河童-Round2-
 
 
 私のことを憶えている人が何人いるだろうか?
 あれはもう何年前のことだろうか……私は野良仕事を前にして、河童に尻子魂を抜かれた男だった。
 その昔……江戸時代や明治の昔なら、私は廃人として残りの生を終えていただろう。しかし、近代医学は尻子魂を抜かれたぐらいでは揺るぎもしないようだ。
 私は数週間の治療で完治し、病院を後にしていた。
 しかし、ぎっくり腰と勘違いしたままの息子は私を年寄り扱いし、嫁はちょっとした物忘れでもボケが始まったのかと心配した。あまつさえ、隣保のやつらまで私が耄碌したと笑いおった。
 当時の私は定年退職していたとはいえ、まだまだ現役だった。
 新宅の山田の爺さんとは違うのだ!
 生まれて初めての屈辱だった。
 今は亡き婆様との初夜で早撃ちをしてしまい、大笑いされたときにも、ここまでの屈辱を感じはしなかった。
 日々、顎に怒りの梅干を作る生活だった。
 そして、近所の人間や家族は、私が倒れてから気が短くなったと言いおった。誰が私の気を短くさせているのだ!?
 山間に沈みゆく太陽に向かい、私は大声で「バカヤロー!!」と叫びたかった。
 しかし、そんなことをすれば、またボケ老人が叫んでいると、きっと口にするヤツがいるはずだ。
 生活の中に蓄積されていく怒り、吐き出すことのできない鬱憤、そして……孫娘に「おじいちゃん、入れ歯がくちゃい」とまで言われたら、誰が我慢できよう?
 私は復讐を誓った。
 家族や村の連中にではない。私の存在を貶める原因になった、あの河童にだ。
 ヤツに、私と同じ屈辱を味合わせてやる。
 ヤツの、尻子魂を抜いてやる!!
 
 
 私の特訓は家族に知られてはいけない。
 齢六十を過ぎ、筋肉トレーニングを始めたなど、誰が言えようか?いや、言っても構わないが、またボケていると思われるが癪だった。
 以前、早朝ジョギングを始めただけで、「もう、おじいちゃん、歳を考えてください」とあの嫁は言いよったからな。
 私は朝の野良仕事の後に裏山に入り、道無き道を駈け抜け、両手に持った鎌で藪を切り開き、密かに隠しておいた丸太でスクワットをした。河童の尻を貫く強度を得るため、指先を山の地面に突き立て、えぐり取る訓練も始めた。
 昼は渓流に出て、川魚を素手で捕り、それを焼いて食い、夕方になるまで山の中で暮らした。
 昼間、家にいないので、また嫁がうるさく言ったが、「散歩ぢゃ」とだけ言っておいた。
 特訓は決して楽ではなかった。
 若い頃と違い、ちょっとした切り傷が治り難かった。筋肉痛は骨を軋ませるほどの痛みを感じさせた。しかし、私が受けた屈辱を思えば、そして、ヤツの尻子魂を抜けるならと思えば、それらの苦痛さえも甘露だった。
 そして、現在……18歳当時の絶頂的肉体と同じ筋肉を備え、この世に生を受けていらい、感じたことのない野生を身に付け、私と言う存在は完成していた。
 
 
 待つことは苦痛ではない。伊達に歳は喰っていない。
 私は最低限のトレーニングを続けながら、日々ヤツが現れるのを待った。
 ヤツの好みは熟知している。
 まだ太陽が昇る前の明け方……川のほうを背にし、座っている人間だ。
 磨き上げられたダイヤモンドの如く研ぎ澄まされた私の野生は、今や半径20m以内の動植物の動きを感知するまでになっていた。
 ヤツがどんなに気配を殺していても……無駄である。
 そして、いま……私のフィールドに足を踏み込んだヤツがいる。
 ゆっくりと音を立てず……息を殺し……ひょこひょこと……川のほうから歩いて来る。
 身長は140cm……推定体重……48kg……細身ながら重さがあるのは、その背中に大きな荷物を背負っているからだろう。
 徐々に近付いたヤツがゆっくりと右手を出し、私の尻に触れようとした瞬間、私は一気に跳躍した。
「とぅ!」
 空中で身を翻し、ヤツの背後を取る。
 ヤツは……河童は予想外の展開に反応できず、動きが固まっていた。
「フォォォォォォォオオオオ・・・」
 息吹の如く息を吸い、無駄な緊張を解すために両腕をでたらめに動かしまくる。
 狙いは決まった!
 ヤツの……河童の背中の甲羅の下だ!!
 腰を落とし、右手を引いて身構える。メキィと手の平の筋が音を立てた。
「ずぉりゃぁぁああああ!!!!」
 裂爆の気合と共に腕を繰り出し、河童の尻に打ち込む!
「ほけっ!きゃぽがっがががががががっががががが……」
 私の必殺の一撃を肛門に喰らい、ヤツがあり得ない叫びを上げる。
「ぬぉぉぉぉおぉぉぉおおおぉぉおおおおお!!」
 更に深く捻り込み、私はその奥にあった丸い物体を掴む。
 これが尻子魂か!?
「ぬん!」
 玉を掴んだまま、一気に腕を引き抜く。
「ぽ!」
 河童は気の抜けた声を出し、三歩前に足を踏み出した。勝利の笑みを浮かべ、私は手の中にある丸い玉を見る。
 ……なんだ、これは?
 茶色く……生暖かく……微妙に湿り気と弾力がある。
 手の中にある玉は、私が予想した尻子魂とは似ても似つかぬ物だった。
 ……これは、河童の糞か?
 がに股に足を開き、両手で尻を隠した河童が涙を流しながら、私を振り向いた。
「ちっ」
 舌打ちしながら、私は河童の糞を地面に捨てる。そして、再度、ヤツの尻を狙おうと顔を上げる。
 河童は私と目が合うと、びくっと怯え、背中を見せた。
 ぬ!?逃げる気か???
 そう思ったときには、すでに遅かった。
「ぴぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 河童は、がに股のまま両手で肛門を押さえ、下痢になったアメリカ人のようなベタなポーズで逃げ出した。
 その小さな身体とポーズからは、信じられないほどの速度だった。
 ちっ、逃げられたか。だが、まぁ……いいだろう。これでヤツも無防備に背中を向けている人間を、そう簡単に襲う気になれまい。
 私は地面に捨てた河童の糞を見る。それはまだ丸いまま、地面にころんと転がっていた。
 今日の記念に持って帰るのもいいかもしれんな。
 私は河童の糞を拾うと、ゆっくりと家路に着いた。
 
 
 家に帰ると、嫁は私が手に持っている物を見て、「おじいちゃん、ボケてないなら、動物の糞とか家に持って帰って来ないで下さい!」と喚きおった。