scene-13
 
 
 久しぶりに見た朽木はトイレの敷居の上から顔を出し、嘘っぽい作り笑顔で僕に言う。
「っていうかさ、ここ……開けてくんない?」
 顎でドアを指し、にこやかな笑みを続ける。が、その表情に僕は胡散臭さしかを感じることができない。
「何で……どうして、お前がここにいるんだ?」
 僕は不信感を隠さずに言う。しかし、トイレの壁に背中を押し付けているので、ただ怯えているようにしか見えないだろう。
「その辺は、まぁ……話すと長くなるんだよ。だから、ここを開けてくれよ。場所を変えながら話そうぜ」
 朽木の顔を見ながら僕は考える。トイレの敷居から顔を出した怪しい男の提案だ。僕は自分の本能に従い、その答えを口にする。
「……嫌だ」
 ぼそりと呟く。
 はっきり言って、嫌な予感しかしないぞ。ってか、罠としか思えない。
 僕の返事を聞いた朽木の表情がゆっくりと変わる。にこやかな笑顔から仏頂面に。そして、呆れたような溜息を吐く。
「面倒臭っ」
 言うと同時に朽木はトイレの敷居を乗り越え、僕の入っていた個室に身を躍らせる。
「ちょ、おま……入ってくるなよ」
 僕の抗議を無視して朽木はトイレの床に降り立つ。そして、あっさりと中から鍵を開けてしまう。
「こんなとこで野郎と二人っきりだと変態と思われるからな」
 面倒臭そうに朽木は言う。
 数時間ぶりにトイレのドアが開き、冷たい風が個室を満たす。と、同時に濃密な血の臭い流れ込む。
 見ると、二人の男子生徒が血溜まりの中で風紀委員の死体を死体袋に押し込もうとしていた。風紀委員は頭を撃たれ、身体にも数発の銃弾を受けていた。明らかに即死なのに、死体の手足は鉄錠で拘束されている。
「早くしろ。猿轡も忘れるなよ」
 朽木は言いながらトイレの外へと足を向ける。
 何が起こっているんだ?
 はっきり言って、僕には理解が出来なかった。ってか、脳の容量をもう超えているっぽいぞ。
 振り向き、朽木は付いて来いと短く言う、何も考えられず僕は朽木の後を追う。
 公衆便所の外にも二人の風紀委員の死体があった。そして、その傍に女生徒の佇む姿があった。
「全弾、撃ち尽してあります」
 そう言いながら手に持った拳銃を朽木に手渡す。
「ほいよ」
 と、朽木はスライドが下がった拳銃を受け取り、
「ほらよっ」
 と、僕に軽く投げてくる。
 条件反射で受け取り、僕は手の中の拳銃に目を向ける。
「え?」
 いや、ちょっと待て。この拳銃って、そこで倒れてる風紀委員を撃ったヤツじゃないのか?
「ちょ――」
 言い掛けた僕の手から今度は拳銃を奪い、朽木はあっさりとそれを……遠くに投げ捨てた。
「ええぇぇぇえええ!?」
 見ると、女生徒と朽木は手袋をしている。
「よしっと」
 腰に手を当て、満足そうに朽木は言う。
「よし、じゃねえよ。全然良くねえよ。あの拳銃、ここの倒れてる風紀委員を撃ったのだよな?何でお前ら手袋してるんだよ?ってか、あの拳銃、僕の指紋がモロに付いちゃったじゃないか!」  
「うん。そーだね」
 白々しく耳を掻きながら棒読みで朽木は言い、女生徒は何も言わずに公衆便所の中へ消える。ってか、男子トイレに躊躇わずに入りやがったぞ、あいつ。
 いや、こいつを相手に騒いでも無駄か。少し冷静になった方が良さそうだ。
「お前、僕を助けに来たんじゃないのかよ?」
「さぁな。どうだろうな」
 っつかさ、と朽木は振り返り、
「助けに来たんじゃなくて、俺はお前と交渉に来たんだよ」
 にやりと犬歯を見せて笑ってみせる。
 へ?交渉???
「ここで風紀委員が再び来るのを待つか。……俺と一緒に来る、かをな」
「って、ちょっと待ってくれ。風紀委員って、お前ら撃ち殺したよな?しかも、僕にその拳銃を持たせて指紋を付けさせたよな?ここに残ってたら僕は殺人犯になるんじゃないのか?」
「いや、佐々木夏実を殺している時点で、もう殺人犯だろ」
 その一言で僕は言葉を詰まらせる。
「で、でも、風紀委員は僕じゃないぞ」
「っていうかな。風紀委員もヒトガタも人間じゃ無いんだからノープロムレムだぜ?」
 え?いや、だって……人殺しだろう?
「それに、そもそもこの世界で殺人は罪じゃない。……知らなかったのか?」
 殺人は罪じゃ、ない?
 そういえば、この世界に堕ちた日、あの地下室で朽木は茶髪の男子を撃ち殺していた。じゃぁ、それじゃ殺人は合法なのか?
 いや、そうじゃない。合法か非合法化は関係ない。
「罪じゃないはずがないだろう!殺人だぞ。人を殺しているんだぞ」
「そうだ。慈悲の精神を持って殺してやっている、いわば慈善事業だよ」
「慈善事業?」
 一瞬、その言葉の意味が理解できずオーム返しで同じ言葉を繰り返す。が、理解が及ぶよりも早く僕は行動に出ていた。
「手前ェ!!」
 朽木の襟首を掴み上げ、右手で殴り付ける。右手にナイフを握ったままだったが、すでに拳を繰り出した後だった。
 が、あっさりと朽木の左手で僕の拳は止められる。
「こ、のっ!」
「落ち着けよ」
 落ち着けなんて言われて落ち着いていられるかよ。ってか、右手が磁石に吸い付いたみたいにびくともしねえぞ。
「風紀委員は獄卒だし、ヒトガタに至っては……単なる人形だろう」
「うるせえ!離せよ。俺の右手に何をしやがった!?」
「別に。ただ握ってるだけだぜ。何かをされたって感じるのは、お前が弱過ぎるんだよ」
 そして、あっさりと僕の右手は解放される。
「これ、離してくれよ」
 朽木は左手の人差指で、僕の左手を軽く叩く。が、僕は短い悲鳴を上げて手を離した。
「ん、痛かったか?」
 痛かったに決まってるだろ。金槌で殴られたみたいだったぞ。
「よく見ろよ。そいつら」
 倒れた風紀委員を見て、朽木は言う。
「何を見、ろって」
 目の前でそれは現在も進行中だった。ゆっくりと確実にそれは……再生を始めていた。
 零れた血を集め、飛び散った脳漿を集め、肉片を集め、傷口を塞いでいく。傷口を盛り上げていく。
「嘘だろ?」
「嘘じゃねえよ。こいつらは死なねえんだよ」
 愕然とした呟きに、朽木は言葉を返す。
「一定時間の活動は止められるが、殺すことはできない」
「こっちの用意は出来たよ」
 不意に声が掛かる。さっきの女生徒と一緒に死体袋を抱えた男子生徒二人がトイレから出てきていた。
「おぅ、さんきゅ。じゃ、行くか?」
 朽木は死体袋と小さな鍵を受け取り、軽々と左肩に担ぎ上げる。
「行く、って?」
「ここに居たって仕方がないだろう?それとも何か、記憶が改竄されるまで風紀委員らに隔離されたいのかよ?」
「隔離?」
「そう。切り裂きジャック事件の模倣にお前は選ばれたんだよ。佐々木夏実はその被害者な」
 切り裂き、ジャック?
「元々のお前はこの公衆トイレで保護される予定だった。保護し、事件の記憶が無くなるまで隔離もしくは幽閉されるはずだった」
「じゃ、じゃぁ」
 僕はその言葉に救いを求める。
「あぁ、お前はこの後、全てを忘れる予定だった」
「朽木、お前……何をしてくれているんだよ!!?お前がいらない事をして無かったら僕は」
「お前は全てを忘れていた。佐々木夏実の事もあの妹の事もな」
 え?
 朽木は僕に向かって一枚のポラロイド写真を投げる。
「もう改変は始まっている」
 それは全く知らないパン屋の写真だった。なのに、左右の店は記憶があった。boulangerieの隣にあった店だった。夏実さんの店だけが、そこには写ってなかった。
 いや、そうじゃない。夏実さんの店が、全く知らない店に変わっていた。
「なんで、こんなの変じゃないか。何でboulangerieが違う店になってるんだよ」
「ヒトガタや生徒はもう誰もboulangerieや店主の佐々木夏実の事を憶えていない。お前の妹も風紀委員に身柄を拘束されているから……遅かれ早かれだな」
 朽木は続けて言う。
「実際に殺したお前と風紀委員、それと時系列的に続いている俺達以外は知らない事になっている。今は、な」
「今は?」
「お前が隔離され、記憶を消去されれば……俺達の記憶も改竄される」
 あれを無かった事にできる?
 僕の心の中を読んだように朽木は言う。
「無かった事にできる、が、それは佐々木夏実の消滅を意味するんだよ。佐々木夏実の記憶を全て無くす事を意味する」
 夏実さんの記憶を全て?
「だ、だけど……あんな記憶なんかあってもいい事ないじゃないか」
「佐々木夏実の殺害はお前の意思じゃない。それよりも……考えるべきは、佐々木夏実の全ての記憶を無くなる事だ」
 佐々木夏実に対する全ての記憶。夏実さんの顔を思い出そうとしたが、なぜかあの死体が脳裏の浮かび上がってきた。もう僕は……二度と夏実さんの顔を思い出すことは出来ないのかも知れない。
「お前が、それでも忘れたい、忘れてしまいたいと言うなら……無理に一緒に来いとは言わないよ」
 ここに居ればいい。と朽木は背中を向ける。
「……お前と一緒に居たら、一緒に行けば、夏実さんの事を忘れないでいられるのか?」
 向けられた背中に僕は呟く。
「保証は出来ない。だが、少なくとも記憶が継続する間は憶えていられるはずだ」
 だったら、と僕は思わず声を大きくする。
「あのまま風紀委員に保護されても同じじゃないのか?」
「かもな。……だが、」
 朽木は地面あった小石を蹴る。
「少なくとも、俺は強制的に忘れさせるような真似はしないよ」
 そして、僕は自分の足元に視線を向ける。
 ここから離れれば夏実さんの事を憶えていられる。いや、風紀委員に頼めば、夏実さんの事を憶えていられるのかも知れない。だけど……、と僕は公衆便所を振り返る。
 公衆便所は弱い街灯の明かりの中で、どことなくホラーっぽい雰囲気を醸し出していた。ま、二人の死体が捨てられているんだから当たり前か。
「な、一つだけ、聞いていいか?」
 呟くような僕の声だった。
「何だ?」
「夏実さんを切り裂きジャック事件の模倣に選んだヤツって、誰なんだ?」
 それを知って、どうするとかは僕は考えてなかった。ただ……知りたかった。
 僕の質問を聞き。朽木はゆっくりと深く溜息を吐く。
「正確には分からない。が、だいたいの予想は付いている。だけどな」
 朽木はその場で振り返りながら言う。
「ほんとに、長くなるんだよ。推測の範囲を出ないし、予想や可能性の話ばっかりになっちまう」
 あのいつものやる気の無さそうな顔で面倒臭そうに言う。だけど、それで僕の意思は固まる。
「だったら、その長い話を聞かせてくれよ」
 ゆっくりと歩き、朽木の横に並ぶ。
「……いいのか?」
 今更のように朽木は聞いてくる。
「良いも悪いもねえだろ」
 ここに居るよりは色々と聞けそうだしな。ま、聞いて気に入らなけりゃ……ちょこっと暴れて風紀委員に通報するだけだ。
「で、場所を変えるんだろ。どっちに行けばいいんだ?」
 こっちだ、と短く言い、朽木は歩き出す。
 
 
 廃ビルになるのだろうか?
 朽木が案内した場所は、以外にも、公園のすぐ近くにあった寂れたビルの中だった。だが、寂れているのは外観だけで、中の清掃は行き届ているようだった。少なくとも床に埃が落ちているような事はなかった。
 それでも、ゴミや食べかすは落ちている。微妙に不自然な場所だった。散らかっているのに、足跡などは一見して残らないようにしている……といった感じだろうか?
 外の明かりだけが頼りなのに。朽木は躊躇わず進んで行く。
 僕は朽木に遅れまいとして、落ちていた空き缶を蹴っ飛ばす。カラカラと派手な音が静かなビルの中で響き渡る。
 立ち止まった朽木は静かに振り返り、嫌そうな目で僕を見る。僕はその朽木に目で訴える。
 いや、分かってるから。静かに歩けってんだろ。でもな、足元もはっきり見えないんだぜ?ここ散らかりまくってるし、何か蹴っ飛ばしてもしょうがないだろう?
 前を向いた朽木は懐からマグライトを出し、黙々と進んでいく。ってか、ライトとか持ってるなら最初から出せよ。
「ここだ」
 短くない廊下の突き当りで立ち止まり、朽木は手に持ったマグライトで床を示す。
 そこは床下収納スペースみたいで床に取っ手が付いている。朽木は器用に片手でその取っ手を持ち上げる。
 床板を外したそこは細い鉄製の梯子が続いていた。朽木は死体袋を担いだままよどみなく降りていく。
「床を閉じるのを忘れないでくれよ」
 分かってると答え、僕は誰も居ないのを確認してから床を閉じる。
 何でその必要もないのに背後を気にするのかな。ここまで静かなんだし、誰かが後を着けてたら普通は気付くだろ。
 僕が踊り場に降りるのを待って、朽木は細い階段を降りて行く。
「ここがそうか?」
 我ながら馬鹿な質問だと思いながら口にする。
「嫌、先ずは……逃げる。十分に距離を稼いでから、落ち着ける場所に移動する。……話はそれからだ」
 前を向いたまま朽木は答える。
 そして、無言の行進が続く。
 階段はすぐに鉄製の古い骨組みだけのものになる。
 しかし、けっこう降りるな。ってか、どれくらいの深さがあるんだ、ここの地下は。
 錆びた鉄の階段を何度も折り返し、ようやく最下層に着く。そこにある扉を朽木は鍵を使って開く。
 ようやく降り終わったか。しかし、数えてなかったけど、かなりの深さがあったよな。十階分以上は階段を降りた気がする。
「ここか?」
 ポケットから鍵束を出すのを見ながら、僕は朽木に尋ねる。
「まさか。まだ下に降りただけだぜ。少なくとも出島から外に出ないとゆっくり話なんか出来る訳がないだろう?」
 言いながら扉を開け、僕に先を行かせる。って、島を出るのかよ!!?
「おい、どこまで行く気だよ?……え?」
 扉を先に出た僕はその景色に愕然とする。
「何だ、よ。ここ……」
「ここは……名前を付けるなら地下回廊、かな。ま、俺達は単純に『地下』って呼んでるけどな」
 そこは道幅が20mほどの通路だった。壁はワイン蔵のように煉瓦で覆われている。アーチ形の天井までは十分に遠い。足元は踏み締められた土かコンクリートのようだった。
 どこまでも通路は続いている。よく見ればところどころ横道になっているのか明かりが漏れている。
「あ、あれ?」
 と、僕は周囲を見渡す。
「明かりが?」
「あっちから光が漏れてるんだよ。ここの上には電燈はないけど、向こう側に行けばある」
 手に持ったマグライトを消し、朽木はポケットに戻す。ってか、さっきの鍵束もそこのポケットから出してたよな。どうなってるんだよ、お前のポケット。
「後は、ひたすら真っ直ぐ進むだけだ」
 肩に担いだ死体袋の位置を直し、朽木は歩き出す。僕もそれに付き従うが、好奇心が顔を出すのにそれほどの時間は必要としなかった。
「なぁ、この横の道って、どこに続いてるんだ?」
「気になるなら行ってみるか?」
 予想外に朽木はあっさりと言う。
「いや、そこ普通は時間がないとか後にしろって言うんじゃないのか?」
 朽木は足を止め、僕の真っ直ぐ顔を見る。
「ん、見たいんじゃないのか?」
「めっちゃ見たいです」
 頭を下げて僕は頼む。
「真っ直ぐ行って戻って来るだけなら大丈夫だろ。……多分」
 え?
「間違っても横道に入ろうとか考えるなよ。ひたすら真っ直ぐに進めば壁に出るけど、近道とかで嬉しそうに横道に入ったりしてると絶対に迷うからな」
 そして、なぜか遠い目をして朽木は言う。
「広さだけなら、地下迷宮って言われてもおかしくないからな、ここは」
 迷ったことがあるな、こいつ。
「……行って来るよ」
 言われたとおりに真っ直ぐに進んで行く。
 20m幅の通路が外周で、次の通路までの間が……壁の厚みが10mくらいか。そして、次に通路の幅も20m。と、今度の壁はやや厚、い……へ?
 そこに出た瞬間……僕は微かな眩暈を感じた。
 広かったのだ。予想の範囲を超えて、あまりに広過ぎるのだ。
 ゆっくりと顔を上に向ける。天井は三階分以上の高さは余裕である。背の低い三階建てのビルなら余裕で入りそうだ。
 そして、ところどころでかい支柱が立っている。一辺が大人でも両手で足りないほどだ。そして、支柱の間隔は40mか50mか。それがどこまでも続いている。
「何だ、ここは?」
 薄暗い照明のせいもあるだろうけど、その支柱は見えなくなるまで続いていた。
 確かに、これは迷うだろう。朽木が迷宮と言ったのも頷ける。
 僕はふらふらと横の壁に手を着く。この壁から手を離さずに戻るんだ。
 しかし、と僕は考える。
 この地下回廊は出島そのものの大きさ以上に感じられる。いったい誰が、何の為に掘ったんだ。いや、それ以前に……いつ掘られたんだ?
 昔、生きていた頃にRPGのゲームで色んな地下迷宮があったけど、リアルで見たそれは想像していたのと全く違っていた。その迷宮の大きさだけで気持ち悪くなるような代物だった。
 いや、マジで気持ち悪い。高い所が苦手なヤツが「気持ち悪くなる」って言ってたのが初めて理解できた気がする。
「お帰り。予想通り、見事な顔色だな」
「うるせえよ。ってか、予想が出来てるなら止めろよ」
「ま、これで逃げ出そうなんて考えは消えただろ」
 嬉しそうに朽木は笑う。ケンカを売ってるのか、こいつ。
「最初から逃げる気なんかないよ」
「そか」
 短く言い、朽木は歩き出す。
 そして、また無言の行軍が続く。が、それはまたしても長くは続かなかった。
 僕が無言の圧力に負けただけの話だが。
「なぁ、ここって誰が掘ったんだ?」
「ん。あぁ……俺だけど、何だ?」
 死体を担いだまま朽木は振り返る。
「お前かよ!ってか、どれだけ時間が掛かったんだよ」
「ま、正しくは『俺達』だけどな。それに……俺達がここに堕ちてから何十年経っていると思ってるんだ?」
 逆にそう聞かれたが、僕は返す言葉が無かった。
 無限ほどの時間の流れ、そして受け継がれた作業。何の為に?もちろん決まっている。僕らに堕ちる事を強いた存在に……神に復しゅ
「嘘だけどな」
「へ?」
第二次世界大戦の終わりに出来たんだよ、ここ」
 え?第二次世界、大戦???
「いや、終わってからだっけか?詳しくは俺は知らん」
「ちょ、ちょっと待て。じゃぁ、これも改変で作られたのかよ」
「そうなるな」
 あっさりと朽木は言う。
「じゃ、ここは秘密の通路とかじゃなくて」
「安心しろ。風紀委員と生徒会はここの存在を知らないさ」
「生徒会も?」
 朽木は無言で頷く。
「その辺も……ここを出たら話してやろう。それに」
 朽木は僕を見ながら言う。
「まだ正気じゃないっぽいしな。もうちょっと頭がはっきりしてからの方がいいだろう」
 いや、もう頭ははっきりしてると思うんだが。ってか、それって僕は素で馬鹿だって言われている気がするぞ。
 
 
 突き当りまで歩き、壁に沿って左に曲がる。
 曲がってから更に延々と歩き……一時間二十三分の後、今度は右に曲がる。
「この真上が出島に入る橋になるんだ。……そういや、あの橋の名前って知ってるか?」
「いや、知らないけど」
 朽木の言葉を聞きながら僕は視線を上に向ける。っていうか、この上って海になるのか?
 何かに怯えるように僕は上を向いたまま喉を鳴らす。
「出島大橋って言うんだよ」
「へぇ、そうなのか」
 興味ないな。どうでもいい話だ。
「……嘘だけどな」
「嘘かよっ!」
 僕はツッコミを入れながら腕時計に目を落とす。
「ところで……」
「あァ、まだ何かあるのかよ?」
 さっき騙されたばかりなので、僕は不機嫌に返事をする。いや、それよりもこの上が海だと言われたのが僕は気になっていた。上を向こうとする視線を意識して前に向ける。
「そのナイフは武器として使えるのか?」
 長い廊下の端、大型の機材の搬入にでも使えそうな廊下の奥、一面に張り巡らされた格子の前で朽木は振り返る。
「え?あ、あぁ……普通に切れるけど」
 何でそんな事を聞くんだ?
「そういう意味じゃない。それを武器として、お前は今でも戦えるのか?と聞いたんだよ」
 その言葉に、僕は視線を右手に持った武器に落とす。
 ただそれだけで……僕は何も考えれなくなっていた。
 このナイフで何をしたのか?何を斬ったのか?何を、誰を殺したのか?
 分かっている。分かり過ぎるくらいに分かっている。分かっているはずなのに、何も考えれなくなっていた。
 鈍い、音が聞こえた。
 顔を上げると、朽木は牢屋のように見える格子の骨組みに小さな金具を当てていた。いや、違う。あれは……鍵だ。
「こっちを向け」
 平坦な声で朽木は言う。
「無理に戦えとは言わない。だけど、な。ここが出島と外の境界線なんだよ。つまり、ここから先はゾンビがいる。いて当たり前の世界なんだよ」
 肩に担いだ死体袋の位置を直し、朽木は続ける。
「普通なら助けてやるんだが、俺はこの通り荷物を担いでる。お前、不細工だし、可愛い女子じゃないし、俺としても可愛くない野郎を援」
「……うっせぇ」
 朽木の軽口を無視して小さく僕は呟く。
 沈黙したまま僕らは視線を交わす。
「はぁ?」
 右手を耳の横で開き朽木は聞き返す。が、その他人を舐め切った白々しい態度に僕の苛立ちは最高潮に達した。
「うっせえっつったんだよ!!!!さっき何なんだよ、お前は。嘘ばっかり教えたり、適当な事を言ったり。僕はどうしてこうなったのかを知りたいんだよ!どうして、僕が夏実さんを殺さなくちゃならなかったのか、どうして、僕が逃げなくちゃならないのか、誰が悪いんだよ。誰が、誰が敵なんだよ!!!」
 僕は叫びながら朽木に詰め寄る。
「誰を殺せば自由になれるんだよっ!!!」
 朽木は何も言わない。ただ冷めた目で僕を見ているだけだった。
「何とか言えよ!」
 怒りのあまり地団太を踏みそうだった。
「半呆けでも多少は分かってるみたいだな」
 朽木との距離を少し外し、正面から睨み直す。
 まだ、ふざけてるのか。
「お前はさっきから僕の正気を疑っているみたいだけど、そんなに僕が狂っているように見えるのかよ」
「う〜ん、まぁ……普通じゃねえな」
 朽木は僕の左手首を指差す。
「例えば、それ。何で急に時間を気にしだした?正確に十歩に一回、時計で時刻を確認しだしたんだ?」
 朽木は続ける。
「それに、その右手。爪を噛み過ぎて血が出てるじゃねえかよ。んで、さっきまで普通に会話してて次の瞬間には叫んで怒りまくってる。分かり易いほどの情緒不安定じゃねえか」
 つまり、と朽木は言う。
「お前は出島から離れる事に恐怖しているんだよ。だが、その恐怖はどこから来ている?殺人現場から離れる事に対して、その場所から姿を消すことに対して、罪悪感を抱いてるのか?殺人を犯して未だに捕まっていない事に対してなのか?」
 朽木は罪を問うように僕に語り掛ける。
「それとも……お前を逃がすまいとする、何者かがお前に罪悪感を植え付けているからか?」
「僕の罪悪感は……僕のものだ」
 これは夏実さんを殺してしまった僕の、僕だけのものだ。
「はぁ?そんな事を本気で考えているのかよ。もし、それを本気で言ってるなら……お前は本気で狂ってるぜ」
 朽木の言葉を聞きながら、僕はナイフを強く握る。
「人格を操作され、切り裂きジャックを模倣させられたんだぜ?お前は殺人者に仕立てられ、佐々木夏実はその被害者にされただけだ。お前が責任を感じる必要なんかないんだよ。そもそもその被害者ってのはヒトガタだろ?」
「黙れ」
 僕は怒りを噛み殺すように小さく呟く。
「何で、お前は殺人者じゃないって言われてんのに、そんなに怒ってるんだ?その反応からして普通じゃないって解らないのかよ」
 僕は何も言わない。言わずに、全身の無駄な力を抜く。目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
 小さな舌打ちの音が聞こえる。
 息を吸い、止め……目を開く。
 と、同時にあの鈍い音が響く。
 また朽木は背中の格子と手に持った鍵を打ち合わせていた。
「お前とやり合う気はねえっての」
 格子に背を向けたまま朽木は鍵を開ける。そして、僕の方を向いたまま、ゆっくりと格子を潜る。
「ゆっくりとこっちに来い。それだけでいい。こっちに来るんだ」
 いつの間にか朽木は拳銃を手にしていた。っていうか、そこまで信用できないのなら、さっさと撃てよ。
 銃口が下に向けられるのを確認し、僕はゆっくりと進み出す。
 朽木の動きに注意しながら格子を潜り、安全地帯を後にする。
 ここからがゾンビの彷徨う場所か。
 格子を抜け、二歩三歩と僕は横に避ける。
 朽木が鍵を閉めている間、ゾンビが来ないのを見張っている。
 ま、あれだけ騒いでたのに物音一つしないんだ。目の届くところにはゾンビはいないんだろう。
「落ち着いたか?」
 横に並び朽木が聞いてきたが、僕は返事を返す気なれなかった。が、そういう訳にもいかないか。
「落ち着いたかどうか知らないけど……一つだけはっきりした事があるよ」
「ほぅ?」
「お前の性格は最悪だ」
 くっくっくと朽木は喉の奥で笑う。
「それは……今更、だな」
 歩き出した朽木の背中を僕は静かに睨み続ける。
 もうこいつには何も聞くまいと思いながら。
 
 そして、それから数分の後に僕らはあっさりと地上に出る。
 出口も小さな雑居ビルで、もちろん廃ビルだった。
 幾つもある横道の一つ、その奥にある骨組みのような階段を上り……モルタルの床にコンクリートの打ち付けの壁になると、すぐに出口だった。
 門も格子も閂もない。ごく普通の出口だった。
 振り返って階段を見ても、そこが地底にまで続くような階段には見えない。普通に地下が、地下一階があるように見える。
 そして、僕は珍しく予感めいたものを感じていた。
 僕はもう二度と、あの出島には帰ることはないだろう、と。