魔弾
 
 
 その部屋は静かで、無機質な印象を与えた。
 僕が座っているソファは柔らかい岩で、テーブルに置かれたグラスの中身はプラスティックの偽物だろう。勿論、グラスに浮かぶ水滴もフェイクだ。
 壁際に設置された本棚―高そうに見えるブリキの本棚―を飾っている、ご大層なハードカバーは全て白紙であり、リアルな模型は……模型は模型だ。
 ソファセットとテーブルの所為で豪華に見える絨毯も、実際はカーペットの粋を出ていないに決まっている。
 もしかしたら、ただの厚紙かもしれない。ケバだった厚紙だ。
 分厚いベニア板で作られた机の向こうに、さらに分厚い男が座っている。そのさらに向こうに見える夜景―美しい都会の夜景―は、一枚2ドルのポスターだ。
 その証拠に夜景は、時間を忘れたように動こうとはしない。
 新月の、星だけが瞬く空の下の夜景。
「では、もう一度だけ聞くが……」
 太った男が白紙のハードカバーを見ながら、溜息のような声で言った。
「何度、聞いても同じですよ」
 これは僕の言葉だ。
「いや、聞かせてくれ。君は本当に自分が狼男だと信じてるんだね」
 頭の悪い男だ。僕は信じてるんじゃない。事実、そうなんだ。
 猫は、自分を猫だと思わない。でも、人は自分を人だと自覚する。
 それを誰が信じると表現する?
 僕は、改めて相手の顔を見た。
「あなたは……父が悪趣味な冗談の為に、僕をわざわざニューヨークに来させたと思ってるんですか?」
 太った男『ジョージ・デブリン』はハードカバーを閉じて、僕の顔からその表紙に視線を移した。
「わからない。……わからないんだよ。君の父親のケント・パッカードは真面目な男だ。しかも、保守的で信心深い人物だった。」
 デブリンは大きく息を吸い、続けた。
「彼の性格を考えると、一人息子の君をニューヨークに……この治安の悪いニューヨークに来させるとは思えない。君が一人でここに来たと聞いたとき、私がどう思ったか言おうかね?」
「家出をした馬鹿息子が、父親の知り合いの作家を訪ねてきた。しかも、馬鹿息子は馬鹿の見本のように俳優に、作家でもロック歌手でもOKですが、それになる夢を胸に抱いている。知り合いの叔父さんの知り合いに頼んで、端役でも貰えれば、後は実力で大スターになるつもりだ。……一言で言うなら、『家出をして来た』ですね」
 デブリンは、二重顎を四重に変え、元に戻した。
「その通りだ。だから、私はケントに電話を入れた。君に黙ってね」
「当然の行為です。もし、あなたがそうしなかったら、僕は直ぐにここを出ていたでしょう。ニューヨークはホモが多い」
 僕は、テーブルの上の置時計を見ていた。これだけは、多少値段が張るように見える。
 きっと、誰かからのプレゼントだろう。出版社からの物の可能性が高い。
 この太った男に、ガールフレンドがいると、僕には思えなかった。プレゼントを贈るようなガールフレンドが、だ。貰う側なら、たくさんいるだろう。
「君のお父さんは……」
 不意に、男の声の質が変わった。僕は、驚きを顔に出さずに緊張する。イブカシムってヤツだ。
「ケントは、君の事をよろしく頼むと言っていた」
 机に肘を突き、重ねた指で口元を隠し、デブリンは続ける。
「彼は、ようやく私の言葉を信じてくれた。私が作家になった理由をだよ」
 この太った男は、何を言いたいんだろう。
「私は創作を通じて人に真実を語りたいと、君のお父さんに告白した事がある。私の小説のジャンルを知っているね」
「知っています。あなたの本は読んでますからね。父の書斎には全巻揃ってますよ」
 今度は、男の首の肉の変化は見えなかった。
 静かに目を閉じ、再び開ける事で、頷くと言う行為を表現していた。
「ホラーです。しかも、B級って言われるような。……コミック小説って表現もある」
 僕は、不安を隠すように饒舌になる。言葉数は少なくても、ほんの少し早口になればそう聞こえるはずだ。
「私はね……両親を狼男に殺されたんだよ。当時、私は祖父を入れて五人家族だった。ヤツは、何の前触れも無く窓を突き破り、私達の前にその醜い姿を現わした。そして咆哮したのだ。最初の犠牲者は……まだ赤ん坊だった妹だ。彼女は大きな毛だらけの手で行き成り掴み上げられた。そして……その腹を噛み切られた。食い千切ったと言っても良い。後で聞いた話によると妹は背骨の一部まで噛み砕かれていたそうだ。」
 僕は何も言わず、デブリンの次の言葉を待った。
「私は……幼い私は恐怖した。いや、未だに恐怖は拭い切れていない。狼男の目を見たからだ。あの目は……狂ったように赤く燃えていたあの目は、人間の知性を持っていた。……ヤツは、妹の身体を壁に叩き付け、私の父親の前に走り出した。その時、私は誰かに助けを求めたかったのを憶えている。だが、声は出なかった。父も母も……恐怖に目を開いたまま動く事が出来なかった」
 そこでデブリンは言葉を切った。
 静かな冷たい目で僕を見る。
「ヤツは、父の顔に噛み付いた。ごきりと言う音がしたよ。即死だったろう。そして、父の横に座っていた母親の手を掴み、引き寄せた。母はそこで初めて悲鳴を上げた。狼男の目に殺意や飢え以外の色を見て取ったからだ。そして……二階から降りて来た祖父の怒りの声と三発の銃声が全ての幕を引いた。……母は祖父の銃弾で死んだんだ。だが、私はヤツが殺したと思っている」
 僕はデブリンの顔を見ながら、静かに頷いた。
「私は……ヤツ等の存在を人に伝えたいと思っていた。誰も信じないと理解しながらもね。だから、創作を続け……もし、もしもだよ、不幸にも怪物に遭遇してしまっても、何らかの対処が出来る擬似体験を読者にさせる為にだ」
 デブリンは、僕から視線を外し、机の上のハードカバーに目をやる。
 ゆっくりと、優雅な手付きでページを捲る。
「まさか……再び、私の前にそいつが現われると思わなかったが」
 静かに立ち上がるデブリン。
 そして、ハードカバーの中から、黒い拳銃を掴み出す。
 その銃口を向けられても、僕は……何の反応もしない。
 彼の目を見るだけだ。
「ケントは……君の父親は信心深い男だった。彼は、ビーストをこの世に生み出した責任を取る為に、君の母親を射殺したそうだ。警察には、教会で懺悔した後に自首すると言っていた」
 その言葉にさえ、僕は驚きを感じない。父なら、そうするだろうと理解しているからだ。
 ただ、何も知らないまま死を迎えた母親のために、微かに眉を寄せるだけだった。
「もう一度だけ言おう。私は狼男に家族を殺された。そして、君の父親は私の告白を信じ、君の事を『よろしく頼む』と言ったのだよ」
 デブリンは、何の表情も浮かべず、引き金を弾いた。
 
 
 聞こえないはずの銃声が、間延びして聞こえた。そして、デブリンの快活な笑い声が安っぽい部屋に響く。
 一瞬、遅れて監督の「カット!」の叫び声。
 そして、スタジオは喧騒に包まれる。
「ヘイ、ラルク。最後の笑い声はアドリブかい?」
 監督が、露骨に迷惑そうな顔をして、デブリン役のラルク・バーグマンに聞いていた。
「まさか。ただ……リック坊やが、あまりにも真剣な顔をしてたから笑っちまったのさ」
 ラルク・バーグマンは、僕にウィンクをするとカメラの方へ足を運び、奥に消えていった。
 僕は、まだセットのソファに座ったままだ。目を閉じ、狂った鼓動が収まるのを静かに待っていた。
 僕は、恐怖のあまり動く事が出来なかった。そして、この恐怖は一生消える事はないだろう。
 彼の……ラルク・バーグマンの殺意は本物だった。