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蝉時雨
正午を3時間も過ぎると、多少は日差しも衰えてくれればいいのに……。
私は背の高い隣家の庭木の木陰になった縁側に座り、栞を挟んだままの文庫を横に、ぼんやりと白い入道雲を見ていた。
久々の帰郷。でも、今日は私の他に誰も家にいない。
静か過ぎる午後。お盆に置いたグラス。その水滴が滑る音が聞こえてきそうな昼過ぎの時間。
こう書けばアンニュイな感じだが、実際は、土砂降りの雨よりも酷い蝉の声で、風鈴の音も消されてしまってるのが現実だ。
蝉の鳴き声が途切れ、風鈴の音が帰ってくる。そして、その風鈴の音が蝉の鳴き声を呼び戻す。
ほんと、風鈴を外せば、この鬱陶しい蝉の声も消えるんじゃないかしら?
グラスを取り、軽く振って−小さな氷の音−中の梅酒が混ざり合う向こうの景色を見ながら、ゆっくりと口元に近付ける。
喉を伸ばし、舌先に触れ口中に広がる甘味を楽しみながら、薄く目を閉じる。
氷の音に名残り惜しさを感じつつ、中身の減ったグラスをお盆に戻す。
濡れた指先を足の甲で遊ばせ、私は懐かしい歌を口ずさむ。
幼い頃の耳に憶えのある歌。静かな子守唄のような童謡。
これを歌ってたのは、お母さん?それとも、おばあちゃんだったのかなぁ。
思い出せない。
でも、懐かしい、優しい気持ちになれる歌。懐かしいと感じてしまうようになった家と家族。
徐々に移り変わっていく故郷の景色と私の中の私。
でも、変わらない物もある。
記憶や思い出。その風景や感情が移ろい揺らいでも、幼い頃の私は今もここにいる。
目に映る風景が変わってしまっても、故郷はそこにあり続けるように。
さて、のんびりとした時間を楽しむのも、もう終わりにしよう。
約束どおり、母が帰ってくる前に素麺を茹でておかなくちゃ。
素麺てさ、食べてる時は涼しくていいけど茹でてる時って地獄なんだよね。