無理でも、適当に話を合わせながら様子を見るくらいは出来たはずだ。
 なのに、僕はパニックを起こした。
 そして、夏実さんの殺害した。
 夏実さんの遺体を思い出し、ひくっと喉が痙攣をする。
 込み上げる吐き気を飲み込み、噛み締めた歯の隙間から深呼吸をする。
 遺体の様子を出来るだけ思い出さずに記憶を反芻する。
 夏実さんを殺してしまった後、あの風紀委員は何を言っていたのだろう。
 そう……あれは風紀委員だったはずだ。
 思い出せるキーワードは『逃げろ』だけだった。
 保護するってのも記憶にあったけど、これは僕の願望かも知れない。
 そりゃ、殺人犯として逮捕されるより、何らかの理由で殺人を犯してしまった者として保護された方がいいに決まっている。
 ってか、最低だよな。
 夏実さんを殺しておいて保護されたいなんて、都合が良過ぎるだろ。
 手の中のナイフに目を向ける。
 そう。僕は未だにあのナイフを捨てないでいた。
 拳銃と同じように捨てられないのかも知れないけど、僕は明確な意思を持って、そのナイフを未だに手にしていた。
 つまり、自身の死の為にナイフを持っていた。
 喉でも心臓でも好きなところを突けば……それで死ねる。
 そう思いながら、僕は未だに生きている。
 正直、死ぬのが怖かったからだ。
 もう死んでいるのに、まだ死にたくないと思っている。いや、二度と死にたくないと思っていた。
 それに……誰かに嵌められたのなら。このまま死ぬのは悔しかった。
 そう、僕は嵌められたんだ。そう感じずにはいられない。自分勝手な言い方だけど……馬鹿な言い訳にしか聞こえないけど、あれは僕じゃない。
 実際に殺したのは僕かも知れないけど、あれは……あれは、まるで操られていたような感覚だった、はずだ。
 その証拠に曖昧な記憶しか僕にはない。
 あ、いや……でも、僕が多重人格だったらあり得るか。
 つまり、佐倉のヒトガタに出会ったショックで僕は多重人格になった。もしくは、眠っていたもう一人の僕の人格が表面に出て来た。
 そして、ここに座っている間に人格がまた入れ替わった。
 正気を取り戻した僕は現状の分析を始めている、か。……否定できる要素がないな。
 ってか、そっちのがあり得るんじゃないか?
 そう考えれば、何もかもが当てはまるような気がした。
 風紀委員が言っていた『保護する』も精神的な病気が原因なんだから保護されて当たり前じゃん。
 じゃぁ、やっぱり……僕が夏実さんを殺したんだ。
 自然と涙が零れていた。
 あんな滅茶苦茶な殺し方しといて、今さら何を僕は悲しんでいるんだ。そんな資格はないだろう。
「……ごめんな、さい」
 天井を眺めながら僕は言う。
 ひどく安っぽい言葉に聞こえるけど、僕には他に言いようが無かった。
 夏実さんの懐かしい笑顔を思い出そうとするけど、なぜかそれはあの無残な死体に上書きされていた。
「ごめ、んなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
 手に握ったナイフを見る。が、僕には自殺するような勇気はなかった。
 目を閉じ、溜まった涙を抑え込む。
「ぐ、えぐっ」
 僕に何が出来る?何をすれば許される?
 許されるはずなんかない。何も出来ないに決まっている。
 それでも、僕は
 
 コツン。
 
 ビクッと激しく震え、個室の中で僕は振り返る。
 誰だ?
 今のは……靴音、だった。
 両手で口を押え、限界まで息を殺す。
 公衆便所なんだから、誰かが来たっておかしくない。だけど……何で入り口に立ったままなんだ?
 と思ったら、あっさりと中に入って来た。
 微かな靴音が徐々に近付く。
 外から光の無い時間だった。その人影の移動を映すものは何もない。
 いまの時間!
 何故か僕は自分の腕時計の時間を見る。
 九時十八分だった。
 いや、だめだ。時計の針からは状況を打破する方法は浮かばない。
 そして、小さな靴音は止まる。
 僕の隠れる個室の前で。
 トイレのドアの下の隙間から茶色いローファーが見えている。
 見覚えのある靴だった。
 風紀委員の履いているローファーだった。
「北条芳樹さんですね。我々は風紀委員のものです。あなたの保護に来ました。ここを開け――」
 唐突に銃声が鳴り響いた。と同時に床に肉体が打ち付けられる音が聞こえた。
 外からも連続して銃声が聞こえてくる。そして、また最初の銃声が二度、三度と繰り返された。狭い公衆便所の中で銃声が狂ったように鳴り響いていた。
 両手で頭を庇いトイレの奥へと逃げる。薄いガラスのように鼓膜が割れそうだった。まだ銃声は終わらない。
 そして、始まった時と同じく唐突に静寂が訪れる。
 な、何だ?何が起こった???
 いや、分かっている。風紀委員が誰かに撃たれたんだ。
 だが、誰が?
 トイレの床から這い上がり、僕は逃げ場を探す。が、個室の中にそんなものはあるはずがなかった。
 どうする?どうすればい
「よっ。久しぶり」
 そいつは隣のトイレとの敷居から顔出し、馴れ馴れしく声を掛けてきた。
 優しげに、にこやかに、場違いなまでに晴れやかな顔を出す。
 その顔を見て、僕は自分の目を疑う。そして、怪訝そうに顔を歪める。
「朽木?」
「お前が女の子だったら、白馬に乗って迎えに来たぜ、とか言うんだけどな」
 いや、お前みたいな白馬の王子は全力で遠慮させてもらうぞ。ってか、どうしてここにいる?