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河童
低い雲がその色を変えていく。今日は風が弱い。山肌を隠す霞も静かに動かない。
この肌に冷たさを感じさせる朝露も日の出と共に消えるだろう。
星が消え、空が青さを持ってから、どれほどの時間が経ったのか。
この日、今日というこの一日をここに座り迎えるのは何度目だろう。
重く頭を垂れた穂の香りが鼻を擽る。
あれほど五月蝿く騒いでいた雀たちも今は静かに太陽が昇るのを待っている。
傍らに置いた白木の新調したばかりの鎌の柄は、濡れてその色を深い茶に変えてしまった。
これも、毎年のことだ。
皺の浮いた手を組み、微かに漂う風を感じるように、風の中に隠れる秋の薫りを味わうように顎を上げる。細めた目の中に青い空と薄く白い雲が見える。
目を閉じ、耳を澄ます。
鳥の声に混じる小さな穂の擦れる音を感じる。
大きく息を吸い、鎌を手に、膝を押さえるように立ち上がる。
ぼくっ!
何かが外れるような音が体内の置く深くから聞こえ、私はぺったりと元の位置に腰を落とした。
腰か?
一瞬、ぎっくり腰になったのかと思ったが、何かが違う。いや、幸運なことに、この歳までぎっくり腰の経験は無いが、それでも何かが違うのは自分でも判った。
体が動かない。
足はもとより、手も首も、眼球さえも動かない。
最初の衝撃で、ぽかんと開けまたままの口も、その中の舌も動かない。
これでは助けを呼ぶことも出来ないではないか。いやいや、助けを呼んだことで、この時間では声の届く範囲には誰もいないだろう。
愕然と正面を向いたままの私の後ろから、ひょっこりと子供が顔を出した。いや、子供と見えたのは私の知っているその姿形を持っているのが、人間の童だけだからだ。
今、私の前でにやにやと笑っている生き物は子供ではなかった。
もちろん、人間でさえなかった。
痩せた細い手足。
ひび割れた緑色の皮膚と背中の大きな甲羅。
つるつると磨かれたような空と雲を映す頭頂部と河藻のようなもつれた髪。
ぎょろりとした黒目がちな瞳を持つ目と低い鼻……潰れて横に広がった嘴。
そう……目の前のそれは昔話に出てくる河童の姿をしていた。
手に持った黄色い玉と私の顔を交互に見ると河童は嬉しそうに「うけけ」と笑った。
河童は、ひょこひょこと踊るように畦道を進むと、私の視界から消えていった。
その後、私は夕方まで瞬きも出来ず、一人じっと座り込んでいた。
近くと通る人が何人かいたが、一休みしていると思ったのか、単なるぼけ老人と思われたのか、誰も私の異常に気付いてはくれなかった。
まぁ、それでも無事に保護されたのだから運が良かったのだろう。
病院で点滴を受けると、私の体調は徐々にだが正常な状態に戻っていった。
医者は何があったのかは尋ねず、代わりに野良仕事をする老人がときどき腑抜けたようになって病院に運ばれると教えてくれた。原因は不明だと言っていたが、当然私は知っている。
しかし、それは誰にも言えない。
本格的にボケたと思われたくないし、何よりも世の中には不思議があった方が良いと思ったからだ。
きっと、まだまだ誰も知らない不思議がこの世にはあるのだろう。
病室の窓から見える秋の空を見ながら、私は死ぬまでに後どれほどの不思議に出会えるのだろうかと思う。
誰も知らない。誰も信じない。誰も想像できない。そんな不思議に出会える日が来るなら……もう少し長生きするのもいいかも知れない。
尻子魂を抜かれるのは、もう勘弁してほしいが。