失恋
 
 
 長い坂をあたしは駆け下りていた。
 町を見下ろせる高台にある公園が緩いカーブの向こうに消えていく。手に持った学生鞄を大きく振り、スカートの乱れも気にせず、ただ走り抜けて行く。
 唇を噛み、足元だけを見て、赤くなった頬を滑る風の音だけを聞きながら。
 じんわりと浮かんできた涙を感じ、あたしは前を向いた。
 溢れてくる涙は抑えようもなく、視線を空に向ける。
 青く高い秋の空がある。
 高台を飾る木の枝が頭上を抜け、また新しい枝が現れ視界の外へ消えて行く。
 白く薄い雲は何も気にせず、ぼんやりと浮かんでいるように見えるのに、耳元で風の音だけが狂った悲鳴のように鳴り続ける。
 嘘のような青さが、嵌め込まれた硝子のように悲鳴を上げている。
 不意に足元が乱れ、あたしは走るのをやめた。惰性に任せ、二歩三歩と前に進む。
 立ち止まりそうになるのを、手を膝にやり足を休めそうになるのを耐えながら、一歩また一歩と前に進む。
 じっと見上げる空の青さは走るのをやめても変わっていない。ただ風の音だけが静かに優しい物に変わっていた。
 目に溜まった涙の所為で雲の輪郭がぼやけている。それでも、薄い空を色を透かす雲がゆっくりと風に流され動いていくのがわかった。
 目を閉じると、一筋だけ涙が零れ落ちた。
 立ち止まり、じっと両手を握り締める。
 立ち止まるのはいい。
 泣くのもいい。
 でも、泣き崩れるのは嫌だ。
 身体が小さく震えている。もう一度、強く唇を噛む。
 微かな痛みが悲しさを刻み込むように広がっていく。
 それでいい。
 今は誰にも自分自身にも優しくされたくない。
 大きく息を吸い、あたしは坂の途中で生まれ育った町を見下ろした。
 小さな町だと思っていたけど、ここから見るとほんとに手の中で消えてしまいそうだった。背の低いビルが集まる町の中心地があり、その横に昼間は人気の無い商店街がある。
 それに寄り添いながら、東を通る川へと滑り落ちるような一本だけの線路。町外れのデパートと三棟の市営住宅。後は疎らな家と、切り分けられたような田圃が広がっている。
 その町の上を、雲の落とす薄い影がゆっくりと滑って行く。
 あたしはじっと生まれ育った町を見つめた。
 今も住む町なのに胸を締め付けられるような懐かしさがあった。
 
 
 誰かが言った……今日、世界は終わると。
 理由は知らない。
 それを信じたわけじゃない。でも、今日、世界が終わるなら、あたしが死んでしまうなら、彼に想いを伝えておきたかった。
 何も言えないまま死ぬのが辛かった。
 片思いなのは知ってた。彼に他にも好きな子がいるのも知ってた。
 でも、自分のほんとの気持ちも言えないまま、このまま死んでしまったら悲し過ぎると思った。
 大好きな男の子にそれを伝えるくらい許されるはずだと思っていた。
 彼は……悲しそうな顔をした。
 私がずっと好きだったって言ったら、何も答えず……ただ悲しそうな顔をしただけだった。
 彼も知ってたんだ。今日、世界が終わるって。だから、一人を選んでいたのに。あたしは自分の気持ちだけを押し付けて、彼を苦しめた。
 もう誰にも時間が無いのに。
 恥知らずで最低な人間だ。そんな……自分が嫌になって逃げ出してしまった。
 ほんとに最低だ。
 
 
 町の向こうで、遠く西の空で小さな細い雷が走る。それを見て、あたしは両手で鞄を抱き締める。
 風が揺らす枝葉の音が狂ったように騒ぎ出す。
 抑えきれない恐怖が意思とは無関係に視線を空へと向けさせる。そこには変わらない青い空がある。
 冷たく無常な風が髪を乱し、舞い上がって行く。死を謳うような烏の鳴き声が空を砕く。
 遠くから響くような地鳴りと群れを成して飛び去る無数の影。
 硬く身を抱き、目を閉じ、座り込む。
 怖い。死にたくない。助けて。怖いよ。
 お母さん、お父さん、あたし死んじゃうよ。
 やだ。
 死にたくない。
 声にならない悲鳴が心の中で繰り返されている。
 胸を肩を掻き毟り、身悶え、震え、髪を振り乱し、耐え切れず泣き叫ぶ。
 見上げた空に死の天使も救いの神も無く、ただ薄く白いぼやけた雲がゆっくりと流れ続けている。いや、ひとりぼっちで死ぬのはいや。
 怯えるあたしの肩に声も無く触れる人の手があった。
 振り返るよりも速く抱き締められた腕の強さに、あたしは何も考えられなくなる。
 抱き締めてくれた腕も胸も小さく震えている。
 風が凪ぎ、地鳴りが収まり、一瞬の静寂が世界を包む。
 あたしは震える彼の腕に、小さな自分の手を重ね、静かに目を閉じた。