nostalgia
 
 
 縁側を歩いていると、ついつい庭で鳴き狂ってるセミに恨めし気な視線を送ってしまう。
 この暑さはセミの所為じゃないし、セミが鳴いたからって気温が上がるわけじゃない。そんなことはわかってるのに、苛立つのは不快指数と体感温度が上がるからだと思う。
セミの声がうるさいってのはわかるけど、それは言い過ぎなんじゃないかな?」と、思う人は秋の初めの鈴虫の声を思い出して欲しい。
 絶対に表情が緩むはず。
 何の感慨も沸かないままにあの鳴き声を思い出した人は、多分……今、十分に冷房の効いた部屋で寛いでいるはず。
 しかも、然したるストレスも無しに。
 羨ましいことですね。
 もちろん、上の一言は嫌味です。
 季節の移り変わりも感じることの無い生活は、あたしは遠慮させて貰います。そして、これは強がりです。
 そんなあたしの今の願いは一つだけです。
 贅沢言いませんから、この壊れた扇風機を直して下さい。
 雨戸と障子を開いただけじゃ涼しくならないよ。っていうか、この田舎の無駄に広い家の中に、どうして扇風機が一台しかないんですか?
 お祖母ちゃんは元気にゲートボールに行っちゃうし、猫のコマメは板間で長々と伸びて寝てるし、まだ朝の8時15分だってのに気温はがんがん上がってくるし、このままじゃ死んじゃうよ、あたし。
 そりゃさ、扇風機を壊したのはあたしだけど、それだってワザとじゃないし……だって、エアコンが無いんだよ。
 寝てる間に、ちょっとでも涼しくなろうと、扇風機の首に手を掛けて動かすくらいするじゃん。そいで、ちょっちだけ力加減間違えることだってあるじゃん。
 どうして、家電メーカーは簡単に壊れるように扇風機の首を作ってるの?
 扇風機の買い替えを推奨してる?
 それともナニ?この細腕のうら若き乙女のあたしが怪力の持ち主だって言いたいの?
 もう、やってらんないよー。
 それでなくても暑いのに。
 も、足広げて座っちゃうもん。
 だらしなくごろごろしちゃうもん。
 うぅ、朝8時から開いてる電気屋さんて無いのかな?
 団扇と風鈴だけじゃ涼しくならないよ。しかも、この団扇……地元の夏祭りのヤツじゃんか。まさか、風鈴も……あ、やっぱり、そうだ。
 風鈴の下でぶらぶらしてるお札に銀行の名前が書いてある。
 お祖母ちゃん、何かと始末し過ぎだよ。
 そういや、あの扇風機もやたら古かったよね。あたしが生まれる前に減価償却終わってる感じっていうか、大正ロマン全開っていうか……ガラクタですか?
 最初見たときはクロム鍍金がカコイイとか思ったけど、簡単に壊れるようじゃダメです。
 あぁ、なんか頭がくらくらしてきたよ。
 これって、あれですか?炎天下の車の中で死んじゃうヤツですか?昨日の夜、暑くて寝れなかったからなぁ。
 このまま目を閉じたら……寝られるのかな?
 寝ちゃったら……暑いの……感じ……ない……?
 
 
 赤と黒の混ざり合った目蓋の裏がゆっくりと溶け……あたしは黄色く乾いた地面を見ていた。さらさらになった砂の粒の一つ一つに濃い影が落ちている。
 その視線を空に向ける。
 青い空はそこにはなく黄ばんだ薄い膜に包まれたような空がそこにあった。雲は変わらず白いままなのに、空の色だけが違っていた。
 それでも抜けるような高さと透明感の深さで、それが夏の空だというのは一目でわかった。
 そう、今は夏だ。
 物の陰影を際立たせる日差しと、動かない影の黒さが狂いそうな季節の激しさを伝えてくる。
 夏。そう思った瞬間、静寂が破れ、夕立のようなセミの声が鳴り響きだした。
 ぼんやりとあたしはその声の元を探し、視線を巡らす。が、セミの声に方向性は無く、ほんとうの夕立のように天上の空から降り注ぐようだった。
 ここはどこ?
 見慣れた垣根と庭木があり、そこにあたしはふらふらと入って行く。田舎の古い家があった。
 縁側に立て掛けられた葦簀が薄い涼しげな影を作り、その中に浴衣姿の女の人が座っていた。
 団扇を手に、静かに歌を口ずさむ彼女はときおり目を細め遠くの音に耳を傾けているようだった。
 彼女の座る縁側の奥で、浴衣姿の若い男がクロム鍍金の扇風機の前で新聞を読んでいた。
 扇風機の風に新聞が煽られるのを水滴の浮いたグラスで押さえ、首に掛けた手拭でときおり汗を拭いている。
 背を向けた彼の右手にはお盆に乗った瓶ビールと枝豆があり、新聞を読みながら片手で器用に豆を剥いている。
 彼が思い出しように振り返り、縁側に座る彼女に声を掛けた。
 彼女は歌うのをやめ、彼の方に向き直り、ゆっくりと首を振り微笑む。
 二人の声はあたしには聞こえなかったが、頬にあたる風と同じく、どこか懐かしい優しさがそこにはあった。
 
 
 頬にあたる風の感触と懐かしい子守唄にあたしはゆっくりと目を開けた。
 眩しい夏の日差しに眉をよせながら、傍に座るお祖母ちゃんを見る。
 お祖母ちゃんはあたしが目覚めたことに気付かないまま、庭に視線を向けている。
 ゆっくりと団扇で扇ぎながら口ずさむ歌を耳に、あたしはもう少しだけこのままでいることにした。